五月二十六日

 平日は、ほとんど民宿のお客さんもいないが、農業体験はマンツーマンで指導が出来る機会が多い分、効率も良い。

 本日のお客さんは、泊まりっぱなしの画家先生のほかにもう一人、三十代女性、会社員の大谷さんがいる。

「今日は、午前中は夏野菜の種まきをして、午後はラッキョウの下漬けをしましょうか」

 基本的に農業体験の内容は、田植えや稲刈りなどのメインどころの作業は予約制、それ以外はその時々、時期や天候、そのほかの作業の進行具合によって、ほとんど私の独断で、数日前から当日にかけて決めている。お客さんに何をするか伝えるのは、送迎の時か当日の朝が多い。

 今日もいつも通り、朝食の席で本日の予定を伝える。

 大谷さんは、特にほかの希望もないようなので、予定していた通りの作業を行うことにする。九時までには掃除を済ませ出掛けるので、着替えなどがある場合は準備をしておいてもらうよう、併せて伝えておく。

 今日まく野菜の種類は、枝豆とトウモロコシだ。

 畑へ到着すると、まず、脇に建てられた小屋へ向かい、鍬やマルチシートを取り出し、畑の中へ入っていく。

 土づくりはすでに済んでいるので、今日の作業は畝作りからだ。

 自分の目の前にある土を、鍬で脇に軽く盛り畝を作る。一本十五メートルほどの畝を作り、そこに二条植える予定だ。

 防草用のマルチ張りは、二人での作業なので、一人の時よりはるかに楽だ。大谷さんにシートの端を持って畝の片側に立ってもらい、私はロールを持って反対側の端へ移動する。それから、お互いにシートの端に土を被せる。

 一人でやろうとすると、今大谷さんに持ってもらっていた方を固定させてから、ロールを持って移動し、反対側でも土を被せ……、と、これがなかなか手間なのだ。

 マルチには二、三十センチほどの間隔をあけて穴を開け、そこに種をまく。

 大谷さんは黙々と作業を進めるタイプの人なのか、ひたすら地面を見つめて、分からないことを聞く以外は、口数も少ない。

 その分私も自分の作業に集中でき、思っていたよりも作業はずっとはかどった。

「一つの野菜の畝は、思っていたよりも少ないんですね」

 大谷さんが、種をまき終えた畝を見て、ふう、と一息ついた。

「実は、枝豆は先週のうちにも、隣の畝にすでに四条分植えてあるんです。今日は、単純計算で一条五十本分の枝豆を、二条植えたので、夏には百本の木になります。先週のと合わせて、全部で三百本ですね。毎日三、四本ずつ食べたとしても、七十日から百日、だいたい二、三か月分くらいになりますね」

 大谷さんは『そんなに』と、もう一度畝を見てつぶやいた。芽が出たり実が付いたりするところを見なければ、労力の割には、成果が実感しにくいのかもしれない。

「実際には、実入りが少なければもっと減りますが、その逆で、豊作になる可能性もあります。そもそも、枝豆として食べられる期間が、三か月もないですね。毎日欠かさず食べるということも、あまりないので、民宿で消費するだけだと多いくらいです」

 お客さんには、自分の仕事の成果を感じてもらえるよう、冬以外はこまめに畑や田んぼの写真を撮って、ホームページに掲載している。ただ、やはり実際に野菜の成長を見てもらえないのは、こういった体験の欠点かもしれない。

「ご予約の際にご存じかもしれませんが、野菜はネット販売もしているので、民宿で多少余る分には、問題ないんですけどね。夏になったら、ホームページを覗いてみてください。宿泊歴のある方には、一回目は送料のみでお送りしていますので。きっと美味しい枝豆が生りますよ」

 ただ、夏野菜は特に、採れたてが美味しいんですけれどね、と付け加える。

 本当のところは、大谷さんがいる間に防虫ネットも張りたいのだが、さすがにこんな地味な作業をさせてしまっては申し訳ない。こちらは芽が出る前に一人で作業することにする。

 五月の末にもなれば、気温は夏並みになることも多いが、幸い今日は曇り空、午後からは雨の予報なので、比較的涼しい。とはいえ、作業中はやはり汗をかくので、こういった天候の日の方が、水分補給を怠って熱中症になりやすい。

 作業がひと段落したところで休憩を挟み、続けてトウモロコシの種まきに移る。

 トウモロコシの畝は土を盛らず、そのまま防草シートを張る。このシートはなくても良いし、ある程度育ったら剥ぎ取ってしまうのだが、夏の草取り地獄を少しでも緩和するため、張っている。一人で作業をすることも多いので、減らせる手間は減らしておきたい。

 こちらは、枝豆よりもずっと丈が高くなるので、枝豆よりも間隔をあけて種をまく。

 集中して畑仕事をしていると、ふと周囲の音や匂い、景色が、いつもより鮮明に飛び込んでくることがある。日々成長の勢いを増す若葉と、掘り返した土の匂いの中で、アカシアの花の香りがより際立って感じられた。ア街はいま、カシアの甘ったるい香りで満たされている。

「とりあえずは、こんなところですかね」

 種まきを終えたところへ、近くの水路から十分な水を与えて、午前中の作業は終了だ。

 果たしてこの中のどれ程の野菜が、無事収穫出来るだろうか。何事もなく成長してほしいと、祈るような気持ちで毎回畑に来ている。

 病気や虫はもちろんのこと、夏から秋にかけては害獣との戦いでもある。

 周囲の山と町の間には、害獣除けの鉄柵が設けられ、さらに田んぼや畑の周りには電柵も巡らされているが、特にトウモロコシは、実がなる前にまた網で囲わなければならない。

 ここまでしてもなお、荒らされるときは荒らされてしまうのだから、やはり農業はままならない。

 昼休憩を挟み、午後の作業を始める。

「ラッキョウも、畑から採ってくるんですか?」

 持参したエプロンを付けながら、大谷さんが問いかけてくる。どんな作業をするのか伝えていなかったのにもかかわらず、準備のいい人だ。

「残念ながら、ラッキョウはうちでは作っていないので、地元の農協から買ってきたものを使います。手順は簡単なんですが、何しろこの大瓶一つ分なので、ちょっと手間ですね」

 台所に用意した漬物用の容器に、ぽんと手を置く。

「ラッキョウは下漬けと本漬けがあって、今日のところは下処理と下漬け、いわゆる塩漬けまでします。酢漬けにするのはそのあとですね」

 まず、袋に入った土付きのラッキョウを大きなボウルにすべて開け、自分の左側に置く。大谷さんは私の向かい側に座ってもらい、二人の間には新聞紙を広げる。この新聞紙の上でラッキョウの皮を剥き、頭と根の部分を切り落とし、先ほどのボウルの反対側に置いたボウルに、処理済みのラッキョウを入れる。

「あ、一応手袋をしてくださいね。玉ねぎやニンニクと同じで、手に匂いがついてしまうので。あと、私はいくらか手の皮が厚いので大丈夫ですが、人によっては、作業の後、手が痛くなってしまうみたいなので」

 大谷さんに手順を説明すると、あとは単純な作業を繰り返すだけだ。午前中はなかなかハードな作業だったので、ここでは、のんびりと手を進める。

「これは、漬けてどのくらいで食べられるようになるんですか?」

 この場に慣れてきたからか、座りっぱなしの作業だからかは分からないが、午前中に比べて大谷さんとの会話は少しだけ増えた。

「そうですねぇ、レシピにもよるでしょうけれど、私の場合は下漬けが十日くらいで、そのあと塩抜きをして、本漬けをして、そこから一週間くらいで食べ始められるようになるので、三週間かからないくらいですかね」

「はぁ、そんなにかかるんですか。それじゃあ、今日は食べられないですね」

 最初に比べ、明るく感じられるようになった大谷さんが、また残念そうな表情を浮かべる。

 今日の作業は、すぐに成果の得られるものばかりではないので、大谷さんには少し申し訳なく思う。

 保存食も種まきと同じで、大抵の場合作った本人はそれを食べられない。加工食品となると、野菜の販売だけなら不要な、届け出や表示ラベルの準備などが必要になる。これ以上の手間が増えてしまうのは、なかなか難しい。

「替わりといっては何ですが、しっかりと消毒と下漬けをしたラッキョウは、一年は美味しく食べられるので、今日のところは、去年のラッキョウでご容赦ください」

 大谷さんは『はい』と答えてくれたが、その表情はどこかぎこちなかった。

 途中、皮剥きを大谷さんに任せて、瓶の熱湯消毒を行う。

 全てのラッキョウを剥き終えると、水洗いし、細かい皮の破片や土を落とす。洗ったラッキョウはよく水気をふき取り、総量の十パーセントほどの塩を全体に馴染ませ、瓶へと詰める。

 漬物の瓶は、土間で保管する。真夏になればさすがに冷蔵庫へ移動させるが、それ以外の時期では、食料の保存にはうってつけの冷暗所だ。先生が半アトリエ化させているのだけが気になるが、まあいいだろう。

「さ、今日出来る作業は以上です。あとは、発酵してガスが発生するので、定期的に蓋を開け、十日後には下漬けが終わります。お疲れさまでした」

 土間の扉を後ろ手に閉め、台所へ戻る。

「ありがとうございました。黙々とする単純作業が好きなので、楽しかったです」

 そういう大谷さんの表情に、先ほどのような陰りはない。きっと、こちらは本心なのだろう。

 お茶と簡単なお菓子で一服すると、時刻は三時を過ぎたところだった。

「それじゃあ、少し早いけどそろそろ夕食の支度をしましょうか。とりあえず、裏の山からアカシアの花を採ってきて、それからそこの畑で、サニーレタスと二十日大根を採ってきましょう」

 夕飯の支度といっても、材料を揃えるところから始めるので、この時間でも早すぎるということはない。

 それに、午後から降るという予報だった雨も、まだギリギリ降っていないようだ。今のうちに急いで外の用事を済ませてしまいたい。

「今日行った畑以外にも、畑があるんですか?」

 今日種まきをした畑は、民宿から一キロほど離れたところにある。田舎であれば、お隣さんが一キロ先ということもままあるが、流石に一キロ先の畑を『そこ』とは表現しない。

「えぇ、もちろんです。あそこだけでは、民宿の一年分の野菜を賄えるだけの量は、育てられませんから。この辺りは山に挟まれて土地が狭いですし、平地はほとんどないので、広い畑は取れないんです。だから、小さい畑があちこちにあるんですよ」

 そう言いながら流しの下からザルを取り出し、勝手口から民宿の裏側へ出る。そこから一段高くなったところにも、小さな畑が広がっており、その向こうは山だ。

「大谷さんのお部屋は表側ですから、気付かれなかったかもしれませんが、民宿の裏にもあるんですよ。ここへは、今はレタスやキュウリが植わっています」

 一度畑の脇を通り抜け、その先の山へ入っていく。

 それほど深くないところに見える白い花を目指して進んでいくと、近づくほどに甘い香りが強くなる。

 厳密にいえば、この甘い香りの花はアカシアではなくニセアカシアなのだが、アカシアといえばまずこの甘い芳香を放つ白い鈴なりの花だろう。

 その強い香気に誘われるのは、人間だけではない。花の周囲は、我が世の春と、蜜を求める多くの虫で賑わっていた。彼らを刺激しないよう、極力そっと花に近づく。

 アカシアの細い枝には棘が生えているので、そちらにも注意しながら茎を手折る。豆や葉、樹皮には毒性があるので、食べるのは花だけだ。

 山から戻る際、畑で今日食べる分だけの野菜を収穫する。二十日大根は出来るだけ大きいものを。サニーレタスは株ごと採らず、葉だけを収穫すれば長く食べることができる。

野菜は庭の水道でさっと土を落として、台所へ戻る。

 夕食の準備も、大谷さんと一緒に行う。ラッキョウの処理のときも思ったが、彼女は普段から自炊をしているのか、なかなかに手際が良い。基本的に、お客さんと一緒に作業を行うときは、時間に余裕を見てスケジュールを組んでいるが、今日はどの作業も非常にスムーズだ。

「今日の夕飯は、主菜は旬も終わりですがサクラマスです。それからこちらは地のもの、新玉ねぎとさっき畑から収穫してきた二十日大根、サニーレタスのサラダです。二十日大根の葉は、油揚げと一緒にお味噌汁にしました。こっちはアカシアの花と、貰い物のウドの穂先の天ぷら、それからウドの茎は酢味噌和えにしました。天ぷらと酢味噌和えは、それぞれの味と食感の違いを、楽しんでみてください」

 準備した料理をテーブルに並べ、先生を呼ぶ。

 もちろん、本日の香の物は、去年のラッキョウだ。

 手を合わせると、大谷さんは早速、アカシアの天ぷらを口へ運ぶ。アカシアは、彼女の口の中で、くしゃりと軽い音を立てた。

「とても軽い食べ応えですね。口の中で、ぱりぱり崩れるみたい。あと、昼間香っていた、花の甘い香りがふわっと抜けますね」

 強い香りを放つアカシアだが、天ぷらにするとその香りはいくらか抑えられ、食べやすくなる。ただ、揚げ油に香りが移ってしまうため、再利用にはあまり向かないのが難点だ。

 次に、ウドの天ぷらへ手を伸ばす。

「これは、甘いアカシアと違って、ほろ苦いです。私がイメージする春の山菜の味は、アカシアよりこっちです」

 酢味噌和えの方のウドは、生のためシャクシャクとした食感が楽しめる。まったりとした酢味噌の酸味と、ウドのほろ苦さがよく合う。

 サクラマスと天ぷらで、脂分がやや多くなってしまったかとも思ったが、酢味噌とラッキョウ漬けのおかげで、思いのほかさっぱりと食べられる。

 甘みと苦みと酸味、今日のメニューは一食の中に色々な味を取り入れることができた。なかなかうまくいったと、心の中でそっと悦に入る。

「当たり前ですけれど、どんな仕事も、すぐに成果なんて出ないんですね」

 食事の途中で、大谷さんがぽつりと漏らした。たびたび浮かない顔をしていたのは、どうやら理由あってのことらしい。

「去年のラッキョウ、よく漬かっていて、とても美味しいです」

 彼女はしばらく静かに食事を続けていたが、ラッキョウをもう一つぽりぽりと齧ると、今日一番の笑顔を見せてくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る