四月二十日
昨日、一昨日の土日は、春の山菜を求めるお客さんの予約でいっぱいだった。今週末も山菜目的のお客さんの予約で、部屋は満室だ。
この民宿は、四月の下旬から俄かに忙しくなる。山菜を目当てにやってくるお客さん、田植えや種まきの農業体験にやってくるお客さんが増えるためだ。
ただ、農業体験に関して言えば、田植えや種まき、稲刈り、収穫などの、いわゆるメインどころの仕事は、全体の作業量から見ればほんの二割程度だ。農業は、その他八割の地味な作業で成り立っているといっても過言ではないだろう。
春になれば、冬の間放置されていた田畑を起こし、肥料を与え、田んぼへは畦シートを入れ、水を入れ、代を搔く。野菜の生育具合を見ながら施肥を行い、除草剤を使えないため、草刈りなどは夏の間中しなければならない。水の様子を見るのは、朝夕の日課だ。農業体験で取り扱わない作業や、お客さんがいない間にも、やることは山積みである。
本来であればこの辺りの田植えの時期はもう少し後、五月の半ばごろに行う家が多いのだが、民宿の書き入れ時であるゴールデンウィークに田植えができるよう、私は四月の頭から田んぼの準備をすすめなければならない。
先々週の頭は畦や土手、通路の草刈りをした。まだ春先とはいえ緑は日々逞しく成長し、既に私の膝丈まで伸びていた。その年最初の草刈りは、草をそのまま田んぼや畑に投げ入れ、耕起の際に土に混ぜ込み養分とする。堆肥を作っているコンポストや畑の端まで運ばなくていい分、多少ではあるが楽だ。その週の半ばから週末まではトラクターに乗りっぱなしで、お尻の感覚がすっかりなくなってしまったし、先週からはもうずっと畦シートを入れていたため、腰が限界に近い。
週末から少し天気が崩れそうだと、ポケットに入れたポータブルラジオから流れる音声が告げている。脱穀でもなければ多少の雨は問題ない。むしろ、今年は雪が少なかったため水の入りが心配だったので、助かるくらいだ。
ぼんやりとラジオを聞きながら、今後の段取りを考える。
畦シートを入れ終わった田から順に水を入れていたため、この作業が終わればすぐに代を掻き始められるだろう。またトラクターに乗り続けなければならないと思うと、些か気が滅入ってしまう。それも、荒代と本代の二回だ。今年こそ、私のお尻はなくなってしまうのではないか。
さらにトラクターで代を掻き終えたら、手作業で田んぼの端をトンボで均す。斜面に作られた田んぼのため一枚一枚がそれほど大きくなく、しかも形がいびつな場所があるため、どうしてもトラクターが入れないところがあるのだ。
農作業しかできないような田舎だが、それさえも容易ではない。つくづく不便な場所である。
ぐっと仰け反り空を眺めると、鳶が高いところを滑るように飛んでいた。
休憩しようと、軽トラックの荷台に乗せたお茶とお菓子のかごを取り出す。ふと思い立ってラジオを止めると、鳶と春ゼミの鳴き声が耳に飛び込んできた。
東京にいた頃はすっかり忘れていたが、こちらへ戻ってきてから、セミは春から鳴いていたことを思い出した。今年は、例年より少し早めに鳴きだしているようだ。
春ゼミは夏のセミに比べて体こそ小さいが、声は夏のセミに負けず劣らず賑やかだ。鳴き終わりの余韻に少し寂しさを残す声で、夏に聞く鳴き声より涼し気に感じるのは、気候のせいだろうか。
お茶をすすりながら、作業の終わった田んぼを眺める。畦シートの入っていない田んぼはあと三枚。今日明日のうちには終えられそうだ。途中畑の方にかまいきりになってしまったため、田んぼの作業がやや遅れ気味だったが、どうにかゴールデンウィークには田植えに漕ぎつけそうでほっとする。
水筒のお茶をもう一飲みして、勢いをつけて立ち上がり、再び作業に戻る。
午前中の仕事を終え家に帰る。土間の扉を開くと、先生がそこでキャンバスと向かい合っていた。暖房器具は足元に置いた小さな電気ヒーターのみなので、真冬の様な厚着で着ぶくれている。
「ただいま戻りました」
声をかけるとこちらも見ずに、『おかえり』とだけ返してくれる。
「お昼ご飯は、昨夜の残りでいいですか?」
事前にお昼の希望があるお客さんにはそれなりに準備もするが、相手が先生だけならば、前の晩の残り物で済ませることも多い。先生も特に不満はないようだ。
「うん。あと、カップ麺食べたいからお湯沸かしておいて」
先生はどうやら、あまり作業が進んでいないようだ。キャンバスの前に立ってはいるが、その手に筆は握られておらず、腕を組んでじっと絵を睨みつけている。
「はーい。私も、たまには食べようかな。うどんとか美味しそう。先生はどれにしますか?」
土間に置いてある、インスタントラーメンが入れられたビニール袋の上の方から、適当に一つ選び取る。
先生はそこでようやくこちらを向いた。私の隣に立って、がさがさと好みのラーメンを探している。
「これ。お湯が沸いたら教えて」
それだけ言って再びキャンバスの前に戻る。
最初のうちはこのぶっきらぼうな物言いに慣れず、毎回ドキドキとしていた。普段が気取らない性格なだけに、何か気に障るようなことをしてしまったかと、一瞬ヒヤリとするのだ。祖母から、作業中はあまり愛想がなくなる人だからと聞かされていたことを思い出し、少し安堵する、ということを繰り返していた。
先生と出会って既に五年目。冬の間は二人きりで過ごすことも少なくないので、さすがに慣れた。
手を洗いお湯を沸かし、朝食の残りのご飯を茶碗によそう。今日は先生と二人だけなので、居間で食べようとこたつの上に簡単なおかずとご飯を並べる。
お釜を洗っているとお湯が沸いたので、台所から大声を出して先生を呼ぶ。
ラーメンにお湯を注いでいるところで、先生がやってきた。そのままダイニングを通って洗面所に行くと、手を洗って再び戻ってくる。
「作業の進行具合はどうですか?」
カップ麺を先生の定位置に置きながら、問いかける。
「うーん、ちょっと難航中。土間で突っ立ってても寒いし、一回部屋に戻って下書きから見直そうかな」
そう言いながら、急須と茶葉と、二人分の湯のみを用意してくれる。この先生は作業中でさえなければ、なかなか気の付く人なのだ。
「今描いてるのって、この前撮りに行った福寿草ですよね?」
「まあね。ただ……」
そう言って言葉を切る。何事か納得できない様子で、お茶を用意する手がしばし止まる。
「そっちはどう?順調なの?」
先生は言葉の続きは話さず、急須にお湯を入れながら、こちらに話題を振ってきた。
「私も順調というわけではないですけれど、なんとか明後日までには、代掻きを始められそうです」
二人で居間へ移動して、こたつに入ったところで、テーブルの上に置いたキッチンタイマーが鳴り響いた。
「そっか。じゃあ、ゴールデンウィークも問題なさそうだな。天気は微妙っぽいけど」
先生がテレビをつけると、ちょうどお昼のニュースで、全国の天気予報が映し出された。天気予報氏曰く、降水確率はそれほど高くないが、絶好の行楽日和とはならないかもしれないそうだ。続いて、各地の天気予報に移り変わる。
先生は農業体験をするためにここに滞在しているわけではないので、基本的に農作業にはノータッチだ。たまに気が向いたときに草むしりなどを手伝ってくれるが、気まぐれなので頭数としては数えられない。
それでも、数年単位で滞在しているため、どの時期にどんな作業をするか、どういうことがあると困ってどういう天気だと助かるかなどは、私よりも詳しいくらいだった。
「まあ、田植えは雨でも出来ますから。お客さんを雨の中作業させるわけにはいかないので、そこは別のプランを考えとかないとだめですけれど」
念のため予約時に、天気によっては体験内容が振替になるか、中止の場合は返金の可能性もあることは伝えてある。とはいえ、この時期は室内でできる作業が少ないため、別のプランを考えるとなると、少し面倒だ。
「でも農業体験の客に手伝ってもらわないと、ゴールデンウィーク中に終わらなくなるだろ?単純に作業量も増えるし」
実はそこが問題なのだが、先生の言葉の意図にはわざと気づかないふりをして返答する。
「最悪、ゴールデンウィーク中に出来なくても、元々この辺りの田植えはもう少し後ですから。終わらなかった分は、機械でやる予定でしたし。草が生えてきてしまう可能性があるのだけが、問題点ではありますけれど」
先生は最後に『一人でやるのは大変だろってこと』と言って、そこからはお昼のバラエティに話題を移した。
昼食の片付けを終えると、こたつに戻って休息をとる。これも先生と二人きりか、一人の時にしかしないが、そのまま一時間ほど昼寝をする。午後も待ち受ける肉体労働に備え、少しでも体力を回復させなければならない。
一時間後、携帯のアラームをセットしておいたが、先生はそれでも起きなかった。ここ最近は、夜も部屋で作業をしているようだったので、起こさないようそのままそっとしておく。
出来るだけ物音を立てないよう、夕飯の下ごしらえと米を仕掛ける。午後のお茶の準備をして、土間で適当なお菓子を見繕い、つなぎに着かえて再び田んぼへ出かける。
午後も午前中と同じ作業をひたすら繰り返す。
畦に沿って田んぼの内側を、十五センチほどの深さに鍬で掘っていく。数メートル掘り進んだら、畦シートのロールを伸ばし、畦に沿うように穴の中に立てかけて、その上からまた鍬で土をかける。畔シートが浮いてこないよう土を踏み均し、再び穴を掘り進む。
無心で作業をしていると、道路の方から声が掛かった。顔をあげ声のした方へふり返ると、そこには先生が立っていて、こちらへ向かって手を上げた。ポチを散歩に連れてきてくれたようだ。用意のいい先生は自らのお茶とお菓子を持ってきているようだったので、私も作業の手を止めて、一緒にお茶をすることにする。
ラジオを切ると、周囲には一瞬の静寂が訪れ、そしてまた音で溢れる。
「思ったより進んでるじゃないか」
先生は軽トラの脇に立ったまま、作業を終えた田んぼを眺めている。
私はそのすぐ隣に座り込み、みかんを剥いて食べる。強い酸味が唾液腺を刺激し、エラの下がきゅっとなる。少し酸っぱすぎるが、疲れた体が活力を取り戻すのを感じる。
「まあそうなんですけど、最初に比べて明らかに能率は落ちてますからね」
みかんを一つ食べ終えると、皮はそのまま田んぼの中へ捨てる。先生も私からみかんを一つ受け取り、同じように皮を放り投げた。
「それにしても、よくやるよなぁ。せっかく都会に行って、あっちならいくらでも遊ぶところもあったろうに。わざわざ戻ってきて、こんなしんどいことやるなんて」
先生は呆れ半分、冗談半分といった雰囲気で、うへえ、とわざとらしく舌を出して見せた。
「私からしてみれば、先生の方がよくだなあって思いますけどね。私は元はここに住んでいましたけど、先生なんか生粋の都会っ子だったんでしょう?」
以前先生の宿泊台帳を見たが、住所の欄には大きな都市の名前と、いかにも高そうなマンションの名前が記されていた。
「まあね。ここに来るまでは花粉なんて感じたこともなかったし、室温はエアコンでいつでも快適だったし、部屋に虫が出たことなんてなかったし。こんな不便とは程遠いところで育ったよ」
先生も草の上に座り込んで、空を仰ぐ。
近くの杭につなげられたポチは、しきりに周囲の地面の匂いを嗅いでいる。
「変わり者はお互いさまってことですね」
先生はもう一度『まあね』と言って、自分で持ってきたペットボトルのお茶を一口飲んだ。
先生が帰った後、思ったよりもスムーズに作業が進み、無事すべての田んぼに畦シートを入れ終えることができた。安堵も相まって、どっと疲れが押し寄せる。
帰り際、一番最初に畦シートを入れ終えた田んぼに寄ってみる。水は、田んぼの奥の方ところどころに、水たまりが出来る程度に入っている。荒代ならこれで十分だ。周りの田んぼも同様で、これならすぐにでも代掻きを始められそうだ。
とはいえ、さすがに今日のところは家へ帰る。
先生は、土間にはいなかった。やはり考え直すために部屋へ戻って作業しているのかもしれない。
そう思い洗面所へ手を洗いに行くと、脱衣籠に服が入れられていることに気付いた。どうやら、自分で風呂を用意して入っているようだ。時計を見やると、時刻は十七時半。外はまだ薄明るい。こんな時間から入る風呂は、さぞかし気持ちがいいだろう。
それでも、私にはまだ夕飯の準備がある。ひとっ風呂浴びてさっぱりしたい気持ちをぐっと堪えていると、風呂のドアがカラカラと開き、素っ裸の先生が現れた。
「お疲れ。もうくたくただろ?今日は夕飯も簡単でいいから、先に風呂に入れよ。せっかく由乃が帰ってきそうな時間に合わせて、風呂をいれたんだから」
そう言って、再び浴室に戻っていった。
この人は本当に、意外なところで気の使える人なのだ。今日のお客さんは先生だけ。私はお言葉に甘え、心遣いをありがたく受け取ることにした。
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