四月三日
車窓の向こう側には、真っ黒な闇が広がっている。地図アプリを開いてストリートビューを見てみると、どうやら暗闇があるところには畑が広がっているようだ。スマートフォンの電源ボタンを押し、再び暗闇へ視線を戻す。
本来であれば十六時には目的の駅に到着予定のところが、スマートフォンの時計によれば現在時刻は十九時過ぎ。元の予定を大幅に遅れていた。
そもそも今日の予定は、旅行用の荷物を駅に預けて出勤、半休を使って午後から土日と、旅行のはずだった。
しかし、どういうわけか予定のある日に限って、急な仕事が舞い込むものだ。結局職場を後にできたのは、到着予定時間であった十六時になってからだった。職場を出る時の、同僚の心底申し訳なさそうな顔と、せめて残業代が付くだけマシだと思い込むしかない。
遅れる旨を連絡した時の、本日の宿の主の困ったような声音が、やたらと胸に刺さっていた。
十九時半。ようやく駅に到着しホームに降り立つと、湿った空気があたりに漂っていた。先ほどまで雨が降っていたのだろうか。地面は僅かに濡れていた。
駅舎を出てすぐのところに、薄っすらと黄みがかった白い花を付けた木があった。周囲には明かりもないのに、満開の花は蝋のように鈍く艶やかに輝いている。あれは何という花だっただろうか。
宿の送迎の車が来ているはずだと、辺りをきょろきょろと見渡すと、短くクラクションが鳴った。そちらに視線を向けると一台のバンが停まっていた。
その車に駆け寄って行くと同時に、バンの窓が下がる。運転席の女性が助手席側へ身を乗り出して、声をかけてくる。
「伊藤さんですね?お待ちしておりました」
私を迎えに来てくれた宿の主は、自らを佐伯と名乗った。宿までの道中、急な予定変更をひたすら謝る。
「あまり、気になさらないでください。会社にお勤めですと、色々大変でしょう。私も数年前までは都内で会社勤めをしておりましたので、そういった事情は存じております。むしろ早い段階でご連絡いただけたので、良かったです。お夕飯も、変わりなく召し上がるということでよろしいですか?」
佐伯さんは特に気に留めた風もなく、朗らかだ。
「ええ、随分遅れてしまいましたが、大丈夫でしょうか」
「はい、私たちはもう食べてしまいましたが、伊藤さんの分はとってありますよ」
手間を取らせてしまったことを重ねて詫びると、佐伯さんは『このくらいなんでもないですよ』と笑っていた。
宿に着くと二階の部屋に荷物を置いて、再び一階へ降りる。ダイニングのテーブルの上には、一人分の食事が並べられていた。席に着いたところで、佐伯さんが温めていたお吸い物を用意してくれる。
メニューはちらし寿司、ハマグリのお吸い物、茶わん蒸しに、煮物と酢の物の小鉢と漬物、デザートでイチゴがついていた。ちらし寿司に菜の花が乗っていたのは、いかにも春らしくて少し気分が上がった。
「まるで雛祭りのようですね」
そういえば、今日は雛祭りからちょうど一か月だ。
「実際、雛祭り用のメニューですので。今でも田舎の方は月遅れで行事をすることがあるんですよ」
佐伯さんはお茶を注ぎながら話してくれる。
「明日、明後日は市内を観光されるんですよね?送迎は何時頃ご希望ですか?」
「それなんですが、明日は一日こちらでゆっくりしてもよろしいですか?今日の残業でずいぶん疲れてしまって。明後日は早めにお暇して、観光をしようかと」
たびたび予定が変わってしまって申し訳なく思うと同時に、せっかくの観光目的の旅行を一日宿で潰してしまうのはもったいない気もするが、疲れたまま週末の観光地を歩き回る気分にはなれなかった。
「もちろんです。私と先生は午前中はちょっと用があってお相手出来ないのですが、どうぞゆっくりなさってください」
『先生』とは、ここに長期で宿泊している客のことらしい。画家業を生業にしているので、周囲の人は『画家先生』と呼んでいるとのことだ。
食事を終え、すすめられるまま風呂に入る。この宿の決め手になったのは、送迎無料であり、週末にもかかわらず一泊二食付きの料金が八千円と市内に比べ格安だったのと、何より男女別の温泉付きなところだ。風呂場はそれほど広くなく、露天こそないものの、この料金なら十分だ。
しかも、私が風呂好きなこと、温泉を楽しみにしていたことを佐伯さんに伝えたら、明日は朝から湯を張ってくれ、一日自由に入っていいという。観光を一日潰してしまったが、これなら退屈することなく過ごせそうだ。
翌日、朝食を終えると佐伯さんと先生は二人で客間へ向かった。気になった私もついていくと、そこには所狭しと並べられた雛人形や日本人形が並んでいた。
「壮観ですね」
思わずそう呟いてしまった。
七段飾りが一つ、ガラスケースのオルゴール付き三段飾りが一つ、その他にもガラスケースに入った日本人形が十体ほど、段々飾りの両脇に並んでいる。
昨日言っていた用事とは、客間に出した雛飾りを片付けることのようだ。
「今は明るいからいいけど、夜見るとなかなかのもんよ」
居間の方へ下げたはずの雛あられをぽりぽりと食べながら、画家先生が再び登場する。確かに、日の光の入るところで見れば可愛らしく見える雛人形も、夜中何も知らずにこの部屋に入れば相当怖いに違いない。
「これは誰の雛人形なんですか?」
縁側から、段ボールを次々室内に入れている佐伯さんに話しかける。
「これは私と姉のものです。祖母は私たちが引っ越してからも欠かさず出していてくれたみたいで、おかげで虫食いもなくて良かったです」
どうやら佐伯さんは家庭の事情で、子供の頃にここを離れていたらしい。それからはおばあさんが切り盛りしていた宿を、数年前再びこちらに戻って引き継いだとのことだ。
「そうだぞ、私も毎年手伝わされてたんだから感謝してくれ」
先生はたびたび居間に戻っては、毎回違うお菓子を持ってこちらに戻ってくる。今は個包装された綿あめを頬張っているだ。
一通り段ボールを室内に入れ終えた佐伯さんが、思い出したようにこちらに話を振る。
「伊藤さんはお疲れでしょうし、お部屋でお休みいただいて大丈夫ですよ」
ガラスケースの扉を開け、中に防虫剤を入れ始めた佐伯さんに倣い、私も同じように片付けを手伝う。
「午後はそうさせていただきます。量も多いですし、ここからまた別のところへ運ぶのでしょう。男手があった方がいいと思います」
私の提案に佐伯さんは申し訳なさそうにしているが、昨日遅れてしまったことと、風呂を自由に使わせてもらえることへの、せめてものお詫びとお礼だ。
私の申し出を受け入れた佐伯さんは、防虫剤を入れるのを私に任せ、人形の顔に紙を巻き始めた。先生はようやくお菓子を食べるのをやめ、ケースを躊躇いなくぴったりの段ボールに仕舞っていく。どうやら、ガラスケースの裏側と段ボールにそれぞれ対応したひらがなが書いてあり、それを照らし合わせて仕舞っていけば問題ないようだ。防虫剤を入れ終わった私は、ケースの入った段ボールをビニール紐できつく縛る。
そうして役割分担をして作業を進めると、あっという間にガラスケースの日本人形は片付いた。二人は段々飾りの片付けに着手したが、こちらは細かいパーツが多く、初めて見る私にはやや難解だ。二人の指示に従いながら、慎重に作業を進める。
「そういえば、なんで急に雛人形?由乃に替わってからこの時期は出してなかったよな。虫干しはしてたけど」
粗方方付き、残すところ段ボールを倉に運ぶだけ、となった段で、先生が佐伯さんに問いかける。
「あぁ、それは……」
佐伯さんは、段ボールを運びながら語りだす。
去年の十月、畑の帰りに近所の家の奥さんが上の子と散歩をしているのに行きあった。
といっても、歩いていたのは奥さんだけで、お子さんはその背中に、そして上からねんねこ半纏を羽織って、子守唄を歌いながら歩いていた。
「こんにちは、今日はお散歩日和ですね」
佐伯さんが語り掛けると、歌っているところを聞かれたのが恥ずかしかったのか、彼女は照れ笑いをしながら挨拶を返す。
「こんにちは、いいお天気で助かりますね。しばらく晴れてくれるといいんですけれど」
「あら、気持ちよさそうに寝てますね」
背中をのぞき込むと、女の子がすやすやと眠っていた。
「今寝ちゃうと、夜眠れなくなるかとは思ったんですが……。家だとなかなか甘やかしてあげられないので、今日くらいは。念のためおんぶ紐も持ってきて良かったです」
奥さんは、自分の肩越しに女の子を見て苦笑した。
その家では去年の六月に、二人目のお子さんが生まれたばかりだった。家では下の子に構いきりで、なかなか上の子の相手が出来ないとのことだ。
「家ではお姉さんでいてくれますけど、やっぱり無理させてしまっているようで。今日は下の子は旦那とお義母さんに任せて、二人でお出掛けです」
「それで、その子の寝顔見てたら、そういえば最近雛人形出してなかったなって思いまして。今年はなんとなく出してみました」
全ての段ボールを倉へ仕舞い終えると、佐伯さんがお茶と、お雛様にお供えされていたお菓子を出してくれた。先生はイチゴ大福に手を伸ばしている。
「この家女の子いないのに?」
「いいじゃないですか、たまに真秀ちゃんが来てくれてますし」
佐伯さんも椅子に座り、漬物を口に運んでいる。真秀ちゃんとは、近所の子どもだろうか。
「西日の中を、そうやってお散歩してる二人を見てたら、なんだかいいなあって思ったんです。うちには女の子はいませんけど、私は地域の子たちの健やかな成長を願ってるんですよ」
そう言ってお茶をすする。
「じゃあ、今年は鯉のぼりも上げるか?」
先生は湯飲みの向こうからにやりと口角を上げて、佐伯さんに笑いかける。
「鯉のぼりもあるんですか?」
「ええ、こちらは兄のなんですけれど、かなり大きいのが……。あれを私と先生で上げるのは、骨が折れそうですねぇ」
そこまで聞いて、先生がしまった、という顔をした。この半日で先生の性格もだいぶ分かったが、この人は面倒なことは極力避けたい人のようだ。
今度は佐伯さんが、空になった先生の湯飲みにお茶を注ぎながら、にこにこと先生を見つめている。
先生はよほど面倒くさいのか、しばらく腕を組んで悩んでいたが、意を決したように湯飲みのお茶を勢いよく飲もうとして、そしてあまりの熱さにむせこむ。
「分かったよ、手伝うよ。雛人形だけ出して鯉のぼりだけ出さないなんて、梓が可哀そうだしな」
先生はお茶の熱さに悶えながら、ようやく言い切った。半日過ごしただけで分かるほどの面倒くさがりな人が、手伝いを承諾したことは私には意外だった。佐伯さんは『そう言ってくれると思っていました』と、変わらず笑顔だ。もしかしたら、彼女は最初から先生に手伝ってもらうつもりだったんじゃないだろうか。
「さて、私は少し仕事をしてから昼食の準備をしようかな。伊藤さんも召し上がりますよね」
昼食は市街地の喫茶店で摂る予定だったところを、観光を取りやめたので自分で用意しなければならなかったことに今気づいた。
「すみません、自分の食事についてすっかり失念していました。今からでもいただけるでしょうか。昼食代もお支払いしますので」
こちらについても佐伯さんはそのつもりでいたようで、良かった、と胸を撫で下ろしている。
「実は伊藤さんの昼食分もご飯を炊いているので、食べていただけると私としても助かります。お代は結構ですよ。内容も大したものじゃない、夕べや朝食の残りとかになってしまうので」
客間の片付けも手伝っていただきましたし、と彼女は笑っていたが、そもそもその片付けがお礼とお詫びのつもりだったのにいいのだろうか。私がなおももごもごと言い淀んでいると、先生が割って入る。
「由乃が助かるって言ってるんだから、遠慮せずに食べればいいさ。こいつはお節介を焼くのが趣味なんだ」
そう言いながら、先生はダイニングを出て行った。
「そういうことなので、どうぞ召し上がってください。伊藤さんは、今日はもうお部屋で過ごされますか?昼食が出来たらお部屋に伺えばよろしいでしょうか」
佐伯さんが自らの湯飲みを流しに運ぶ。それに続いて私も席を立った。
「こちらの都合で予定をかなり変えてしまったのに、ありがとうございます。私は、そうですね……、とりあえずもう一度お風呂をいただいてから考えようかと」
やはりこの宿をとったのは正解だったと、風呂に浸かりながら思う。観光はできなかったし、まさか雛人形の片付けをすることになるとも思わなかったが、宿の主とお客の人柄も良かった。何より、温泉に自由に入れたのは、かなり嬉しい誤算だった。
結局私はこの日、昼寝から起きてからさらに一回、夕飯の後に一回、計四回風呂に入り、昨日の残業の疲れを十分に癒したのだった。
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