三月二十二日

 「暑さ寒さも彼岸まで」との言葉の通り、数日前から穏やかな陽気が続いている。とはいえ、来週は寒の戻りで再び厳しい寒さが戻るようだ。

 そもそも三方を山に囲まれたこの町は、夏以外の日照時間が短いため、北側の山の陰に入る場所では四月の末頃まで雪が残る。六月までこたつを出したままの家もそう珍しくなく、十月には再び暖房器具を出してくる。

 本日の予定は、宿泊客である内藤さんご夫妻にこの地域の案内を依頼されている。

 定年後の趣味として気軽な田舎暮らしに憧れ、色々調べたところここへ行きついたらしい。この民宿から数キロのところにある滞在型の農業施設に申し込もうと思い、事前の下見としてやってきたとのことだ。ただし、残念ながら現在は空き区画が無く、募集を行っていないようだ。

「それにしても、大変な時期にいらっしゃましたね。電車でいらっしゃったということは、来る途中に砂嵐をご覧になったでしょう」

 民宿のバンで施設に移動しながら、後ろの席のお二人に話しかける。彼らは気のいい老夫婦といった感じの雰囲気で、明るく受け答えしてくれる。

「ええ、最初は何事かと思い不安になりましたが、毎年のことなんですね。家内と二人で話していたところ、地元の方が教えてくださいました」

 お彼岸のこの時期、市内の一部地域では強い風が吹き続けると畑の土が舞い上げられ、十メートル先も見られなくなるほどの砂嵐に見舞われる。風食と言って、春が来ることを知らせる風物詩だ。

「外から来た人で、あの砂嵐をご覧になる方はそんなに多くないと思いますよ。そういえば珍しい時期にいらっしゃいましたね。どうせなら夏や秋のほうがいろいろ見られるのでは?」

 この時期は一部スキー場を除いてウィンタースポーツも終わりかけであり、桜の見ごろにはまだ早い。観光客の人数もぐっと減るため、宿泊業を営む身としては助かるが、観光に最適な時期かといわれれば、微妙なところだ。

「いやぁ、滞在型の施設ですから、一時の雰囲気だけ見て決めるのもどうかと思いまして。どうせ今年は申し込めませんし、年間を通じての空気を味わってみたかったのです」

 奥さんもそれに同意し、言葉を続ける。

「ですので、今後もしばしばお世話になることがあるかもしれませんが、よろしくお願いいたします」

 まあ、そんなことを言って来年も募集があるかは分かりませんが、と言って、ご主人はからからと笑った。

 それから、事前に色々と調べたこと、どんな畑や庭を作りたいかなどを楽し気に話してくれた。お二人が本当にここでの生活を真剣に検討してくださっている様子が伝わってくる。

「それなら、私も精一杯説明させていただきますね」

 彼らがこの場所を気に入ってくれればいいと、心から思った。

 この地域には同じ施設が二か所あるが、まずは山の斜面に作られた施設を訪れた。細い上り坂をゆっくりと登っていくと、道の左側にログハウスの群れが見えてくる。山の斜面を削り区画を振り分け、一区画の中にラウベと呼ばれる小さな家と畑が設けられている。時期が時期なら様々な野菜が植えられたり、色とりどりの花が咲き乱れているのだが、今はどの区画の畑もがらんとしている。

 駐車場に車を停め、説明を交えながら周囲を散策することにする。

 車を降りると、お二人は周囲を見渡す。

「これはまた一段と……」

 ご主人はそう言ったきり、二の句が継げないでいる。

 それもそのはず、山の中とはいえ麓の里は見えず、そこから見えるものといえば向かいの山と、施設を成す数十のラウベのみである。もともと市街地からも離れた場所ではあるが、より外界から隔絶された雰囲気が強まる。まるで外国の、秘境の村のようだ。

「この辺りは有機栽培が有名でして、ここから少し先に行ったところで有機肥料の製造を行っている工場もあるんですよ。この施設に入居された方にも有機栽培を行っていただいていますね」

 施設を左に見て、道路をずっと上っていく。

「ああ、インターネットで調べた時に拝見しました。地元の方に農業指導もしていただけるんですよね?」

「はい。ですので、縛りはいくつかありますけれど、初心者の方でもそれなりに色々作っていただけると思います」

 歩きながら、この地域の特徴を簡単に説明する。

 しばらく歩くと斜面に面した場所に駐車場があり、柵の向こう側は大きな木が切られているため見晴らしが良い。眼下にはラウベの屋根が並んでおり、その向こうには雲を被った西山が見える。雲の下はきっと雪だろう。西山の春はまだ先のようだ。

「ここはとても静かですね」

 奥さんがぽつりとつぶやく。

 聞こえるのは強い風が木々の間を通り抜ける音のみ。それでも、冬ならばその音がずいぶん寒々しく聞こえるが、今はこの風が、もうすぐ春を連れてきてくれるのだという期待に、胸がドキドキとする。

 お昼はそこから数キロ離れたところにある蕎麦屋で食事を摂る。完全予約制で、地元の人間でも迷うような山の中腹にありながらも、なかなか名の知れた蕎麦屋だ。

 予約していた名前を伝えると、広い座敷に通される。蕎麦のメニューはざる蕎麦のみ、あとは追加でおつまみやお酒が頼める。内藤さんのご主人はお酒と、アユの燻製を頼んで昼間からの飲酒に気分を良くしている。

 少し待つと、蕎麦の前に煮物や漬物が出される。これは蕎麦を頼むと一緒に出てくるものなのだが、蕎麦はもちろんのこと私はこの煮物が気に入っていた。

 奥さんも煮物の味がたいそう気に入ったようで、女将さんにレシピを聞いている。

 そうやってしばらく談笑していると、ようやくメインの蕎麦が登場した。内藤さんご夫妻はあまりの蕎麦の量にたじろぐ。一皿が普通の蕎麦屋の倍以上の量があるのだ。

 この反応が見たくて、おすすめの店を聞かれたときはここへ来ることが多い。

 すでに漬物と煮物で小腹を満たしつつあったお二人は、この量にやや苦戦しているようだった。ようやく八割の量を食べ終えたところで女将さんにおかわりを勧められ、二人は慌てて断っていた。これでおかわり自由というのだから、蕎麦好きとしてはたまらない。

 大満足の昼食を終えると、もう一つの施設にも向かう。

 こちらは先ほどとは違いこの地区のほぼ中央、少し高台になった平面の場所にあるため、先ほどの外界と隔てられたような雰囲気は感じられない。

 市街地からのバスがすぐ近くのバス停まで来るため、電車で通うことを考えているのなら、こちらの方が断然おすすめだということを伝えておく。

 こちらも周囲の散策を一通り終えると、再び車に乗り込む。お二人の許可を得て、施設から坂を下ったところにある商店に立ち寄る。

 出入り口から店の中を覗くと、農業器具や掃除道具などが雑多に並んでいるのが見える。

「あそこへ滞在中に必要なものは、可能な限り地区内で調達するのもルールの一つですから、入用な農業器具なんかはここで仕入れるといいと思います」

 お二人は興味深げに商店の中や、ドアの外に並べられた商品を見ている。

「今日はなにか必要なものが?」

「今日用があるのはこっちです」

 商店を通り過ぎ、すぐ左脇にある建物の扉を開けると、中にはロッカー型の自動販売機が二つ。

「えっ、卵の自動販売機……?」

 奥さんが驚きの声を漏らす。この反応を見るのも、私のひそかな楽しみの一つだ。場所によっては珍しくもないが、お二人のお住まいならきっと見たことがないだろうと思っていたが、当たりのようだ。

 私は何食わぬ顔で硬貨を投入し、ボタンを押してロッカーの中の卵を取り出す。

「一パックの量が多いし、一玉がずいぶん大きいですね」

 私が取り出した一パック二十個入りの卵を見て、奥さんはしきりに感心している。

「卵の自動販売機をご覧になるのは初めてですかね。近くに養鶏場がありまして、新鮮な卵を手軽に購入できるんですよ。驚いていただけたようで、なによりです」

 結局その場での会話に花が咲き、帰宅したのは三時頃だった。そこからさらにお二人は、民宿の周りを散歩してくるといって出掛けた。

 私はその間に夕飯の準備を始める。この地域に強い関心を示してくれたお二人に喜んでもらいたい、という下心も十分に助け、今日の夕食はおはぎとお饅頭の大盤振る舞いだ。

 まずは、うるち米と、その半分の量のもち米を一緒に研ぎ給水させておく。

 その間にえごまの実をフライパンに入れ火にかける。焦げ付かないように木べらで混ぜながらゆっくりと熱を通す。しばらくすると、いくつかの実がぱちぱちとはじけ、香ばしい香りが部屋いっぱいに広がる。粗熱を取るとすり鉢とすりこ木で磨り潰していく。えごまの香りがより強くなる。

 ここまで準備して米を炊き始め、その間にお饅頭の準備をする。中身の具は夕べ用意しておいた切り干し大根の煮物と、野沢菜の炒め物、おはぎの余りのあんこだ。

 地粉に重曹と水を加えただけのシンプルな生地を練ったら、次々に具を詰める。

 黙々と作業していると、帰ってきた奥さんがいい匂いね、と声をかけてくれた。

「この香り、嗅いだことあるわ……。確か、えごま油だったかしら」

「その通りです。私はえごま油は食べたことがないですけれど。こうやって磨り潰しておはぎにするのがうちの定番でした」

 お二人は手を洗うと、テーブルの向かい側に座って具を包むのを手伝ってくれる。

「今準備しているのはおやきかしら?ここの名物よね?」

 包み作業を始めてすぐ、奥さんが話しかけてくれる。

「おやきは焼いたもののイメージでして。これは蒸かして作るのでどちらかというとお饅頭、って感じですね。場所によってはこれをおやきと呼ぶかもしれませんが」

 簡単に自分のイメージを伝えると、奥さんはなるほど、と納得していた。

「そうなのね。今でも焼くところもあるのかしら」

「たぶん、おやきといえば焼くところの方が多いと思いますよ。うちも昔は囲炉裏とおやきを焼くための網があったそうですが、祖母の代で潰してしまいまして……」

 お二人は囲炉裏もぜひ見てみたかったと残念がっている。

 やはり和風の家屋に囲炉裏のイメージは根強いようだ。もし次に増改築する機会があれば、再び囲炉裏を設けるのもよさそうだ、というような妄想をしたところでお饅頭の皮の生地がなくなった。

 一通り包み終わって意外だったのは、旦那さんの方が綺麗に、手早く具を詰めていたことだ。奥さんの作業は丁寧だが、その分スピードもゆっくりだった。

「餃子なんかは私の方が綺麗に早く作れますからね」

 私が感心していると、旦那さんはどこか得意げに言って、それがなんだか微笑ましかった。

 今度はお饅頭を蒸かしてあるいる間に、おはぎを作る。

 炊きあがったご飯を釜ごと炊飯器から取り出し、すりこ木で潰す。ある程度粒を残すように、米がつかないよう途中すりこ木を水に浸しながら。これが思いのほか重労働なのだが、見ていた内藤さんのご主人が途中代わってくれた。

 磨り潰したえごまに、買ってきたきな粉と夕べ炊いた餡子も加えて、三種類のおはぎを作る。一種類の量は多くないが、やはりバリエーション豊かな方が見栄えも良いと、一人満足する。

 皿におはぎを山積みにし、蒸かしあがったお饅頭もさらに積み上げると、時刻は六時を回ったところだった。

「少し早いですけれど、今日はもう夕飯にしましょうか」

 私の提案に、散歩でお腹がペコペコだったんです、とご主人が同意する。奥さんは、お昼もあんなに食べたのにとやや呆れ顔だったのが、見ていて少しおかしかった。

 今年最後の野沢菜漬けと大根の漬物も出す。甘いおはぎとしょっぱい漬物、渋いお茶でいくらでも箸が進むのだ。

 お饅頭の方はといえば、ご主人は野沢菜、奥さんは餡子が特に気に入った様子だった。

「あとは、お盆の時期に作るものだと味噌ナスなんかが美味しいんですけれど」

 それを聞いたお二人は、茄子なら自分たちでも作って、おやきに挑戦できるのではないかと楽しげだった。

 そこから話題は再び、どんな野菜を作りたいか、ガーデニングにも挑戦してみたい、といったお二人の計画に移った。楽し気に語る二人を見ているとこちらまで嬉しくなるが、私の胸にはある種の不安が湧き出た。

「ここでの滞在、楽しんでいただけましたか?少しでも気に入っていただけたらと、張り切りすぎてしまった気がして。もしかしたら、押し付けがましかったかもしれないと……。同じような施設は全国にあるみたいなので、お二人に合うところを見つけていただければ、それが一番だと思いますので」

 色々と案内したいがために、話過ぎてしまった気がしていたのだ。案内を依頼されている以上私が話すのは当然であり、仕事の一環なのは間違いないのだが、ついつい不安になってしまう。

 出来るだけ明るく伝えたつもりだったが、私の不安げな表情が伝わってしまったのか、ご主人は箸をおいて真剣な面持ちで話し出す。

「今日はここの名物や特産を存分に楽しめた気がします。先ほど散歩のときに家内とも話していたのですが、ここでの生活がありありと想像できたので、やはりここの施設に空き区画が出るまで待ってみようかと思います」

 そう言って、ご主人はにこりと微笑みかけてくれる。奥さんも、にこにこと笑いながら頷いている。

「良かった。ぜひまたこちらにもいらしてくださいね。出来る限りのおもてなしをさせていただきますので」

 そう伝えると、奥さんはもちろんそのつもりです、と返してくれた。

 数か月後、予約の確認をしていると、再び内藤さんの名前で二名の予約が入っていた。

 そして私は、訪れたお二人から、空き区画が出来たので無事来年度から入居できそうです、という報告を受けることになるのだ。

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