三月十四日
「今日は、福寿草でも見に行こうかと思って」
民宿から数キロ離れたところに、福寿草の群生地がある。雪を押しのけ黄色い花を咲かせる、春を告げる使者だ。見頃の時期は祭りが開かれ、一時は週末のたびにツアーが組まれたほど人気のスポットだ。
家の掃除を終えこたつでお茶を飲みながら、本日の予定を告げる。
「あっ、私も行きたい!」
そう言ったのは画家先生だった。首までこたつに入っていたのを突然起き上がったので、できた隙間から冷気が入ってくる。
それを恨めしそうに睨め付けているのが、近所の小学生の梓くん。両親が共働きのためたまにここへやってきては、本を読んだりゲームをしたりしている。
今日は土曜日だが、画家先生とゲームをする約束を取り付けていたようで朝からここを訪れたが、先生は先程からだらだらとして一向にゲームを始める様子がないため、一人で漫画を読んでいた。
「梓も行くだろ?」
画家先生が梓くんへ問いかける。
彼は本来の約束をすっぽかされそうになり、不満げな視線を先生に向けている。
「今日は一日ゲームしてくれる約束だったじゃんか。先生さっきから寝てるだけで、ちっともゲームする気ないでしょ」
彼がもっともな不満を口にすると、先生がふふんと鼻を鳴らして答える。
「若いもんが引きこもってゲームしてどうするんだよ。たまには外に出たらどうだ?それに、ゲームはいつでも出来るが福寿草は今の時期しか咲いていない!」
そんな使い古された表現でどうにか梓くんを外へ連れ出そうとするが、彼の目からはなおも納得していない様子が窺える。
「ちなみに、車は使わずに歩いて行こうと思いますけれど」
私のその言葉に、先程まで乗り気だった画家先生が逡巡する。群生地まではおよそ三キロあるので、当然車で行けるものと思っていたようだ。
数日前に雪が降った後、しばらく晴れた日が続いた。放射冷却により気温こそ低いが、こんな日に散歩するのは胸がすくように気持ちが良いだろう。
先生はよほど歩きたくないのか、さっきまでの元気が嘘のようにうんうんと唸っている。私自身は別に一人でもいいのだが、先生の、ゲームはいつでも出来るという意見にはおおむね同意だ。仕方がないのでダメ押しの提案を持ち掛ける。
「それと、せっかくですしお昼はそちらで摂ろうかと。毎年お祭りの期間は出店が出てましたから。食事代くらいなら私が出してあげます」
続いて二人の声が重なった。
「「行きます!」」
まったく、現金な人たちだ。
梓くんを一度家へ帰し、ご両親へお祭りへ行ってくることを伝えさせる。しばらくすると今度は恐縮そうにしたお母さんと一緒に戻ってきた。
「梓に財布を持たせてますから、ご飯代はそこから出させてください。あと、これ。いつもお邪魔しちゃってすみません」
彼女から受け取ったビニール袋の中身はスナック菓子だ。顔を上げて目を合わせると、こんなものしかなくて、と彼女は恥ずかし気に微笑んだ。
「かえって申し訳ありません。こちらこそ、あまり入り浸らせてもとは思うんですけれど」
お礼を言うと、彼女はとんでもない、と頭を左右に振った。
「どうも佐伯さんのお仕事に興味があるみたいで。ご迷惑かとは思いますが、お手すきの時だけでも相手してやっていただけますか?もちろん、お仕事の邪魔になるようなら帰らせていただいて結構ですので」
「それこそとんでもない!いつもお手伝いしてくれて、とても助かってます」
そう言うと彼女はまた照れたようにはにかんだ。
梓君の母親から直接了承が取れたところで、三人で出かける。
春の西山がぼんやりと空に浮かび上がる。二色の絵の具で描かれたようなのっぺりとした山は、さながら水墨画の様相だ。あまりにもグラデーションがないせいで、本当に平面のように見える。家を出ると、その西山の方角へ歩を進める。
空気はまだ凛と冷たく、しかし日差しはすでに暖かい。春の午前中の空は、抜けるような青さが気持ちいい。吹く風の中にも、どこか芽吹く緑の匂いを感じる。
「そういえば、先生はずいぶんお祭りに行きた気な様子でしたけど何か御用があるんですか?」
途中、気になったことを先生に問いかける。普段は家の周りの散歩くらいしか外出しない先生が、今日はやけに乗り気だった。
「ここへ来てずいぶん経つけど、福寿草って描いたことなかったなと思って」
そう言って彼女は首から下げたカメラを持ち上げて見せた。
この群生地は数十万株の自生する福寿草を見ることができる、国内でも有数の名所だ。しかもこの辺りは市内よりも気温が数度低く、北側の斜面ともなれば雪も残りやすいため、雪と福寿草のショットが撮りやすい撮影スポットでもある。
「一昨年くらいから描きたいとは思っていたんだけど、ここ二年は開花時期に雪が降らなかったからね。せっかくなら雪と一緒の福寿草が描きたいじゃない」
先生はカメラをこちらに向け、シャッターを切った。
二キロほど歩いたところで、群生地が川を挟んで左側に見え始める。遠目では雪が残るばかりで良く分からなかったが、近づくほどにぽつぽつと黄色い塊が視界に入る。
八百メートルほど続く斜面をそのまま通り過ぎ、川を渡るとその先が祭り会場だ。とはいっても小さな田舎のお祭りなので、規模はそれほど大きくない。
祭りの会場近くには小さな商店があり、その軒先で法被を着た交通整備のボランティアが二人で立ち話をしている。そのうち一人は商店のご主人、そしてもう一人は近所の川田さんだった。
二人に軽く挨拶をして、短い会話を交わす。
「お客さんの入りはどうですか?」
川田さんは小さく肩をすくめた。
「まあぼちぼちね。土日でも観光バスは数台だけだし、一時期に比べればだいぶ落ち込んだんじゃないかしら」
数年前は休耕地になっていた田んぼを何枚か潰して駐車場を用意したほどの賑わいをみせたお祭りだが、今は休日でも観光バスが五台来れば良い方だ。
川田さんは、こっちの方が寂れた田舎の景色には合ってるけどね、と気持ちよさそうに笑った。
商店のご主人と川田さんに別れを告げ、斜面へ向かって歩き出す。
途中出ている出店を覗きながら歩いていく。焼きそば、焼き鳥、綿あめ、りんご飴。数は多くないが、屋台の王道が並んでいる。梓くんはきらきらとした目で一つずつ店を見て回っている。
さらに進むと、大きいが簡素なつくりの建物が建っている。中には豚汁やうどんを振舞う店と飲食スペースがあり、祭りの期間中開催されているフォトコンテストの写真が並び、福寿草の販売も行っている。
福寿草を見て回る前に、ここの飲食スペースで腹ごしらえをすることにした。
梓くんは先程の屋台で買った焼きそばとあんず飴を持って、私と先生はそれぞれうどんとラーメンを購入し席に座る。
「そういえば梓はブラバンはやってないのか?」
食事中、先生が梓くんに問いかける。
お祭りの開会式、近所の小学生の有志で組まれている金管バンドが、小さなパレードを行う。ほかにも地元クラブの和太鼓の演奏なんかもあったが、彼はそのどちらにも所属していなかったはずだ。
「ブラバンじゃなくて金管バンドね。うーん、俺んちは学校から遠いからなぁ。金管バンドの活動って朝だし、めちゃくちゃ早く起きなきゃいけないからやだな」
「また若者らしくない発言だな」
「なんだよ、先生だってさっき歩いてここまで来るの嫌がってたくせに。毎日三キロだよ?」
小学校は、群生地からさらに少し先に行ったところにある。家の遠い子は低学年の間はスクールバスがあるが、高学年の子たちは毎朝歩かなければならない。そういえば私も、中学で都会の学校に転校するまでは、早くに起きるのがつらくて朝から活動のあるクラブ活動系は参加しなかった。私自身は梓くんに色々言える立場ではないことを自覚し、黙って麺を啜る。
食事を終え福寿草を見ながら散策をしていると、梓くんが少し先の斜面が緩やかになっている場所を指さしながら言った。
「あ、この辺は僕たちが草刈りをしたとこだよ」
この群生地は地元の小学生とボランティアによって整備されている。夏には小学生が草を刈り、遊歩道が雨で崩れればボランティアが手直しする。
舗装されていないため、遊歩道は融け始めた雪で若干ぬかるんでいた。
メインの福寿草はというと、今は先日降った雪の間からちらほらと顔を出している程度だ。満開の時期にはまさに黄色い絨毯のように一面に咲く福寿草を見ることが出来るが、それにはまだ一、二週間ほど早いようだ。
先生はカメラを低く構え、雪に覆われた福寿草越しに民家や山並み、青空を映している。
「ちょっと出遅れたな。午後に入って空の彩度が落ちてきてる」
カメラのプレビュー画面を見ながら先生がぼやく。
薄っすらと出てきた雲が空を覆い、ぼんやりとした水色が広がる。景色は遠くに行くほど霞がかっている。これはこれで春らしいので私は気に入っているのだが、先生はお気に召さない様子だ。
先生の肩越しにカメラを覗き込むと、大きな福寿草が画面いっぱいに咲いていた。
「福寿草ではないですけれど、来る途中にナズナがたくさん咲いているところがありましたから、ナズナと西山を一枚に収めてもきれいなんじゃないですか?」
私の思い付きの提案に、西山は散々描いたからなぁ、と言いながら先生はプレビューの写真を次々に送って写真の映りを確認している。
続けて、本日のもう一つの目的も告げる。
「その間に私と梓くんは、フキノトウを摘んでいますから」
梓くんのお母さんに言った「助かっている」という言葉を、彼女はお世辞として捉えたようだが実はそうでもない。こうして野草を摘む時なんかは、実際に大助かりしている。私だけで作業するとなると、あっという間に腰を痛めてしまうだろう。
「さてはそっちが本命の目的だな?梓、お前屋台の飯をダシにいいようにこき使われてるぞ」
先生は視線の高さを梓くんに合わせ、告げ口するように語りかけている。
「俺が好きでやってることだからいいんだよ。ていうか先生の方がよっぽどこき使ってるからな」
この間だって学校帰りの俺をパシってさ、と今度は梓くんがぼやいている。
「本当は一人で摘んで帰るか、一度帰ってまたお二人を連れて外に出るかしようと思っていたんですけれど、ついて来てくれて手間が省けました」
先生の告げ口には聞こえないふりをして、二人の先に立って歩きだす。後ろから、先生の「うえー」という声が聞こえた。
途中フキノトウを採ってから帰宅すると、梓くんと先生はよほど歩き疲れたのかこたつへ直行してテレビを見だした。私は早速フキノトウの調理に取り掛かる。
まず、袋から全てザルにあけて水洗いで泥を落とす。それから十個ほどを天ぷら用に、残りをフキ味噌用に分けて味噌用のフキノトウを細かく刻んでいく。包丁を入れる毎にフキノトウ独特の青く苦いにおいがぷんと鼻を刺激する。
刻んだフキノトウはあっという間に香りが飛んでしまうため、ここからは時間との勝負だ。火にかけたフライパンに油を多めに引き、そこへフキノトウを投入する。しんなりしてきたらあらかじめ作っておいた味噌ダレを投入し、水分を飛ばしたら完成だ。
続いて天ぷらは、フキノトウだけでは寂しいためニンジン、玉ねぎ、ごぼうのかき揚げとちくわも一緒に揚げる。
途中梓くんがやってきて小さなフキノトウの天ぷらをつまみ、あからさまに顔をしかめた。
「大人はこんなのが好きなの……?」
そう言って口直しにちくわの天ぷらに手を伸ばす。そういえば私も昔は、舌が痺れるほど苦く感じたように思う。あの頃は、季節ごとにフキノトウを摘み、天ぷらとフキ味噌を拵え、しかもそれを毎年の楽しみにするようになるなんて思ってもみなかった。昔のことを思い出し、ふっと懐かしい気持ちになる。
その後ろから先生がやってきて、揚げたばかりのかき揚げをひとつ、手づかみで食べた。
「がきんちょにこの味は分かるまいよ」
先生はフキノトウを食べてもいないのに、なぜか得意げだ。コーヒーにもミルクと砂糖をたっぷり入れる彼女に、この味は苦すぎるだろう。
「そんなこと言いながら先生だって食べてないじゃんか。先生はミカクが子どもなんだな」
梓くんも思うところは同じようで、先生に抗議の声を上げる。
「もう、二人ともお行儀が悪いですよ。フキノトウは、梓くんにはまだ早かったかもね」
彼もいつか、昔はこの味が苦手だったのだと懐かしく思う日が来るのだろうか。それとも画家先生のように、ずっと食べられないままだろうか。
彼の成長した姿を想像して、今度は微笑ましい気持ちになる。
梓くんの帰り際、玄関先で小さな紙袋を渡す。
「タッパーにフキ味噌を入れておいたから。たぶんお母さんとお父さんなら食べられるんじゃないかな」
「お母さんから、あんまりいろいろ貰っちゃ申し訳ないでしょって言われてるんだけどなぁ」
梓くんをこの家に入り浸らせているうえ、色々と渡してはかえって気を遣わせるだけかとも思ったが、フキノトウはもともとおすそ分けする分も計算に入れて摘んできている。いま断られても余らせてしまうだけだと、もう一押しする。
「いいのいいの。せっかくの季節の味覚だからね」
梓くんは一度礼儀的に断った後、素直に紙袋を受け取る。
「ま、いっか。貰えるものは貰っておいた方が得だもんね」
彼のご両親は外から来た人だからか未だに遠慮の抜けないところがあるが、彼自身はこの町で生まれ育ち、幼い頃から人との距離が近かったためかご両親よりもここでの世渡りに長けているようだ。
「じゃあ、先生お願いします」
梓くんの帰りが遅くなる時は、必ず先生に送ってもらうようにしている。頼まれた先生は、ひらひらと手を振って先に歩き出す。梓くんは一度ぺこりとお辞儀をすると、先を歩く先生を追いかけて駆け出した。
玄関先まで出て、二人の姿が見えなくなるまで見送る。家の中へ戻る前に空を見上げると、雲の影に春の夜空がぼんやりと見え隠れしていた。
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