第5話 クーデター ~ 排除された創業一家

1990(平成2)年2月下旬の某日曜日 岡山市中心部の坂崎邸にて


   1

 「ごめんください、稲田です」

 70代半ばの老紳士が、坂崎邸の前に現れた。

 「はい、お待ちください」

 出てきたのは、50歳前後の女性と、その息子で20代の大学生の二人だった。

 「あ、お久しぶりです、先生、どうぞ、おあがりください」

 「お邪魔いたします。いやあ、突然立寄らせていただいて、申し訳ない」

 母親は、老紳士を応接室に通した。程なくして、大学生が若い女性を連れてきた。老紳士には、その若い女性との面識があった。

 

 「ありゃあ、愛美さん、大きくなられたねぇ・・・」

 「稲田先生、お久しぶりです。お言葉ですけど、身長は、中学生の頃とほとんど変わっていませんよ。体重も、さして増えていませんし・・・」

 「そうか、それは失礼なことを申し上げたな、御免なさい。きれいになられたというべきでした。いやはや・・・。それから、勝巳君、今年は、司法試験に合格できそうかね? 先日お話した限りでは、答案練習会でもしっかりと答案が書けているようなお話をされていたけど、どうかな?」

 「ええ、何としても合格しないといけません。自主留年もあと1年しかできませんし、これで合格できなければ、きっぱり諦めて仕事します」

 「そうですか。何としても合格しなさいよ。いつまでも愛美ちゃんの「ヒモ」ってわけにもいかないからねぇ・・・。まあ、いざとなったら、くすのき学園で雇ってあげても、いいけどね」

 「え? 先生、とっくに辞められているのでは・・・」

 「君が驚くのも、無理はない。私はとっくにくすのき学園の園長を退任しているから、そんなこと言える立場じゃないと思われるかもしれんが、実は、あのくすのき学園で、ちょっとした事件が、起こってなぁ・・・」


 くすのき学園というのは、岡山市西部にある養護施設(現在の法令では、児童養護施設)で、稲田健一氏は、小学校長を定年退職後、園長として6年間勤めていた。その間、様々な改革を試みたが、彼より一回り以上年長の女性理事長との折合いは最後まで良かったとは言えず、児童相談所長を定年退職した理事長の夫の教え子が後任園長として赴任するのを機に退職していた。しばらくは悠々自適に過ごしていたのだが、つい一昨年前の年末から昨年の年明けの時期にかけて、くすのき学園でいろいろと「事件」が起きていたため、再びくすのき学園から声がかかり、出てくる機会が多くなっているという。


   2

 「園長先生、新聞で見ましたよ。くすのき学園で、自殺未遂騒動が起きたそうですね。噂では、他にもいろいろと事件が起こったようで・・・」

 母親が、そのことを報じた地元紙を持ってきて、稲田氏にお見せする。

 「確かに、この事件も大変だった。この記事から察するに、そのようです・・・」

 「お言葉ですけど、そのようです、とは、ちょっと・・・」

 いささか無責任感のある発言に、勝巳がやんわりと食って掛かる。

 「勝巳君がそうおっしゃるのも、無理はない。無責任なようだが、実はね、私はこのときまだ、くすのき学園に関わっていなかった。園長を退任してこの方、くすのき学園とはなんの御縁もなかった。顧問でもなければ、理事でもなかった。実はね、この事件も、一連の事件のうちの「氷山の一角」でしてね、まあ、皆さんには、追ってお話ししたいと思って、立ち寄らせていただいた次第です」

 「それで、園長先生、少しは、あのくすのき学園って施設、よくなってきたの?」

 中二の途中まで在園していた愛美が尋ねた。あんなひどい施設もなかったと、勤める病院の看護師仲間の会話でたびたび話題にしていたが、元園長にこんな話を聞かされたら、いくら今は何の関係もない立場とはいえ、気になって仕方ないというもの。

 一歩間違えば、自分だってそうなったかもしれないという思いが、彼女にはある。

 「お世辞にもよくなったとは、まだ言えない。これから少しずつ、よくしていくしかない。ここまで問題点が噴出した今こそ、改革のチャンスじゃ。そうそう、申し遅れていました。これが今の、私の名刺です」

 稲田氏は、名刺入れから1枚の名刺を取り出した。それには、こう書かれていた。


 社会福祉法人くすのき育成会 理事長 稲田 健一


 その名刺を受取った愛美は、勝巳と彼の母親に見せた。

 「え? 先生、なぜまた、急に・・・」

 「実は、昨年の理事会で、理事に選任されましてね、その後すぐ、理事長を仰せつかりました。理事の顔ぶれも、あの「事件」で、がらりと変わりましてね・・・」

 稲田理事長は、くすのき学園で起きた顛末を、彼らに話し始めた。


   3

 昨年1月下旬、創立者の妻だった前理事長が亡くなりました。84歳で、私より干支一回り上の方でしたからね。30年ほど前に夫だったくすのき学園の理事長を亡くして、それからずっと、理事長職を務めて来られた。彼女は、終戦直後の戦災孤児を収容していた孤児院時代の感覚が、最後まで抜けきれなかった。時代に合わせようという努力をしてなかったとは言いませんが、考えや感覚が時代と合わなくなっていたことは確かです。

 彼女の息子さんは、私の前の園長ですけど、以前、不正が発覚して園長を解任されていて、法人の理事としてはその職にとどまっていましたけど、私がいた頃はまだしも、後任の青山という元児童相談所長が園長に就任してからは、またなにがしかの影響力を持ち始めていました。なんせ彼は理事長の息子で、創立者一家の長男ですからね。児童福祉だけではだめだ、これからは老人福祉もということで、そちらの仕事も、別法人を作って始めました。このところ高齢者が増えつつありますから、それなりに需要もありますし、今後ますます伸びる業界ですからねぇ。彼、そちらのほうに力を入れておって、養護施設の運営には、それほど興味も持たなくなっていたようです。ただ、自分がいた頃の不正だけは暴かれたくないという思いがあって、青山前園長や母親である理事長と結託しておりましてね、それには、少なからずの理事の間でも、問題視はされていました。

 私が以前出した「お正月の紳士」という本、坂崎さんにもお送りして、お読みいただきましたけど、あの本を社協が出版してくれたにもかかわらず、彼らは、自分たちの不正や仕事ぶりが世に知られてはまずいと思って、回収騒動を起こしました。やむなく私は、本人名義で2年後に再出版しましたが、あの本をお読みいただいた方々からは、様々な感想が私のもとにも寄せられています。私がお配りした覚えのない方からも、いくつも、お便りが寄せられました。本屋で大々的に売ったわけでもないのにねぇ。私がお渡しした人から勧められて読んだ方もおられれば、図書館などで読まれた方もいらっしゃる。

 「養護施設は今もこんなに劣悪な環境なのか、一体県は何を指導しているのか!」

 「稲田さんの書かれているエピソード、これでもきれいごとに感じられるのは、気のせいでしょうか、実態はもっと、ひどかったのではないですか?」

 「福祉にかかわる職員のレベルは、そんなものですか・・・。やっぱり、程度が知れていますね。そんなことだから、社会から馬鹿にされるのですよ」

 「改革なんかやって無駄なら、解散してしまえばいいでしょう、そんな施設」

 まあ、いろいろありますけど、くすのき学園という施設について「いい場所だ」と少しでも言ってもらえている声、何一つとは言いませんけど、ほとんどない有様ですよ。


 それでもね、救いはありました。

 今から2年前、昭和63年の春から、子どもの人権について一家言を持っている奥澤渡さんというベテラン弁護士がおられるのですが、この方が、理事に就任されましてね。最初の1年は、様子をじっくりと観察しておられた。理事長はすでに病床にあって、その影響力はほとんどなくなっていました。息子のほうはというと、とにかく不正がばれなければいいや、親父の教え子の園長がうまいことかばってくれるからというので、安心していたようですが、園長当時の不正だけでなく、理事になってからの不正も、発覚してしまいました。奥澤弁護士は、理事長親子と現園長の不正の証拠を、完全につかんでしまいました。その気になれば検察庁に告訴できるだけの証拠固めもされていたようです。勝巳君はご存知かもしれんが、あの奥澤さんは、中学を出てバスの車掌をしながら定時制高校を出てO大に進んで、弁護士資格を取得した努力家の弁護士さんです。それを申し上げたら、わかるでしょう、彼らのような人間の不正を、最も嫌う手合いの人だよ。

 そうこうしている間に、あの年の12月半ば、園児の自殺未遂事件が発生したのです。彼は、中2の男子児童でした。それ以上のことはここでは申し上げられない。表沙汰になったとはいえ、詳しいことをここで述べるのは避けます。もう少し発見が遅れたら、もっと大変なことになっていた。自分がやっていないことで青山園長に責められて、それを苦にして、くすのき学園の屋上で、深夜、自殺を図った。幸い、当直の男性指導員が見回り中で、事なきを得ました。下手に救急車を呼ぶと、ことが大きくなりかねませんからね。当直の保母だけでなく、住込みの保母も協力して、何とか、救急病院までくすのき学園のバンを運転して運び込み、事なきを得ました。

 彼の命には、別状ありませんでした。しかしこのことは、児童相談所だけでなく、理事の奥澤弁護士や他の人権団体にまで知られることになった。新聞に掲載することは極力控えてもらったようですが、協産党筋ばかりか、地元紙や全国紙に至るまで、この事件を知られてしまっていました。その気になればいつでも何らかの記事を書かれても仕方ない環境に置かれてしまった。結局、地元紙の備讃新報と夕刊のニチオカこと日々岡山新聞に、少し間を置いた段階でスッパ抜かれてしまいました。坂崎さんがお持ちの記事は、そのうちの備讃新報のものですね。ニチオカの記事のほうが、備讃よりもっと、手厳しかった。県から改善勧告が出されたちょうどその段階で、まずは備讃がこの記事を出しました。病床の理事長は、その話を聞いて、ショックで体調をさらに崩してしまい、昭和の終りとともに、去年の年明け1月中旬に死去されました。私はその件に関して、実は、備讃新報の記者から話を聞いて、インタビューも受けました。この記事には出ていませんけどね。自殺未遂をした児童は、私が園長をしていた最後の年に、確か6歳でくすのき学園に預けられた子でした。愛美さんもご存知の子だと思う。あえて、名前は言いません。

 だけどねぇ・・・せっかくそこまで大きくなったのに・・・。

 

   4

 昭和が終って平成になった2月初旬に、奥澤弁護士は理事会を招集しました。ここまで理事会の開催を待ったのは、高齢で入院中の前理事長の容態を見ての上で将来の体制を組むことが肝要であるとの、奥澤弁護士はじめ他理事らの判断でした。私はその場にいませんでしたが、その理事会は、かなり紛糾したようです。あとで議事録を読んだり、関係者からお聞きしたりしたことを総合すれば、とにかく、大変だったそうですな。

 まず、理事長の死去に伴い、新理事長の選出をしなければいけない。息子は、自分が理事長になれるものと思っていた。ところが、奥澤弁護士を理事に招聘したある理事の動議により、息子は理事長になれるどころか、理事を「解任」されてしまいました。解任に反対したのは、前理事長の夫の教え子だった青山園長だけでした。彼もまた、理事に名を連ねていたのですが、彼以外の理事は、くすのき学園の内情をあの自殺未遂事件以外からもかねて聞き及んでいたので、これはもう、創業者一族に任せるわけにはいかないという意識になっていました。弁明の機会を与えられて、元園長でもある彼は、園長時代のことも含めて散々弁明しましたが、それも虚しく、彼は解任されました。

 そればかりではありません。理事長の息子に引続き、青山園長に対しても、理事を解任する動議がなされました。それはもちろん。あの自殺未遂事件が引き金です。これについては、満場一致で可決されました。彼もその事件について弁明しましたが、ある理事に、

 「あんたは子どもらに言い訳するなとか言い訳はいけないなどと指導しているようじゃが、その言い訳は何なら! 」

と怒鳴りつけられ、シュンとなったそうです。ただし園長の職務については、引続き年度末までを限度として、正確には、後任が決定するまで引続き行うことになりました。その条件が飲めなければ、解任の上退職金も出ないということになれば、そりゃあ、辞任を選びますよね。二人は、憔悴しきった顔で控室に戻ってきました。

 この後、新理事を選任する動議がなされました。別室に待機していたのは、私と県議会議員の宮原龍介さんでした。彼は民自党の国会議員の秘書を務めていましたが、30歳になる目前に一斉地方選挙に出馬し、県議になって1期目です。今度の選挙でも、再選されるでしょう。彼は保守系の議員ながら若手だけあって、子どもたちの人権に対しても一家言持つ人物です。奥澤弁護士とは政治信条は異なりますけど、子どもたちの権利を守ることへの思いは強く、不正を許さないという点では共通の土台を持った人ですからね。

 元園長でもある前理事長の息子と現園長の理事が解任されたのち、私と宮原さんは理事会に呼ばれ、その場で、全会一致で理事に選任されました。理事長代行には、奥澤弁護士がすでに就任していましたので、彼が議事を進行していました。

 私と宮原さんが理事として入室すると、早速、後任園長をどうするかという話になりました。私に、園長職の再登板を求める意見も出ました。しかしながら、私自身はもう70代で高齢であり、園長職を引受けるのは荷が重すぎるという理由で、辞退しました。理事長代行で議事進行役の奥澤弁護士から、それでは仕方ない、誰か園長職を引受けてくださるような人はいないかという話になりました。あいにく、男性指導員も事務長も30代半ば。園長職は、あまりに荷が重い。そこで、奥澤さんを招聘した例の理事が、よつ葉園に移籍した元児童指導員の梶川氏を招へいしたらどうかと提案されました。彼はよつ葉園をすでに退職して児童福祉の仕事を離れており、実家の財産管理をしながら生計を立てていました。その日のことにはならないということで、理事会はひとまず閉会されました。

 いずれにせよ、この理事会ならば、停滞どころか後退していたくすのき学園の改革が再び進められる。私には、そんな希望を抱くことができる状況が整いました。


   5

 「それはまた、大変だったようですね・・・」

 母親の弁を受けて、息子の勝巳が言葉をつなぐ。

 「稲田先生、私は、愛美からあの頃のくすのき学園の事情をいろいろ、今まで聞いていましたけど、ひどい場所だったようですね。愛美は土屋の叔母夫婦に中2で引取られたから、その青山とか何とかいうオッサンの実害を食らわずに済んだからよかったようなものだが、あんなところから高校に通わされていたらと思うと・・・」

 稲田氏は、苦笑しながら勝巳の言葉をたしなめた。

 「まあ君、そう言いなさんな。青山さんなりに、あれでも頑張られたんじゃから。じゃけど、やっぱり、昔ながらのやり方が抜けきれなかった。児童相談所の職員にも、いろいろ、問題点はあるからなぁ・・・、今も」

 「自殺未遂した男の子、私はもう、誰かはわかっているけど、彼、どうなったの?」

 愛美の質問に、稲田氏が答える。

 「あの子には、あんたと一緒で、母方の叔母夫婦がおられて、とりあえず、そこに引取ってもらうことにした。ああそうか、あんたのところは父方の叔母夫婦じゃから、ちょっと、違うといえば違うが・・・」

 「本質的には、変わらんでしょうが、そんなの・・・」

 勝巳の「ツッコミ」に、稲田氏が思わず苦笑する。

 「勝巳君も、毒舌に磨きがかかっているねぇ・・・」

 「先生、こんなの、毒舌のうちにも入りませんよ。うちのO大の後輩で、司法試験を受けようってことでやってきた1回生の男がいましてね、米河清治君というのですが、そいつは小6の初め頃まで、養護施設にいたというから、どこかときいたら、よつ葉園にいたそうですよ。ほら、津島町にあった頃の。彼の毒舌に比べれば、まだまだです」

 稲田氏は、米河清治少年とは直接面識はないが、よつ葉園関係者からかねていろいろ話を聞いていたので、その存在は知っていた。

 「私は米河君とやらは面識がないので何とも言えんが、一度会ってみたいものだね」

 「いつでも、ご紹介しますよ。先日彼から、よつ葉園で過ごした頃のことをいくらか聞きましたけど、愛美から散々聞かされたくすのき学園に比べたら、随分いいところと言ったら、語弊があるかもしれんけど・・・、第三者としては、そんな印象を受けました」

 稲田氏は、やっぱりそうか、という顔つきで、勝巳に言葉を返した。

 「だろうね。あの施設は、先駆的な取組で有名なところだったから、そういう印象を君が受けても、無理はないだろう」

 「でも先生、これから、くすのき学園をよつ葉園に負けないだけの場所にしていかなければならないわけですよね?」

 勝巳の母の言葉に、稲田氏は、しっかりとした口調で答えた。

 「その通り。私が理事に復帰してこの1年、じっくりと様子を見てきました。これからが、本番ですな。そうそう、私が理事に就任して一番にした仕事、何だと思います?」

 「何なのですか?」

 「O大の法学部にいる勝巳君なら、すぐわかると思ったが・・・」

 「そんなところで、私の学歴を使われましても、ねぇ・・・」

 「じゃあ、君に質問する前に、今までの話の「おさらい」をします」

 稲田氏は元小学校教諭だった人だけに、こういう話は、お手の物だ。

 「まず、くすのき学園という養護施設で、ある年の年末、「事件」が起きた。そのとき病床にいた高齢の女性理事長は、その翌年明けに死去した。彼女は当然、理事長の職務はできないね。代わりを選ぼうという話になった。その息子も理事をしていて、だな、何といっても、前理事長の息子だし、元園長でもあるから、当然自分が理事長になれると思っていたが、彼は、他の理事から自らの不正を完全に把握されていて、それを理由に、理事長になれるどころか、理事を解任された。前理事長夫妻の息のかかっていた園長も、理事を務めていたが、こちらも、前年末の「事件」を理由に、理事を解任された。だが彼は、園長としては、依然その職務に留まっています。君がくすのき学園を運営する社会福祉法人の理事長なら、そんな人間を園長としていつまでも留めておけるか?」

 「そりゃあ、無理です。勘弁してください。一刻も早く、後任を見つけてお引取り願わなければいけません。それから、理事長の選任もしなければなりませんよね」

 「まあ、そういうこと。引続き、そのときの話をさせていただくとしましょうか」

 稲田氏は、勝巳の母親が出してくれていたお茶を一口すすり、くすのき学園「改革」の話を、さらに続けた。


   6

 その翌週、再度理事会が開かれました。議事進行役で理事長代行の奥澤弁護士が、理事会の開催を宣言されて、早速、肝心な議題に入りました。

 「まずは、新理事長の選出をいたします。各理事のご意見を伺ったところ、くすのき学園の前園長でもある稲田健一理事を新理事長に選出するべきであるとの御意見が多数あります。稲田理事にお尋ねします。本法人の新理事長職、お受けいただけますか?」

 この件については、かねて奥澤弁護士より打診を受けていましたので、直ちに、お受けする旨の意思表示をしました。

 「それでは、稲田健一理事を、社会福祉法人くすのき育成会の新理事長とすることに賛成の方、挙手を願います」

 私は利害関係人として、奥澤弁護士は議長として賛否に加わりませんでしたが、他の委員からは、反対は出ませんでした。

 「それでは、全会一致で、稲田健一理事を新理事長とすることに決定いたしました。以後、議事進行は新理事長の稲田健一理事に譲ります」

 そういうわけで、私が、議長に祭り上げられてしまいました。

 「梶川弘光君に、本法人が運営するくすのき学園の次期園長就任の打診をしましたところ、給与体系を早急に見直し、来年度4月1日より、直ちによつ葉園と同等以上のものに改訂することを条件に、承諾を得て参りました」

 この日の議題は、新園長を誰にするかということだけでした。梶川君をよく知っている理事が、先日梶川君に園長就任を打診して、承諾を得ていることを報告されました。

 梶川君は昨年時点で37歳。よつ葉園の大槻和男指導員が園長に就任したのと、偶然にも同年齢です。大槻さんのときは年長のベテラン保母がいたようですけど、幸い、梶川君の場合は、自分より年上の職員は誰一人いない。ベテランの白井芳子保母もすでに定年で退職して久しく、20代前半から半ばまでの保母と、30代になったばかりの男性指導員が2人。事務長は彼より2歳下の男性で、梶川君の高校の後輩、気心知れた仲です。

 これなら、彼もいろいろとやりやすいのではないか。幸いその日、梶川君は理事会に招かれていました。別室で待機していた彼に入室してもらい、私から、園長就任を正式に打診しました。彼から快諾を得たので、理事会はそれで終了しました。

 

    7

 ただし、私には一つだけ、仕事が残っていました。

 理事会終了後、直ちに、理事でもある奥澤弁護士と、新園長の内諾を得た梶川君とともに、その足で、くすのき学園の事務室に向かいました。青山園長は在園していました。

 彼は、来る時が来たという顔で、私たち3人を園長室に招き入れました。


 「新理事長に就任した稲田健一です。御無沙汰しております。今日は、あなたにとって重要なお話があって、伺いました。来年度の本園の人事ですが、理事会では、この梶川弘光君に、新園長に就任していただくことで内諾を得ました。つきましては、この3月末をもって、くすのき学園長の職を退いていただきたいとのお願いです」

 「梶川君が園長ですか・・・」

 青山園長は、少し嫌そうな顔をしたが、何とか、平静を装っていました。同じ職場で勤務したことはないものの、たびたび接触があったために、両者とも面識はありましたが、お互い反りが合わず、青山さんが児相を定年退職してくすのき学園に園長で赴任するとともに、梶川君はくすのき学園を退職して、よつ葉園に「移籍」したほどですからね。

 「そうです。理事会としましては、彼ならこのくすのき学園を十分引っ張っていけると判断し、園長就任をお願いしました。梶川君も、快く引受けてくださるとのことです」

 しばらく黙っていた青山園長は、すでに用意していた辞任願を、私に提出されました。宛名は、理事長である私宛となっていました。

 「それでは、3月末まで、引続き園長職を全うしてください。あなたを園長職からも解任しなくてよかった。これで、退職金もお支払い出来ますし、あなたの名誉も保たれました。それから、梶川君への引継ぎも、どうかよろしくお願いいたします」

 青山前園長は、昨年3月末をもって、くすのき学園を円満に退職されました。

 梶川新園長は、この4月に就任されて、改革に向けて日々取組んでおられます。

 

   エピローグ

 「私が理事長に就任して、この1年間、梶川さんは園長として、本当に良く、頑張ってくださっています。彼はよつ葉園で、大槻園長の良い点も悪い点も、いろいろ学んできておりますから、その経験を糧に、このくすのき学園を、子どもたちの安らげる「家」として、これから、もっともっと盛り立ててくれることでしょう」

 勝巳の母は、微笑をたたえて頷いた。息子の勝巳の婚約者でもあり、元園児でもある愛美が、稲田理事長に尋ねた。

 「そのお話、私の兄夫婦、三宅義男と愛子には、すでにされているのですか?」

 

 稲田理事長は、にっこり笑って、答えた。


 「はい。つい先日、あなたのお兄さんの義男君と義姉になる元保母の愛子さんに、街中でお会いしましてね、そこで、お話ししました。くすのき学園がさらに良くなっているようで何よりですと、お二人とも、喜んでおられました。あなたや義男君だけでなく、これまで巣立っていった元園児の皆さん、それから、愛子さんのような元職員の方々、取引先の皆さん、地元の方々・・・、多くの人に愛されるくすのき学園にするには、まだまだ、時間がかかると思います。私が生きているうちにそれが達成できるかどうかもわかりません。ですが、あとに続く人たちが、必ず、くすのき学園を子どもたちにとって本当に安らげ、そして巣立っていける「家」として、心のふるさととして、大人になっても懐かしんでもらえる場所になるよう、たゆまぬ努力をしてくれると、私は、信じています。勝巳君にはきれいごとと思われるかもしれんが、それが、私の「夢」なのです」

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