第115話 一途な想い
「そんなに緊張するなよ」
この光景を見るのは自宅を出てから何度目だろう。胸に右手を当てながら、大きく深呼吸をする妙。
「……いざとなると緊張するものね」
今年の入社式で、先輩代表として新入社員に仕事の心得を語っていた人と同一人物とはとても思えないなぁ。
「大丈夫だって。そこら辺にいる普通の初老の夫婦だから。それに今日は西家の天使も降臨中だから」
先週、静に妙を実家に連れて行くと伝えたところ宣言通り同席させろと言ってきた。もちろん、ちーも一緒だ。
「ふふ。陣くんが骨抜きにされるくらいの女の子だから嫉妬しちゃうかもね」
「誰もがちーには骨抜きにされるからな。妙だって他人事じゃないぞ?」
小さい子どもはどこに行っても癒しをもたらしてくれる。俺だけではなく父さんや母さんだって、ちーの笑顔には勝てない。
「婚約者の前で他の女を褒めないの」
少しは妙も落ち着いてくれたのか、俺の肩に頭を乗せながらクスクスと笑っている。
「心配するなよ。妙が1番だから」
「それって2番もいるってことだよね?」
どこかで聞いたフレーズだな?
「俺にそんな甲斐性があるとでも?」
「昔から随分とおモテになってましたけど?」
脇腹をギュッとつねられた。思い当たる節があるのでされるがままに。
「ご存知のとおり、いまではすっかり妙フリークです」
俺の肩に乗ったままの頭を優しく撫でると、目をつむりくすぐったそうにしている。
「もっと甘やかしてくれていいのよ?」
「足りてないか?」
「愛情とは別物なんだよ」
♢♢♢♢♢
「じーくん」
玄関を開けた俺に向かって小さな影が近づき、止まった。両手を広げて待っているのでそのまま飛び込んでくれていいんだぞ?
「だれ?」
目をまんまるにしたちーが妙を見て固まっている。
「はじめまして、ちーちゃん。そうだなぁ、いきなりおばちゃんはキツいから妙ちゃんって呼んでね」
「うん? たえちゃ?」
「うん。たえちゃん。じーくんのお嫁さんになるの」
不思議そうな表情で妙を見つめるちーは、左右に首を傾げている。
「およめしゃん? たえちゃはじーくんのママになるの?」
真剣な表情で聞いてくるちーの背後から控えめな笑い声が聞こえてきた。
「違うよ、ちー。じーくんのママになったらおばあちゃんよ。じーくんのお嫁さん。パパとママみたいになるってことよ。ちーから見るとおばさんね」
静のおばさんと言う言葉に、妙の眉がピクッと反応した。せっかく妙ちゃんと自己紹介したのにな。
「久しぶりね静。すっかりお母さんが板についたみたいね」
「お久しぶりです、妙先輩。うちの愚兄がお世話になってます。ほらっ、ちー。じいじもばあばも待ってるからどうぞしてあげて」
静に言われて本来の自分の役割を思い出したちーは、小さな手でスリッパをちょこんと置いてくれた。
「えっと、いらっしゃいませ」
「ありがとうちーちゃん。お邪魔します」
妙がスリッパに履き替えて靴の向きを直してると、パタパタと廊下を走ってくる音がした。
「いらっしゃい妙さん!」
エプロンを外しながらやってきた母さんは、途中で静にエプロンを預けると、ものすごい勢いで妙の手を握りしめた。
「あ、はじめまして。陣くんとお付き合いさせていただいてます、桐生妙です」
「ありがとう!」
妙の挨拶の後、間髪入れずにお礼を言った母さん。俺も静もこんな母さんを見るのは初めてで思わず顔を見合わせた。
「えっ? え?」
お礼を言われた妙は意味が分からずにあたふたとしている。
「あっ、いきなりごめんなさいね。早くあなたにお礼が言いたくって。人生を諦めたような陣を引っ張り上げてくれて、ありがとう」
紫穂里と別れてからの俺を、両親が心配してくれていたのは知っていた。だからこそ、実家からも離れた場所に移り住んだ。
「いえ。お礼を言われるようなことはしてません。私は普通に陣くんと恋愛をしただけです。受け入れてくれたのは、陣くんなんですよ?」
恥ずかしそうに母さんに説明をした妙が、助けを求めて視線を送ってきた。
「ほらっ、母さん。こんなとこにいると風邪引いちまうから話は中でしようぜ」
母さんの背中を押してリビングに向かうと、ソファーで新聞を読んでいる父さんがいた。こっそりと覗いていたらしく、新聞はベタに逆さまだ。
♢♢♢♢♢
「たえちゃ、たえちゃ」
昼食を食べ終わる頃には、ちーはすでに妙に懐いていた。おかげで俺は若干の寂しさを覚えながら食後のコーヒーを飲んでいた。
「で、式はするの? どこに住むの?」
ちーの相手をする妙とは違い、特にやることのない俺に、静は質問攻勢をしかけてきた。
「まだ何も。結婚するっていう意思表明だけ。できれば家はこっちにしたいって妙は言ってるからこの辺りで探すことになりそうだな」
「へぇ〜、じゃあ気軽に遊びに行けるね。私も職場復帰するから、何かあった時は頼らせてね」
「まあ、それはお互いさまだからな」
「妙先輩、……お義姉さんも、そのときはお願いしますね」
母さんと一緒にちーの相手をしていた妙が、驚いた表情で振り向く。
「あっ、うん。任せて」
そう答えた後の妙の表情はうれしそうに綻んでいた。
「まっさか妙先輩と義姉妹になるとは思ってなかったよ。変な意味じゃなくてね。バイトが一緒ってことは知ってたけど高校だって違ったしね。人生どうなるかわかんないね」
「俺だって帯人と義兄弟になるなんて思わなかったしな」
俺も帯人も高校時代は違うパートナーがいて、こんな未来があるだなんて想像すらしていなかった。
「それは……、私が頑張った成果だから」
恥ずかしそうに視線を外しながら呟いた静。
「そうだな。それは間違いないよな」
俺たちだって、一途に思い続けてくれていた妙のおかげで今がある。
「そうよ。お兄ちゃんも妙先輩には感謝しなきゃだめだよ?」
「言われなくてもわかってるよ」
切り替えは女性の方が早く、男は女々しく引きづる。身に覚えがあるだけに言葉がない。
こと、想いの強さってのは女性の方が強いのかもと考えさせられた。
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