第110話 前へ
「ん〜、あれっ?」
朝、目を覚ますと隣に人の気配がしてドキっとした。恐る恐る視線を向けると穏やかな表情の彼の寝顔がある。
ディスティニーでの楽しい一日が終わり、私たちは東京都内のホテルで一夜を過ごしていた。
そっと彼の前髪に触れて掻き上げると、普段よりも幼く見える。
彼の寝顔を見たのは初めてじゃないし、同じベッドで一夜を過ごすのも初めてじゃない。
でも、恋人として一夜を過ごすのは初めてだ。
ん? ちょっとおかしいかな?
ディスティニー内のレストランで、私は愛の告白を通り越したプロポーズの言葉をもらった……よね?
「これからの人生も、俺の隣にいてくれないか?」
30歳までには結婚したいとみんな言うけど、私もギリギリ間に合うみたい。
あの言葉、プロポーズの言葉だよね? よくよく考えてみると、その確認をとっていないことに気づいた。
いまさら私たちの間で愛を確かめ合うとか、お付き合いしてみて相性を見るとかは必要ないから、あの言葉はプロポーズの言葉と受け止めていたけど、ひょっとして……。
♢♢♢♢♢
「あっ、おはよう」
朝、目が覚めると妙が正面からじっと俺の顔を見ていた。
「えっ? と、おはよう。……これはどういう状況?」
「陣くんの寝顔を見てたの」
「悪趣味だな」
「いいでしょ? それよりも、早く準備してごはん食べにいきましょ。もうレストランやってるよ」
ベッドに据え付けてある時計は7時15分と表示されている。
「了解。準備するよ」
布団から出て顔を洗いに行こうと思ってるんだけど、第一段階すらままならない。
「こらっ、くっついてたら動けないだろ」
妙が両手でしっかりと俺の身体を拘束していからだ。
「う〜ん。だって、ねぇ。自分で言っておきながらなんだけど、せっかくだからもう少し陣くんの温もりを確かめててもいいかなって思って」
お互いにベッドの中は生まれたままの状態で抱きしめあっている。ダイレクトに妙の温もりも柔らかい感触も伝わってくる。
「うん? いまから?」
「違います。そっちは夜までお預けです。……我慢できれば、ね?」
そういいながら、妙はギュッと身体を密着させる。足を絡め、胸も潰れるくらいに。
「お〜い。俺の理性を試してるのか? 時間の問題があるだけで自重する必要はないんだから、素直に夜の続きするぞ?」
何をしても構わないというわけではないが、俺と妙との間柄で遠慮はいらないと言うことだ。
「そこっ! 自重する必要はないってことは私と陣くんは特別な関係ってこと……ですかね?」
かわいらしく首を傾げる妙。
「はっ? いまさらっていうか、昨日の告白はなんだったんだよ。妙だって拒否しなかったよな?」
「うん。拒否する気なんてないからね。一応、確認。付き合ってとか結婚してとか直接的な言葉ではなかったから、ね。ちょっと不安になっちゃった」
妙は苦笑いを浮かべた後に、俺の胸に顔を埋める。
「あ〜、そっか。そりゃ悪かったよ。ただな、恋人になるとか、夫婦になるとか、かたちよりも一緒にいたいって気持ちの方が強かったからな」
恋人になって、夫婦になる。
それが自然な流れであることくらいは理解しているし、妙とだってそうあるべきだと考えている。いまはもう結婚に対するトラウマみたいなものもない。
「ふふっ、そっか。いまさらだったね」
「ああ、だからと言ってかたちのないものにする気はないけどな。しかし、なんだ。それをベッドの中で囁くってのもいかがなもの?」
「別にシチュエーションにこだわりはないよ。本当にそう思ってくれてることが1番大事なんだもん」
そう言った妙の表情は、カーテンの隙間から差し込む光よりも眩しく映った。
♢♢♢♢♢
「ぐぬぬぬねっ、私は認めないからね!」
旅行から帰った翌日の昼休み。デスクで一緒に弁当を食べていた織姫に妙とのことを話しておいた。いい加減、こいつも視野を広げないと行き遅れてしまう。帯人曰く「織姫ちゃんが結婚できなかったときは、盛大なざまあの完了だな」らしい。
フラれた直後は苦しかったけど、今では幼馴染として織姫にも幸せになって欲しいと心から思う。
「お前もいい加減、周りに目を向けてみろよ。この部署だけでもお前のことを狙ってるやつが何人もいるんだぞ? 賞味期限切れる前に覚悟決めろよ」
妙の手作り弁当を味わいながら織姫に言うが、両手で耳を塞ぎ「あ〜、あ〜」と子供みたいな真似をする。
「ねぇ、陣」
上目遣いで見つめてくる織姫。
「なんだよ」
「んっ、んん!」と咳払いをしてから呼吸を整える織姫。
「愛人でも、いいよ?」
真面目に聞いて損をした。
「お前、そういうところだぞ? ポンコツ思考なくせば素材はいいんだから引くて数多だと思うぞ」
そう織姫に言うと、拗ねたような表情を浮かべながら呟いた。
「誰でもいいわけじゃないでしょ? だからだよ。なりふり構ってられないの。それでも……終わらせなきゃいけないときは、くるんだけどね」
織姫と続く奇妙な関係から、昔のような幼馴染の関係に戻れる日がくることを切実に願っている。
♢♢♢♢♢
久しぶりの残業で一人遅くに帰宅をした。
玄関を開けると部屋の中から何やら話し声が聞こえる。一瞬、来客かと思い足下を見るが、見慣れた妙の靴しかなかった。
邪魔にならないようにリビングの扉をそっと開けると、その音に驚いたのか妙の身体がビクッと跳ねた。
「あっ、じゃ、じゃあもう切るね」
妙は俺の姿を確認すると慌てて電話を切った。
「……ただいま」
「おっ、おかえり。ごはんまだだよね? 待っててね、すぐに準備———」
自分でも取り乱してる自覚があったようで、訝しむような俺の視線を感じとった妙は、ゆっくりと俺の前にやってきた。
「あの、やましいことはないの。いまのはお母さん」
「ああ。まあ、慌てる必要はない相手だな」
妙にしては珍しい。けど嘘をついてる様子も見受けられない。
「うん。えっとね。……陣くんに、会いたいって言ってるの」
なるほど。
紫穂里との別れの原因を知っている妙としては気を使ってしまう案件かもしれない。
「あ〜、そっか。……しまったなぁ、本来なら一緒に住む前に挨拶に行くべきだったな」
「でも、それは私が押しかけてきたからで、陣くんが気に病むことはないよ?」
そうは言っても受け入れたのは俺だ。
「いや、早いうちに行こうか。俺も妙のお母さんに会ってみたい」
妙のお母さんが俺にどんな印象を持っているかはわからない。でも、俺は初めて会う妙のお母さんとは気が合いそうな気がしていた。
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