第106話 過去との決別
時間と言うものは常に流れ停滞することはない。俺が紫穂里と別れてから4年の歳月が過ぎ去った。その間に妹の静は帯人と結婚し、ちーが生まれた。
まだ赤ん坊だったちーは話せるようになり、自分の足で歩けるようになった。
俺は今、自分の足で歩けているのか?
時間の流れに身を任せてイタズラに歳を重ねているだけなのかもしれない。暗いトンネルの中を自分の足で歩みを進めている方がいくらかマシなのかも……。
♢♢♢♢♢
「陣、今日はお昼から一人で本部? 桐生さんよね? まさか二人っきりってことないよね? 私も一緒にイこうか? なんならそのまま陣のウチまで一緒に行くよ?」
東野の結婚式からひと月は経っているだろうか? その間の俺は自分でも自覚できるくらいおかしかった。
そんな俺を心配してくれているのか、それともただの嫉妬なのだろうか? 織姫はこれまで以上に俺と一緒にいたがるようになっていた。
「問題ない。妙もいるんだし、そうそうヘマはしないぞ。それよりも、お前は真梨と市内の店舗回りだろ? しっかりとした報告書ができるようにサポートしてくれよ」
「過保護よ。真梨ちゃんよりも、今は陣の方が心配なくらいよ。……話してもらえないのは寂しいけど、少しくらいは頼って欲しいな。愚痴くらいなら聞けるし、
「なにが夜伽だ、なにが」
途中まではかっこいい台詞だったのに、最後の一言が残念だ。
「そうですよぉ。その役目はぁ、若い私にお任せください」
「……」
真梨の言葉にどう返すか迷っていると、織姫からジト目を向けられた。
「陣?」
最近は真梨や鹿乃ちゃんと身体を重ねることはなくなっている。まあ、たまに3人で飲みには行くけどな。
「西マネージャー、寂しくなったらぁ、いつでも声かけてくださいね。しっかりと癒してあげますからね」
軽口に聞こえる真梨の台詞も、彼女なりの気配りだと言うことを最近わかるようになってきた。
「わ、若いからいいって訳じゃないから! 陣の性癖は私の方が詳しいんだからね!」
「やめい! 変なこと口走るなよ」
暴走し出した織姫の頭にチョップを落とす。
「イタッ!」
恨みがましい目で見てくるが、自分の言動にもう少し注意して欲しいものだ。
♢♢♢♢♢
午後からの本部での妙との打ち合わせは、現在進行しているプロジェクトの進捗確認だった。
「まだ日程的には余裕があるんだけど、年末のカウントダウンが気がかりね。元旦の初売りのことを考えると、人員の確保がね。実施店舗を減らすなりしないと現場からも不満が出そうよ」
「各店舗の若手にイニシアティブをとらせてもいいんじゃないか? 結局、上からの強制って思うから不満が出るんだろ? だったら自分たちで意見を出させた方がやり甲斐もでるし、責任も持たざるを得ないだろう」
顎に手を当て考える素振りを見せていた妙だが、陣と目が合うとうれしそうな表情で「そうね」と呟いた。
マネージャー2人の打ち合わせとあって効率よく話し合いは進み、気がつけば予定していた18時よりも1時間も早く終えることができた。
「じゃあ、議事録まとめたらメールするね」
「いいのか? 毎回、妙にやってもらってないか? たまには俺にもやらせてくれよ?」
「ううん。ウチ主導の案件だから私がやるよ。それに、打ち合わせしながらまとめてたから、そんなに手間かからないしね」
さすが妙だ。普通ならば記録係を専属で置いてもいいような規模の打ち合わせでも、平然と同時進行していくだけのことはある。
「ん、了解。それじゃあお先に失礼するわ」
「うん。お疲れ様」
一旦、会社に戻り部下の報告書に目を通しているとすでに20時を回っていた。働き方改革導入後、残業時間の上限には非常に厳しくなっているため、急いで会社を後にした。
普段よりも人の出が多く、街の賑わいからも今日が週末だということを思い起こさせる。
デパートのショーウィンドウにはオレンジの装飾が施され、ハロウィンが近いことを連想させた。
「日本にもハロウィン文化が根強いてきたな」
見慣れた街並み、普段ならばゆっくりと眺めることなんてしないのに、この日はなぜか周りの風景に視線を奪われていた。
『キッ!』
この辺りでも有名なホテルの前を通っていると、地下駐車場に入るために車が一台、目の前を通り過ぎたところで止まった。
レクサスか。
心の中で呟いていると、助手席のドアが開き中から女性が下りてきた。
「先に行ってます」
そう運転手に告げた女性に、俺の視線は釘付けになった。
後ろ姿しか見えない。
後ろ姿でも間違えるわけがない。
俺が心の奥底で密かに待ち望んでいたシチュエーション。
俺が心から望んでいたシチュエーションが目の前で現実となっている。
「……紫穂里」
諦めることなど出来なかった。
忘れることなんて出来なかった。
また、会えると信じていた。
その背中に声をかけようと、一歩踏み出そうとした刹那、身体の向きを変えた紫穂里の肩にかかっていたバックで何かがきらめいた。
赤ん坊を抱っこした母親が描かれたデザインのストラップ。
……マタニティマーク。
俺はそれ以上動くことができなくなっていた。身体は硬直し動かないのに思考は目まぐるしく動いている。
この4年の歳月の中、紫穂里は結婚し子を成していた。
その事実は、別れたときの状況からいえば一番可能性が高い未来だったはずで、俺が一番目を背けたかった未来。
「あっ」
その声につられて視線をあげると、紫穂里の視線と絡み合った。
小刻みに身体は震え、その瞳は涙で潤んでいる。
"陣くん"
言葉にならないその呟きは、なぜか俺の耳にははっきりと届いた。
その姿に、俺は駆け寄り抱きしめた衝動に駆られる。
それは叶わないことだと知りながら。
しかし、それと同時にこの場から、いやこの世からも消えたい気持ちにもなる。
それは、現実を受け止めたくないから。
互いに見つめあったまま、動けずにいる。
それは、紫穂里と別れてからの俺の人生のように、俺をこの場に縛り付け、身動きが取れない。
どれだけの時間が過ぎたかわからない。きっと数分の出来事なんだろう。しかし、俺にはそれが何時間にも及ぶ出来事のように思えた。
視界に映る紫穂里は溢れる涙を拭うこともせずに俺をずっと見つめている。紫穂里がどんな気持ちで俺を見ているかなんてわからない。懐かしんでいるのか、それとも罪悪感を感じているのか。
幸せの絶頂にいるであろう紫穂里に、俺がかけるべき言葉はない。それなのに、紫穂里はこの数歩の距離を縮めようと、ゆっくりと足を踏み出そうとしている。
「———。お疲れ様」
その場に縛り付けられていた俺の肩に、トンっと手の温もりが伝わり、身体に自由がもたらされた。
紫穂里から外せなかった視線の先に、優しく微笑む、妙がいた。
「……妙」
掠れた声で紡ぎだした名前。
「うん。こんなところで立ち止まってると危ないよ?」
屈託のない笑顔が、霞みがかった俺の心を明るく照らしてくれた。
「だな」
無理矢理に笑顔を作った俺は、妙の手を取り、振り返ることをせずに歩き出した。
♢♢♢♢♢
いつもの公園のベンチで、俺は空を眺めていた。周りのビルの明かりに邪魔されて星なんか見えるわけもないのに。
「あ〜、悪いな付き合わせたみたいで。タクシー呼ぶから先に帰ってくれ」
スマホを操作してタクシー会社に連絡をしようとすると、隣に座る妙に遮られた。
「ううん。陣くんのそばにいたいから」
わざと甘えるように振る舞ってくれているのは、俺に対する気遣いだろう。
「そっ、か」
あてもなく、空を眺め続けていると肩にトンと妙の頭が乗ってきた。
「ねぇ、陣くん。大人だって、悲しい時は泣いていいんだよ? 甘えて、いいんだよ?」
「……気づいてたんだな」
「うん。面影、あったから」
「そ、か」
高校時代、バイト先で妙は何度も紫穂里に遭遇していたからだろう。
「陣くんの様子もおかしかったし」
「……サンキュ———」
ふわりと全身を包まれる感触に言葉を遮られる。
隣に座っていたはずの妙が、正面から抱きしめてくれている。俺に覆い被さるように、その胸に俺の顔を埋めさせて。
「これなら泣いてもわからないでしょ? あ、でも、あまり顔は動かさないでね」
「……バカ、ヤロー……」
溢れる涙は、妙の胸に吸いこまれ俺の頬を伝うことはなかった。
妙は公園のベンチで、俺のベッドで、いつまでも俺を抱きしめてくれていた。
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