第93話 さよなら

「お嬢! お偉いさんになっちまうらしいな!」


 久しぶりに工場に顔を出した私を、砂田工場長が笑顔で出迎えてくれた。お父さんが社長に、入社する以前から会社に在籍している重鎮。本来なら本社で役員になっていてもおかしくないほどの業績を残しているが、「現場第一主義」らしく工場から離れる気はないらしい。


「偉くはないですし、まだなんとも」


 お父さんが守ろうとした会社は、私が陣くんとの未来を棒に振ってまで守るべきものなのか? お母さんの言いたいことがわからないわけではないけど、私には陣くんのいない未来は考えられない。


「そうなのか? 社長が変わって現場の人間も不安がってるからな。特にパートのおばちゃん連中」


「そっ、か……」


 工場で働いてくれているパートのおばちゃんたちは、主に近所に住んでいる人たちだ。地域貢献になると言うこともあり、お父さんは軽作業をパートのおばちゃんに任せている。


「このご時世だからな。ここをクビになると次見つけるのは大変だ。運良く見つかったとしても年齢的にな? 新しい仕事を覚えるのも一苦労だ。鳴海の坊は悪い奴じゃないんだけど効率重視だからな。ひょっとしてクビ切られるんじゃないかってビクビクしてるわけだ」


「だからって、私じゃなにも———」


 できないよ? 先輩に勝てる要素なんて持ちあわせてないから。


「なに、立場が人を強くしてくれるさ。お嬢は見た目はカミさん譲りだけど、中身は親父さん譲りだ。いざとなりゃみんなを守ってくれるって信じてるんだよ」


「私みたいな弱い人間を信じちゃだめだよ」


 私は陣くんに寄り添ってしか生きられないんだから……。


「あははは! そんな深刻な顔しなさんな! 大丈夫! 俺らはお嬢の味方だ。一人で背負うな! 俺らがお嬢を頼るみたいに、お嬢も俺らを頼ればいい。だろ?」


「……おじちゃん……」


 私は、社長じゃなくても必要とされてるの? 私にはここで、やるべきことが?



 工場を後にし自宅に戻るが、お母さんはまだ帰ってきていない。自宅に戻ってきても、お母さんはずっとお父さんのそばにいる。


 私はそんなお母さんを1人にして家を出る? 私がいなくなったこの家で、お母さんは生活できるのだろうか? 陣くんに同居を相談してみる? 


 そんな厚顔無恥なことはできない。


 結局、私は……


♢♢♢♢♢


 いつものようにコンビニ弁当を携えて帰宅した俺は、階下から見える自室の明かりに思わず駆け出した。


『ダンダン』と力強く階段を駆け上がり『ガチャガチャ』と忙しなくカギを開ける。


「紫穂里!」


 靴を脱ぎ捨てて部屋へ飛び込んだ俺を、エプロン姿の紫穂里がで出迎えてくれた。


「おかえりなさい。……あっ、連絡しなくてごめんね」


 手に持ったコンビニの袋を見つけて申し訳なさそうにする紫穂里。


「あっ、ああ。いつでも食べれるから気にしないでいいよ」


「……もう少しでできるから、待っててね」


 いつもと違う様子の紫穂里。部屋着ではなくスーツの上からエプロンをしている。キッチンで出迎えられたのも、初めてだ。


「ああ」


 不安な気持ちを隠しながら部屋着に着替た。


♢♢♢♢♢


「「いただきます」」


 久しぶりということもあるのか、目の前に並んでいるのは俺の好物ばかり。それなのに気持ちが昂ることもなく、二人とも淡々と箸を進めている。


「あっ、陣くん。おかわりあるからね」


「ああ。……ごめん、残りは明日の朝にでも食べるよ」


 配膳されたものを食べるのが精一杯で、おかわりなんてできる状況じゃなかった。


「……うん」


 紫穂里もそれ以上は何も言わず、余った料理はタッパに移し替えていた。


 食事が終わり洗い物をしようとキッチンに行くと、紫穂里に止められた。


「私にやらせて? ほら、これまでできなかった分を取り戻さなきゃ」


 これまでも後片付けは俺の役割だったのだから気を使う必要はないのだが、頑なに譲ろうとはしなかった。


 片付けが終わった紫穂里はソファーに座る俺の正面、センターテーブルを挟んだクッションの上に座った。


 何かを言いかけては俯く紫穂里を、俺は黙って見つめた。


「……話が、あります」


 やっとのことで口を開いた紫穂里の顔をよく見れば、目元は隈ができ、表情も冴えない。


 そんな彼女を見れば、俺でも薄々感じてしまう。


『いい話』ではないということを。


「……うん」


 息が詰まりそうな思いのまま、なんとか相槌を打つ。


「……私と、別れて、ください」


 泣くのを堪えているような声高のその言葉は、俺が一番聞きたくない言葉だった。


「どういうこと? それは俺よりもアイツを選んだってことか? それとも、すでにそういう仲だったってことか?」


 いまにも爆発しそうな感情を抑えながら紫穂里に問いただす。


「違う! それはない! 浮気なんて絶対にないから! それだけは……、それだけは、信じて、ください」


「いまさら、信じたところでどうにもならないことだったな。別れてくれって言ってる相手を信じる必要もないよな」


 紫穂里は必死になって訴えてきたが、事実を知ったところでどうにもならないことに気がついた。紫穂里の心が離れてることには間違いないのだから。


「……違う、の。本当に、違う。先輩と結婚ってことじゃないの! それは、違うの……」


 涙声になりながらも、必死繰り返す。


「……ああ、そう。ってなるとは思ってないよな? 結局、俺は何かと天秤にかけられて負けたんだ。それが会社なのか、家族なのか、アイツなのか……、ああ、全部ひっくるめて、か……。は家族も会社も見捨てることができない。それなら1番切り捨てやすい俺を切り捨てればいい。単純なことだ」


「……そんな、そんなふうには考えて———」


「……いい子ぶるなよ。違わないだろ? 俺と別れてアイツと結婚する。そして一緒に会社をやってくんだろ? 綺麗に別れようとするなよ。婚約破棄までするんだ。嫌われろよ……、そうだな、婚約破棄で訴えるか? 世間に知れ後ろ指さされて会社の評判落とすぞ、って俺が脅せばいいか?」


 結婚の意思を見せ、指輪を受け取り、式場の下見にも行った。訴えれるだけの要件は満たしてるだろう。


「……が望むなら、そうしてください。それだけの覚悟はしてきました。私だって、私だって陣くんと、……陣くんとずっと一緒にいたい! こんなこと言うべきじゃないのはわかってる! でも、でも……、『お母さんが亡くなるまで待って』なんて言えない。だったら、もう別れるしかないもん」


 流れる涙を拭うこともせずに真っ直ぐに俺を見つめる紫穂里。緊張か興奮か。身体は小刻みに震えている。


「……結局、俺にはなんの相談もなく答えを出したって訳だ」


 紫穂里にとって俺は、それだけの人間だったんだな。


「……ごめん、なさい。これが私の出した答えなの」


 「コトン」とテーブルの上に小さな箱を置く。


「これは、お返しします」


「……返されても、困る。使い回しなんて……ああ、もう使うこともないし、一度あげたものだ。責任持ってしてくれ」


「……わかり、ました」


「ああ、あと部屋の荷物は俺のいないときに取りに来てくれ。終わったらカギは郵便受けにでも……いれといてくれ。もう……会う必要も、ないだろう?」


 これで、最後なんだと。そう、思うと胸が張り裂けるほどの悲しみが襲ってきた。


 結婚して幸せにすると誓った相手が去っていく。抗うことができるのであれば……。


「楽しかったよ? 幸せ、でした。陣くんと出会えて。愛し合えて、幸せな毎日でした。私はこの先も絶対に陣くんのことを忘れないよ。でも、でもね? 陣くんは早く私のことを、忘れてね? 陣くんが幸せになれるなら恨み続けて」


 人を恨むことで得られる幸せなんてあるのだろうか? 


 俺が出来ることは忘れることしかないんじゃないだろうか?


「さよなら陣くん」


 その時の紫穂里の表情は、俺の心の奥底に永遠に刻み付けられた。

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