第92話 受難
仕事が終わり電車に揺られること20分程度で最寄り駅に着く。アパートまでは徒歩5分。階下から見上げる自室に明かりはなく、思わずため息をついてしまう。
玄関の扉を開け、暗い室内に「ただいま」と言ってみるが、返事はない。
昨日の告別式の後、紫穂里からもらった電話で『しばらくは帰れそうにない』と言われた。
人が亡くなった後、遺族のやることは多い。主に役所や銀行、紫穂里の家の場合は法務局などに提出する書類やら臨時の株主総会や定款の変更などしばらくは胃の痛くなるような忙しさらしい。
そして、その忙しさが落ち着いたころにやってくるの寂しさだろう。
部屋の電気を付けてコンビニで買ってきた弁当を電子レンジに放り込む。その間に手洗いうがいをして部屋着に着替えると『チン』と電子レンジが鳴る。
「いただきます」
最近のコンビニ弁当のクオリティは高くなっていると思う。それでも一人で食べる弁当はやはり味気ない。
「我がまま言ってられないか……」
♢♢♢♢♢
「お世話になりました」
自宅に戻った私は、祭壇を設置してくれた葬儀会社を見送り和室に戻った。
写真の中の笑顔のお父さんを、じっと見つめるお母さん。悲しみや寂しさは私だって感じているのに、2人が積み重ねてきた年月や愛情は私なんかでは推し量ることができないものなんだろう。
和室に入り2人を見つめる。
いつもは大きく写っているお母さんの背中は小さく、そして儚く見える。
愛する人を亡くすということがどれだけ辛いことなのか。それを今、まざまざと見せつけられている。
お見合い結婚だった両親は、娘の私の目からみても仲のいい夫婦だった。私が高校生の頃。まだ陣くんに片思いをしてたあの頃。お母さんは私に教えてくれたことがある。
『お母さんたちは確かにお見合い結婚だよ? でもね、お母さんにとっての運命の人ってお父さんだったんだって自信を持って言えるの。だって、きっかけがどうであれお母さんは今、とっても幸せだもの。だから、紫穂里もそんな相手に出会えるといいわね』
その時の私は、その相手が陣くんならいいなって思った。
そして今の私は、その相手が陣くんなんだって思ってる。
「……お母さん」
私が和室に入ってから時計の針が一周した頃、小さな背中に話しかけた。
「……ん?」
正面を向いたまま、お母さんは小さく反応してくれた。
「いつまでもこんな格好してたらお父さんも心配するだろうから、いつも通りの格好に着替えようか」
私の言葉で軽く視線を下げたお母さんがゆっくりと振り向いた。
「そう、ね」
無理をして作った笑顔には、涙のあとがしっかりと残っていた。
♢♢♢♢♢
もう、出社するつもりのなかった会社。
お母さんを1人にするわけにもいかずに、私の運転する車で一緒にきた。
「じゃあね」
朝一の役員総会のために会議室に向かったお母さんと別れて、2階にある自部署に向かう。
「おはようございます」
挨拶をする私をみんなは温かく迎え入れてくれた。
「あれ?」
いつもなら先にきている鳴海先輩が席にいない。
高卒で入社した鳴海先輩は最初は工事勤務を希望していたそうだ。しかし、先輩の研修の様子を見ていたお母さんが半ば強引に営業に配属。そこでお父さんの目に止まり可愛がられたらしい。
「いまの俺があるのは全て社長のおかげだ。だからこの恩は目に見える結果で応えなきゃならないんだ」
入社した当時、鳴海先輩に仕事のモチベーションを聞いた時の答えだ。自分を見出してくれたお父さんのことを、先輩は恥ずかし気もなく尊敬していると言ってくれた。普通、従業員は多少なりに経営者に対して不満を抱くものだと思うんだけどなぁ。
先輩不在のまま部署別の朝のミーティングを迎えた。
「みんなも噂程度には聞いてると思うが、鳴海が今日の役員総会で取締役に就任する。しばらくは営業も兼務する予定だ。社長が亡くなって大変な時期を迎えるだろうけど、踏ん張ってくれ。何かあればすぐに相談してくれ。こういう時こそ慌てずに基本に立ち帰れよ」
部長の一言で、少し肩の荷が下りたような気がした。
夕方になり経理に提出する領収書をまとめていると、渦中の鳴海先輩がやってきた。
「有松。第3会議室まで来てくれ」
「第3会議室ですか?」
少人数でのミーティングで使用する会議室への呼び出しに思わず身構えてしまうと、違和感を感じた先輩が説明をしてくれた。
「奥さんがも一緒だから。そう身構えんでくれ」
苦笑いの先輩が先導して会議室に向かった。
『コンコン』
「失礼します」
会議室の扉を開けると、4人掛けのテーブルの1番奥でお母さんが資料に目を通してる姿が目に入った。
「ああ、お疲れ様。2人とも適当に座って」
「失礼、します」
疲れた様子のお母さんだが、仕事中に弱音を吐くと言うことは考えられない。
入り口に1番近い席に座ると、隣に先輩が座った。
「終業間際にごめんね。正式発表は株主総会の後になるけど、さっきの役員総会で鳴海が次の代表取締役に選任されたわ」
「……は、い」
すでに既定路線だったし、会社を辞める予定の私には関係ないこと。それでもやはり胸がズキッと痛む。
「あと、もう一つ。あなたの取締役就任も了承されたから」
「はっ?」
思いがけないセリフに思わず身を乗り出す。
「まあ、私か紫穂里のどちらかが取締役になる必要があるのよ」
お母さんはそう言いながら書類を一枚私の前に置いた。
「登記簿?」
そこに記されている所在地は会社の住所ではなく、私の家の住所だった。
「あまり詳しく知らないだろうけどね、その権利部ってところ。根抵当権ってあるでしょ? 要するにね、会社の運転資金の借入に家の土地と建物を担保にしてるわけ。だから、ね。相続人の私たちのどちらかが経営に携わってないと不味いのよ」
「それなら、お母さんがなればよかったんじゃないの? 私は会社を辞める人間だよ? なんで———」
お母さんの悲しそうな表情に、これ以上話すことが出来なかった。
「……お父さんが命をかけてまで守ってきた会社なの。あなたも協力してちょうだい」
お母さんの手が伸びてきて、私の手を包み込んできた。
「……事情は聞いている。だけど今は緊急事態だ。頼む! 会社のために力を貸してくれ」
隣に座る先輩もガバっと頭を下げてきた。
「それなら、私がこのまま陣くんと結婚しても問題ないじゃない? 役員として仕事を続ければいいんでしょ? 最悪、外部取締役で名前だけでも———」
「……そんなことをして、無用に社員に不満を抱いて欲しくないわよ。それに結婚して子どもができたら? あなたの性格なら家庭を優先するでしょ? そうなった時に旦那が社員なら、ね?」
「陣くんを拒絶したのはお母さんじゃない!」
「彼が側にいたら、あなたは成長できなかったんじゃない? 優しい彼に甘えてしまったでしょ? あなたは先頭に立つタイプじゃなく傍で支えるタイプの人間よ。これは人事部長としての判断。あなたには鳴海を公私ともに支えて欲しいのよ」
「……無理だよ」
私はお母さんの主張を受け流し、会議室を後にした。
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