第90話 悪い予感
「……はぁ。もぅ、ほんとに……ごめん、ね」
車の中からアパートに帰ってきてからも、紫穂里はずっと泣いていた。
俺に対しては『ごめんね』と、悔しそうな、悲しそうな、いくつもの感情が入り乱れているような表情を向けてくる。
「……紫穂里は、何も悪いことをしたわけじゃないんだから謝る必要はないよ。じゃないと、俺だって紫穂里に謝らなきゃいけないよ? 『家族の仲を切り裂いてごめん』ってね」
俺の実力不足も、あるとは思う。だけど紫穂里の両親を認めさせたのは1人しかいない。確率が悪すぎるだろ? だいたいの人間がアウトだったわけだ。
「私が陣くんといたいって願ったんだよ? 親が反対するなら縁を切るしかないもん」
涙の跡を拭いながら紫穂里は俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「だから、陣くんは罪悪感なんてもたないでね? もしね? 罪悪感を感じちゃったら……。そんなこと忘れるくらいに私が幸せにしちゃうからね。だから、陣くんも私のこと幸せにしてね」
左手薬指に光る指輪を愛おしそうに撫でる紫穂里を、そっと抱き寄せて肩に頭を預けさせる。
「当たり前だろ? でも、もう一度話ししてみるよ。できる限りのことはしたいんだ。遺恨を残したいわけじゃないし、紫穂里に全てを投げ出して欲しいわけでもない。できる限り、みんなが納得できるようにしたいんだ。……これから生まれてくる俺たちの子どものためにも、ね?」
「……うん。でも、家には帰らないよ? 私、ここにいてもいいかな?」
不安そうに見上げてくる紫穂里に優しく笑いかける。
「当たり前だろ? ここは紫穂里の家でもあるんだから。ずっとここにいればいいよ」
いまさらな感は否めないが今の紫穂里は精神的に弱っている。緊張状態から抜け出せていないのだろうか? 時折、身体が震えている。
「うん。ちょっとだけ、得した気分だね」
クスリと小さく笑う紫穂里。
「なんで?」
「だって、こんなに早く陣くんと暮らせるようになるのは予想外でしょ? だから、怪我の功名かな? ちょっとだけいいことがあったね」
強がりだってことはわかってる。それでもポジティブになろうとしている紫穂里が愛おしくて。
「だな。ネガティブなことばかり考えても仕方ないな。……これからの生活のこと、考えようか? 部屋をどうしようとか、子どもは何人欲しいとか。やらなきゃいけないことはいっぱいあるだろ?」
紫穂里の両親の説得が1番重要なことには変わりがない。それでも、俺たちの将来が共にあることも変わりがないことだ。
「ふふっ。子どもは……もう少し後でもいいかな? しばらくは陣くんとの新婚生活に浸りたいもん」
「それは……タイミング次第ってことで。まあ、しばらくは二人っきりがいいってのは同意するけどね?」
♢♢♢♢♢
翌朝。
「とりあえず、会社は有休取ることにするね。いまはまだ、冷静に話せる自信がないよ」
朝食を食べながら紫穂里がため息混じりで呟いた。
「わかった。会社のことは俺にはよく———」
わからないと言いかけたところで、カウンターに置かれた紫穂里のスマホが震え出した。
「こんな時間に電話?」
紫穂里が小首を傾げながらもスマホの通知を確認する。
「お母さん?」
その言葉を聞いた瞬間、なぜだか俺は身体が震え、嫌な予感がした。第六感とでも言うのだろうか? こういう時の予感は大抵間違っていない。
紫穂里はそのままスマホを戻して食事を続ける。その間も着信は途切れることがなかった。
「紫穂里?」
昨日の今日で話しにくいというのは理解できるが、この時は出るべきだと思った。
「……はい」
観念したようにゆっくりとスマホを耳に当てた紫穂里の表情が一気に崩れた。
「意識がないって? ……うん、医大病院ね。わかった!」
病院……、よくない予感はよく当たる。
♢♢♢♢♢
「すみません。救急で運ばれてきた
「有松さんですね。お待ち下さい……第5処置室になります」
病院に着いた俺たちは、救急外来の受付で行き先を確認し処置室に急いだ。
『トントン』
緊張の面持ちで扉をノックした紫穂里に『はい』と返事をしたのはお母さんだった。
「お父さん!」
扉を開くと小さな処置室にいたのはベッドの隣のパイプ椅子に座って項垂れているお母さんと、愛娘の声に反応することができなくなったお父さんだった。
「……うそ……、なん、で?」
ゆっくりとベッドに近付いた紫穂里が涙声で呟いた。
「今朝ね。なかなか起きてこないから、起こしに行ったの。そしたらね? もう……、なんにも反応しなくて。……急いで救急呼んだんだけど、もう……」
お母さんは両手で顔を覆い嗚咽を漏らし出す。
「なん、で? 私のせい? 私が2人に逆らって家を出たから?」
ベッド脇でお父さんと対面した紫穂里がその場に倒れ込んだ。
「お父さん! なんで? わかんないよ! なんで! ……なんで、よ……」
紫穂里の肩を抱き、そっと立ち上げる。
目の前のお父さんは、俺が今まで見てきた中では1番穏やかな表情をしていた。
「……あなたたちの、せいじゃないわ。それだけははっきりしてるから」
お母さんは溢れる涙を気にもせずに愛おしそうにお父さんの頬を撫でた。
「ここ数年、うちの経営は厳しくてね。お父さんはロクに休みもしないで働いてたわ。不摂生な生活を送らせてしまってたのね。……脳梗塞、よ」
本来なら休みのはずの土日でも、紫穂里のお父さんが仕事に出ていることは聞いていた。経営者としての責任や重圧なんかは俺には到底わからないことだ。
「まだ、教えてもらいたいことが、あったのに……。もっと話したいことがあったのに。……お父さん、お父さん、お父さん!」
人は生まれた時から誰もが死に向かって歩き始める。年齢や性別に関わらず等しく訪れるもの。
それでも、このタイミングでのお父さんの死は、今後の俺たちに大きな影響を及ぼすだろう。
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