第89話 決別
「ただいま〜」
誰もいない部屋の玄関で独り言のように言う。靴を揃えて玄関を上がり、クローゼットを開けて部屋着に着替える。
勝手知る彼氏の部屋。
私にとって、ここは「ただいま」の場所。大好きな陣くんと一緒にいられる場所。
部屋を見渡しながら右手で左手を覆うと、薬指に陣くんからの愛の証を確かに感じる。
「子供ができたらこの部屋は狭いなぁ。やっぱり一軒家かな?」
これからやってくるだろう陣くんとの新しい生活に想いを馳せながら晩ご飯の支度をはじめた。
30分後
『ガチャ』
玄関のカギが開き「ただいま」の声が聞こえてきた。
「おかえり」
コンロの火を止めて玄関に向かうと、足音に気付いた陣くんが私を抱きとめてくれた。
「いいにおいだ。今日はブリの照り焼きだな」
私の頭を優しく撫でながら部屋中に広がるにおいをチェックしてるようだ。お腹空いてるよね?
「正解! って昨日予告しておいたからでしょ〜。もう少しでできるから着替えて待っててね」
周りから見たらすでに新婚生活が始まってるような雰囲気だろう。事実、私もそんな気分だったりする。
「ん。ヤケドするなよ?」
「もうっ! 何年、陣くんの彼女やってると思ってるの! いまさらそんなヘマはしませんよ〜っだ。……たぶんね」
私の言葉を聞いた陣くんは笑いながら洗面所へと移動していった。
いままでも、そしてこれからも変わることがない私の想い。
「大丈夫。明日も陣くんと一緒なら乗り越えられる
左手を右手でギュッと胸に抱きながら、私は明日に控えた『決戦』の勝利を祈った。
♢♢♢♢♢
「よしっ」
姿見の前でネクタイをキュッと締め直して全身をチェック。この大事な舞台に用意したのは誕生日に紫穂里からプレゼントしてもらったスーツ。
高校時代、全国大会をかけた大一番。あの試合前の緊張感が蘇る。
約束の時間は13時30分。移動時間は車で10分。早すぎず、遅刻は論外。
今日は紫穂里は自宅で俺を出迎えてくれることになっている。なので昨日の夜から緊張しまくりで、朝から妙にソワソワしている。
「やばいなぁ。プレゼンの前だってこんなに緊張しないぞ」
普通の結婚の挨拶と言えばほぼ勝確で、こんなことになってはいないだろう。冷静に戦況を分析すると、俺の勝率は3割あるかどうかと言うところだ。それでも、負けは許されない。俺と紫穂里の将来に関わる大事なことだから……。
有松家に着いた俺は、やって来た勢いのままインターホンを押した。こんなところまでやってきて怖気付いてたんじゃあ、元より紫穂里の相手とは認めてもらえないだろう。
『ピンポーン』
インターホンの音がやけにうるさく聞こえる。家の外にまで響き渡っているんじゃないかと内心ビビっていると「は〜い」と聞き覚えのある声が返ってきた。
「西、です」
紫穂里であることはもちろんわかっているのだが、一応、な。
『お待ちください』
インターホン越しだが、紫穂里の声もいつもより固いようだ。
「いらっしゃい」
出迎えてくれた紫穂里は空色のワンピース姿で、表情はやはり固い。
だめだな。
俺は内心で呟く。
結婚の挨拶と言えば本来ならば喜ばしいこと。それなのに紫穂里を笑顔にさせてやれないのは俺のせいだ。
「なんて顔してるんだよ。いつものかわいい顔見せてよ」
紫穂里のほっぺを突きながら言うと、クシャっと強張った表情を崩してくれた。
「……うん。上がって」
ギュッと両手を握ってくれた紫穂里がリビングに案内をしてくれた。
扉を開けるとソファーに座っているお母さんと目が合った。
「お邪魔します」
「西くん、いらっしゃい。こちらへどうぞ」
お母さんは自らが座るソファーの正面に座るように促してきた。
「失礼します」
促されるままに座り、紙袋から手土産を出して手渡した。
「会社のみなさんで召し上がってください」
受け取らない可能性を危惧したのだろう。紫穂里が素早く受け取りキッチンへと持って行ってくれた。
「わざわざありがとうね。西くん」
「いえ。こちらこそお時間作っていただきありがとうございます」
戻ってきた紫穂里が俺の前にコーヒーを置き、隣に座ったので今日の本題に入ることにした。
「先日、紫穂里さんに結婚を申し込ませていただき了承をしてもらいました。お付き合いさせていただき8年が経ち、将来を共に支えあっていきたいと思っています。まだまだ若輩者であることは理解しておりますが、紫穂里さんと結婚させてください」
ストレートに気持ちをぶつけようと、言葉を予め用意してなかった。紫穂里を思う気持ちが伝われば……、ただそれだけだった。
「お父さん、お母さん。私はこれからもずっと陣くんと一緒に過ごしていきたいと思ってます。だから、認めてくれませんか?」
隣の紫穂里も震える声で必死に気持ちを伝えようとしているのがわかる。
「8年、ね」
お母さんは目を閉じながら小さく呟く。
「この子が高校2年の夏くらいだったかしらね? その頃は少し反抗期で会話も減ってたんだけどね? 『西くん』の名前をよく聞くようになったの。意地悪な先輩から助けてもらったとか、力仕事手伝ってくれたとか。
はじめは片思いだったから初々しくてね。可愛かったわよ?」
「お、お母さん?」
突然の暴露話の始まりに紫穂里はオロオロしだした。まあ、出会ったころは積極的に絡むこともなかったしな。
「お付き合いをはじめてからはすごく積極的になったわ。お料理もあの頃から新しいことにチャレンジしたわよね。インド料理とか。ロシア料理なんかも一緒に作ったわよね?」
「もうっ!」
楽しそうに昔を振り返るお母さんと、恥ずかしい過去をバラされて不貞腐れている紫穂里。
そうだよな。紫穂里はいつでも俺を笑顔にしようとしてくれているんだよな。いまでも見たことのないような料理が用意されていることがたまにある。
「あの頃頑張ったから大学時代に西くんの胃袋をちゃんと掴めたんでしょ? 努力の賜物よ」
「……うん。それは、ね」
お母さんの言葉に紫穂里は素直に頷いた。
「いまのあなたは西くんのために努力した結果よ。そういう意味ではすごく感謝してます。西くん。ありがとうね」
突然、頭を下げてきたお母さんに、俺も慌てて頭を下げ返した。
「それでも、ね?」
お母さんが居住まいを正して真っ直ぐに俺を見つめ……?
「結婚を認めることは、できないわ」
「お母さん!」
最悪の展開に紫穂里は悲しみを隠せない。
「理由を聞いても、いいですか?」
紫穂里のように叫びたい気持ちを押さえながらゆっくりと口を開いた。
「うちの会社はね、同族会社で経営権は基本的にうちの親類にしかないの。これは昔からの慣習ね。だから紫穂里には優秀な人間を婿に迎えてもらわないといけないの。もちろん、西くんが優秀じゃないとは言ってないわ。でもね。うちにはすでに私たちは勿論、社内外でも人望が厚い後継者がいるの。だからね? 理想としては紫穂里に彼と結婚してもらいたいの」
真っ直ぐに、俺の目をみながら力強く告げる言葉は、反論をする余地すら与えないくらいの決意を含んでいた。
「それならなぜ、高校時代に付き合うことを反対しなかったんですか?」
「学生時代くらい、自由に恋愛させてあげたかったのよ。私は、できなかったからね」
「おい」
お母さんの隣でお父さんが苦笑いを浮かべている。
「いまではよかったと思ってるわよ」
クスクスと笑いながらお母さんはお父さんに言う。
「ごめんなさいね。私は恋愛と結婚は別物だと考えてます。恋愛は本人たちだけでできるけど結婚は家族を巻き込む。うちは商売をやってることからもわかるように少し事情が特殊なの。残念ながら紫穂里はそういう家に生まれ育った。ここまで引っ張ってしまったことに関しては謝ります。ごめんなさい。その上で改めてお願いします。紫穂里と別れて———」
「もう、やめて!」
バン! とテーブルを叩きながら紫穂里が立ち上がる。
「もう、やめてよ。……わかりました」
紫穂里は深いため息の後、真っ直ぐにお母さんを見据えて宣言した。
「会社を辞めて、ウチもでます。私という娘がいたことは、忘れてください」
目に涙を浮かべながらも唇をキュっと結び、決壊しないように必死に涙をくいとめている。
「紫穂里。……今日のところは、お暇させていただきます。また、改めてお話しさせてください」
俺は一礼をし、紫穂里の手を握り玄関を出た。外はすでに茜色に染まり、物悲しい街の雰囲気を醸し出していた。
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