番外編 夫に猫を被るワケ⑬
祝賀会は王宮の大広間で開かれる。ジルクリフとは王宮の大広間の手前で待ち合わせているので、一旦屋敷に戻って着替えてから、ベルツ=ファーレン夫妻と一緒に向かう。
到着してしばらく待っていると、ゆったりとした足取りでジルクリフが現れた。
「ジル、こちらです」
義母が片手を上げたが、彼は苦笑しつつ真っ直ぐに歩いてくる。最初からいた場所がわかっていたようだ。
ジルクリフは夜会用の隊服に身を包んでいる。実用的ではない意匠に凝った宝石や刺繍で飾られた制服だが、彼の華やかさをより引き立てていて被り物をしていても直視することは難しい。
被り物を被っていて本当に良かったと感謝した。
「もう、一度家に戻ってきてもいいでしょうに。こんなに可愛い義娘を放っておくなんて信じられない不甲斐なさですよ」
「そうだぞ。シアに視線が集まって追い払うのが大変だったんだ」
なぜかプリプリと怒っている夫妻に、ジルクリフは困惑したように視線を寄越す。アイリシアは申し訳なくてオロオロしてしまった。きっとこの猫の被り物が目立っているに違いない。微妙に頭は揺らしながら、二人を宥めるが聞き入れてはもらえなかった。
「申し訳ありません、試合の後の処理で手間取りまして」
「そんなもの下に押し付けて帰ってこんか。ラドクリフはすぐに戻ってきて二人で会場入りしているというのに」
確かにラドクリフも確かに馬術大会に出場していたが、彼は午前だけで試合は終ったようでアイリシアよりも先に屋敷に戻ってきていた。一緒に来たが早々に会場入りしたので、ここにはいない。
「こんなところにずっと立っているのもなんですし、中に入りましょう。お手をどうぞ、姫」
「は、はい」
気を取り直したようにジルクリフが手を差し出してきたので、手をそっと重ねる。日に焼けた大きな手に、どきりと心臓が音を立てた。苦しくて逃げ出したいのに、このままでいたい相反する思いに頭がくらくらした。
そっと手を引かれて歩き出せば、ベルツ=ファーレン夫妻もそれ以上は何も言わなかった。
会場に入れば、壁いっぱいに料理が並び、それに沿うように丸テーブルが置かれている。人々は思い思いの場所で談笑していた。
表彰会にはもう少し時間があるのだろう。
同じように会場の端へと移ると、夫妻は知り合いを見つけてそちらの方に挨拶に行ってしまった。アイリシアとジルクリフには人が少し遠巻きにしているようで、誰も声をかけてこなかった。
「そういえば、昼の差し入れは助かった」
おもむろに、ジルクリフが口を開いた。
「あ、いいえ。あの、お口に合いましたか?」
「ああ、うまかったよ。好物ばかりが入っていたから…」
公爵家の料理人は昔から勤めているらしく夫の好みを完全に把握していた。彼のアドバイスに従って一緒に作ったので、ジルクリフの好物をふんだんに詰め込んだ弁当だった。
満足してくれたようで良かったと胸を撫で下ろした。
「お守りもありがとう。おかげで怪我はしなかった」
左腕を見せて、ジルクリフは小さく照れたように笑った。
ああ、無事に試合が終わったのだと実感した。怪我がなく、目の前に変わらぬ姿の夫があることに感謝して思わずふっと息を吐く。
「はい、ご無事で何よりでした。お疲れ様です」
声には安堵が滲んでしまうが、仕方ないと泣きそうになる。本当に心配したのだ。
「うん。君なら、勝てなくても文句は言われなさそうだな」
「文句、ですか?」
思わず聞き返していた。
「隊長ともなれば、優勝することは当たり前だってね」
「ええと、男の方の世界やお仕事のお話は、私にはとても難しいのですが…愛しい人には元気でいてもらいたいです。ですから、私は感謝の気持ちしかないのですが…あ、でも、あの優勝されたことは素晴らしいと思いますし、お姿もすごくかっこよかったのですが、もうドキドキしすぎて心臓が痛くなってしまって。やっぱりこうしてご無事なお姿を見てしまうとすごく安心いたします」
「そうか、ありがとう」
はにかんだように笑った彼の顔は初めてみるものだった。随分と穏やかな顔だ。いつもの綺麗な微笑みとは全く異なる表情に目を見張ってしまう。
そんなときに、ジルクリフの名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「おや、ジルクリフ君じゃないか」
ふと声をかけられて彼が振り返れば、小太りの背の低い男が立っていた。見慣れない男の横には見たことのある娘がいた。
豪奢な金の巻き毛は飾り付けた宝石できらめいかせている。ドレスはかわいらしいデザインだが紫色なので、かなり悪目立ちしているが本人は意に介した様子はない。
「結婚したんだってねぇ、おめでとう。奥様はなんとも、可愛らしい方で羨ましいよ」
男はアイリシアの猫の被り物をちらりと一瞥しただけで穏やかな微笑を浮かべている。
「ありがとうございます。こんな若輩者にももったいないくらいの自慢の妻でして」
ジルクリフがいつもの微笑を浮かべてアイリシアの腰に手を回せば、男はふんっと鼻を鳴らした。
「それはなによりだね。それよりミリアーネも君にお守りを送ったはずだが、どこかに大事にしまっているのかな」
「丹精込めて選んだ腕輪を贈らせていただきましたのよ」
「申し訳ありません、妻からもらったものを優先してしまいました。新婚なのでご容赦ください」
話の流れから彼の娘がジルクリフにお守りの腕輪を送ったようだが、夫はそれを返したようだ。むしろ新婚だとわかっているのに、必勝祈願のお守りを送られても身に着けないのは当然だろう。基本的には家族や恋人など近しい人から送られるものだからだ。
義母も、彼は今までそういうのを一切つけなかったと話していた。だから今年は身に着けて出場したことを随分とからかわれたものだ。
「そんな狭量な奥様でもないだろうに。そんな大きな顔をしているのだから」
「私が、妻が可愛すぎて溺愛しているのですよ。ですから、彼女は何も知りません。新婚に波風たてようだなんて悪趣味ですね、勘弁してください」
自分の被り物が批難されていることはわかった。ジルクリフは穏やかに返してはいるが、やはり彼に迷惑をかけているようだ。恥ずかしいからと言って被り物を被ってきたことを少し後悔した。だが、妻なのに祝賀会に出席しないなどありえないこともわかっている。妻帯者が妻を伴わないなど社会的地位のある男のすることではない。
「ふうん、その奥方にいいところを見せようとして、今日の試合は勝ちを譲られたのか」
呆れたような告げられた言葉に、アイリシアは聞き間違いかと思った。
勝ちを譲られたとはどういうことだ。
「君も隊長なのだから、副隊長に勝ちを譲られているようじゃあまだまだだね。そもそも新婚だからって浮かれていたんじゃないのか。下馬評では圧倒的にヘンリックスくんが優勢だったんだ。それが今日になっての大番狂わせだからな。噂も当てにならないが、近衛騎士全体でたるんでいる。近衛騎士がたいしたことないのだと思われても仕方がないね」
「不甲斐なくてすみません、もっと腕を磨きます」
「新婚だからって大目に見られるのもいいが、やはり御前試合なのだから真剣に取り組んでもらわないとね」
「あら、お父さま。さすがにジルクリフさまがお可哀そうよ。このように立派な猫のお嬢さまと結婚されたのだから同情を引くのは当然ではなくて…?」
「同情で勝つ騎士など、憐れなだけだと思うがね…」
信じられない。
なんで、どうして、と思考が荒れ狂う。
悔しくて涙まで出てきた。
聞き間違いではないのだ。
彼らはアイリシアが尊敬して憧れて心酔している夫を侮辱しているのだ。
それに対してジルクリフも大きく否定をしないことに腹が立った。
頭に血が上たまま、むんずと被り物を掴むとぽいっと投げる。
思いのほか力が入って遠くまで、ぶんっと風を切って飛んでいく。続く悲鳴にはあっさりと無視をする。
腹の底から出した声が、騒然とした会場に凛と響く。
「旦那さまを侮辱なさらないでください!」
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