番外編 夫に猫を被るワケ①

本日、アイリシア=ファン=ベルケンは結婚する。


相手はエルジアス王国で五つしかない公爵家の三男であるジルクリフ=ベルツ=ファーレン。

青銅隊の隊長でもある彼との結婚式は王都の大聖堂で行われる。

観光名所の一つとして挙げられる秀麗で荘厳な建物の中央、大きな祭壇の前に向かってしずしずと進む。向かう先には花嫁を待っている彼がいる。

この国には珍しい黒髪に、切れ長の涼しげな目は夕暮れ頃の紫紺色だ。女顔と言われるほどの整った顔立ちだが、体躯はしっかりとしており、長身でもある。今は花婿衣装に身を包んでいるのだろうが、そんな晴着をきた彼を見た途端に卒倒しかねないので、今の自分の姿はありがたい。


祭壇からまっすぐにのびる赤い絨毯の上を、ゆっくりとした足取りで父と進む。

花嫁衣装にふんだんに縫い付けてある真珠が高い位置にはめられた窓から差し込む無数の陽光を受けキラキラとまぶしいはずだが、自分の視界にはほとんど映らない。薄いベールで被われているだけではない、分厚い壁に狭まれた視界だ。

思ったよりも狭いことに驚いたが、動けないわけではない。慣れるまでは慎重に行動しようと思う。


絨毯を進むたびに、呻き声や懐疑的な声が聞こえるが、アイリシアにとってはどれも祝福の言葉にしか思えず、被り物の下の顔は緩みっぱなしだ。

念願の、憧れてやまない初恋の相手に嫁げるだなんて、貴族の娘としては奇跡としかいいようがない。国王の横を通り過ぎて、彼に心の底から感謝を捧げる。

彼の尽力がなければ、決してこの場には立てなかったことをよくわかっているからだ。


祭壇の前までくると父親から離れて、夫となるジルクリフと手を握る。

その手は温かく、頑丈でごつごつしていた。それが男の人を強く意識させられて卒倒しそうになるが、ぐっと我慢する。

そうして二人で祭壇の前に並ぶ。


大司祭の視線がジルクリフと自分の間をさまよって、結局彼へと定まった。

その目は、何かを必死に訴えかけているようだが、自分の気のせいかもしれない。

しばしのためらいの後、老司祭は同情するようなまなざしで、静かに誓句を読み上げた。なぜだろう、晴れやかな結婚式でするような顔ではないと思うが、静かにアイリシアは聞く。

聖句は終わり、誓いの言葉へと続くと薄い胸はどきどきと高鳴った。


「聖なる御前で、いつまでも変わらぬ愛を誓いますか?」

「あ、はい」


ジルクリフが慌てて返事をする。だが言葉が足りないことに気が付いたようだ。


「あ、誓います」


大司祭が小さくうなずいて、自分に向き直る。


「では、アイリシア=ファン=ベルケン、あなたも誓いますか?」

「はい、誓います」


興奮を抑えるのに必死で、出た言葉は思わずか細い声となる。くぐもった声は、今にも消え入りそうに弱弱しい。


「息苦しくないか?」


ジルクリフが心配そうに声をかけてくれた。思わずびくりとして、やはり小さな声で大丈夫だと答えた。


「では、誓いの口づけをどうぞ」


大司祭がやや早口で、促した。

ジルクリフと向き合う形になり、ベールを持ち上げやすいように頭を前に傾かせた。おかげでぐらりと大きく揺れる。揺れるが床に転がることはない。絶対に外れないと力学を極めた男の言葉を思い出しながら、アイリシアは安心していた。


ジルクリフはそっとベールを持ちあげる。薄布からクリアな視界になったものの狭さは変わらない。

しばらく待っていると意を決したようなジルクリフの顔が近づいてきた。

ちなみにアイリシアは猫の鼻の位置から眺めているので、彼の鼻あたりと長いまつげをしっかりと拝んだことになる。

眼福だ。向こうから見られないという安全が、アイリシアの心を落ち着けているのか、ジルクリフの容姿を堪能するだけの余裕がある。これがなければきっとこれほど真近くで彼の顔など見られる自信は少しもない。


猫の被り物に心からの感謝を———


顔が重なった瞬間、頭上からリーーンゴーーンと鐘の音が鳴り響いた。

猫の被り物に焚き染められたカミツレの匂いとともに、アイリシアの胸に深く刻まれたのだった。




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