第18話 立ち上がる様は
結局、できる範囲で毛づくろいを終えたのは夕方近くになった。昼ごはんは簡単なサンドイッチを叔母が作って差し入れてくれた。だが、家に着くころにはすっかりお腹が減っていた。
充足感に満たされていたが、腹が減るときは減る。
愛馬のサバッタンが他の馬の匂いをさせている主人に嫉妬して不機嫌になったのを宥めていたので、帰る時間が少し遅くなったのも理由の一つではある。
「おかえりなさいませ」
慇懃に執事が出迎える。
ジルクリフはそれに鷹揚に頷いているが、執事の視線は冷ややかだ。
結婚祝いの休日に妻をおいて出かけているのだから当然の反応かもしれないが。相手はあの呪い姫だというのに、なぜ誰も同情してくれないのか不思議ではある。
「お夕食はいかがされますか」
「用意してくれ、すぐに食べるから」
「かしこまりました、用意ができ次第お呼びいたします」
「ああ、居間に――、いや、自室にいるから」
家族の夕食は終わっているだろう。居間でくつろいでいる姿は簡単に想像できた。
そんな針のむしろのような場所に顔を出す勇気はない。
納得はしていないが、新妻を放ったらかしにした罪悪感はある。
猫の頭を近づけられるだけで恐怖は増すだろう。うっかり謝ってしまうほどには後ろめたい。
夕食ができるまで自室にこもっているのが賢明だ。
執事は無表情のまま一礼して調理場に向かった。それを見送って自室に続く階段を上がる。
上がり切って角を自室へと曲がったところで、次兄と出会った。ラドクリフだ。父親譲りの茶色の髪に緑の瞳。大柄な体躯には筋肉がしっかりとついている。いかめしく男らしい顔立ちは女顔の弟からすれば憧れだ。
「ラド兄さん、こちらに来てたんですか?」
「ああ、ジル、帰ってきてたのか。いや、妻が帰らないというから、俺もしばらくこちらにいることになりそうだ」
「義姉さんが? 何かあったんですか?」
「アイツは一人娘だし、俺たちは子供もいないだろ? だから可愛がりたくて仕方ないんだろう」
次兄は義姉が一人娘だったので、入り婿として侯爵家に入っている。そちらも騎士の家系で、今は黄銅隊の一員として王宮に詰めていた。
だが、義姉が一人娘だとか、兄たちの間に子供がいないことがどうつながるんだ?
「…なんの話ですか?」
嫌な予感しかしないが、恐る恐る聞いてみた。
勇気を振り絞ったと言っても過言ではない。
そんなジルクリフの様子にまったく気が付かずにラドクリフはにこやかに微笑んだ。
「義妹だよ、シアちゃんだ。今日はみんなで買い物にでかけたんだが、母さんもアイツもものすごい張り切ってドレスやら帽子やら買ってたからな。まあ、母さんは息子を着飾らせても楽しくないといつも言っていたからいい気晴らしになったんじゃないか」
またあの呪い娘の話だ。しかも、ドレスに帽子だと?!
ドレスは標準サイズでいいとしても、帽子は特注か?
被り物の上に被るとかどれだけ被るのが好きなんだ。
「兄さん、仕事は?」
「呼び出されたよ。朝、出勤してすぐに早馬がきて一大事だから実家に顔出せって、そのまますごい勢いで馬に乗せられてな。同僚に仕事を引き継ぐ間もなかった」
今朝のことを思い出したのか、次兄は苦笑して肩をすくめた。
だが、急使で呼び出されて買い物に付き合わされたというのに、怒る素振りもない次兄の度量の広さに頭が下がる思いだ。
家族に拉致されるとか、普通じゃない。
「妻がスミマセン…」
「いや、むしろ母さんやアイツがやたらはしゃいでいたからな。むしろシアちゃんは被害者だろ。後で謝っておいてくれ」
素直にわかりましたと頷くのが難しい。
自分が意地になっているだけなのかもしれないが。
「そういえば――っ、わぁっ!」
何かを言いかけたラドクリフが、背後の何かに気が付いて驚きの声をあげた。
ジルクリフは振り返って、言葉を飲む。階段を上がってすぐの壁から巨大な猫の頭が顔をのぞかせていた。
覗きにしては大胆すぎる。隠れる気など微塵も感じられない。
「ああ、そうか。シアちゃんか」
すぐに兄は落ち着きを取り戻した。騎士として冷静な判断力と迅速な対応は必須だ。こんなことに活かされるとは悲しい話だが。
「お話し中に邪魔をしてしまって申し訳ありません」
「いや、俺はもう下に行くから。ジル、もう少し優しくしないと逃げられるぞ」
「は?」
逃げられるって彼女にか? 自分が逃げるほうではなく??
混乱しているジルクリフとは反対に兄は穏やかに笑んでいた。
兄はわかっていると言いたげに弟の肩をぽんぽんと叩くと、さっさと階段を下りていく。だが悲しいことに、兄が何を伝えたいのかさっぱり見当がつかない。
入れ違いにおずおずと猫娘が寄ってきた。
「あの…、今、少しよろしいですか?」
「あ、ああ」
戸惑いつつ頷くと、彼女は手で握りこんでいたものをそっと差し出した。
手のひらに乗ったのは、ガラスビーズでできた腕輪だった。昔から街ではやっているお守りだ。
ビーズの色や石の種類で幸運や金運、恋愛運などをあげると評判になっている。
彼女がくれたのは、赤と緑でできたものだ。
「今日、作ったんです。あの、試合でケガしないようにとお店の人が勧めてくれたので」
腕輪はほんのり温かった。彼女のぬくもりだろう。
「…ありがとう」
反射的に礼を告げると、彼女は一瞬身じろぎして、小さく頭を下げた。
「いえ、引き止めてしまってすみませんでした」
彼女はそのまま足早に階段を駆け下りた。
猫の被り物があっても素早く動けるのだな、と後ろ姿が見えなくなってもぼんやりと思った。
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