第3話 閑かな景色

そうしてやってきたファン=ベルケン公爵家は王都の貴族街の南の一角を占めるほどの大きさを誇っていた。


ジルクリフは、呆然と鉄門を眺め、奥をうかがったが、屋敷の屋根が遠くにぼんやりと見えるくらいだ。

さすがに王宮より広いとは言わないが、貴族の中でもこの大きさは異常だろう。

ベルツ=ファーレン公爵家の倍以上はありそうだ。


政略結婚などしなくても十分な権力や財力を持っていることは伝わる。やはり、政略結婚の可能性はない。つまり、ワケあり娘の嫁ぎ先が見つからずに、自分に白羽の矢があたったというところだろうか。

なぜ自分なのかはわからないが、悪友の顔を思い出して深々とため息をつく。

彼にとっては理由など、面白いからの一つでも十分なのだろう。人の人生を左右する出来事の筈だが、扱いが軽すぎる。


愛馬を引き連れ、ジルクリフは門番に勇気を出して声をかけた。


「あーと、私はジルクリフ=ベル…」

「存じ上げております、ただいま門を開けますので少々お待ちください!」


直立不動の門番は敬礼すると、視線を後ろに向けた。合図だろうか、ゆっくりと門が開いていく。


「俺がここに来るって知っていたのか?」

「はい、主人より承っております」


思わず素になって聞いてしまったが門番は不審に思うことなくきびきびと答えた。

国王はつい思いついたといった様子だったが、演技だったらしい。すでに約束を交わしていたとは、根回しは十分だということか。

彼の本気を感じて身震いする。


「どうぞお通りください。馬は中の者にお引き渡しください」

「ああ、わかった」


門番に見送られ進むと、玄関の横に佇んでいる男が二人いた。一人は若く馬丁だろう。もう一人の初老は執事だろうか。


「お待ちしておりました、どうぞこちらへ」


愛馬を馬丁に渡すと、執事が玄関を開いて中へと招き入れた。

玄関ホールを抜け、長い廊下を進むとほどなくして応接間へと案内される。落ち着いた色合いの家具と、壁に誇らしげに飾られた豹の毛皮が部屋に華を添えている。

自分の家とはまた趣の違った部屋を、ついしげしげと眺めてしまう。


「こちらでお待ちください、主人を呼んでまいります」


執事が一礼して部屋を出ていく。

ジルクリフはゆったりとソファに腰かけた。ほどなくして、メイドがお茶を載せたワゴンを運んできた。

ソファに座った俺の前に、てきぱきと並べていく。だが、お茶の入っているであろうポットをテーブルに置くと、一瞬カップに注ぐのをためらった。


「…ああ、失敗した」


思わず口に出してしまったという顔をしたメイドは、盛大に顔をしかめた。


ジルクリフはただ、びくりと体を震わせるだけだ。

お茶を入れるだけで特に大きな失敗は見られないのだが、彼女が一体何を悔いているのか見当がつきかねた。

どうかしたのか尋ねようとした時、彼女は廊下に注意を向けた。


バタバタと廊下を走る足音と、誰かの鋭い叱責の声がする。

子供でも走っているのかと思ったが、足音から大人のようではある。

首を傾げた瞬間、荒々しく扉が開かれた。


「一か月だからな!」

「旦那さま、お客様に失礼ですよっ」


執事が扉を蹴破らんばかりの勢いで飛び込んできた茶髪緑眼の中肉中背の男の背中にしがみついている。会議などの警護で彼がファン=ベルケン公爵だとわかったが、背中に執事を張り付けてくるとは思わなかった。

仕立てのよいグレーの上着が皺になっているが、彼らは気にした様子がない。


「こればかりは譲れないぞ?!」

「ですから旦那さま、落ち着いてください。ベルツ=ファーレンさまにはなんのお話か伝わっていないと思われます」

「何? そんな馬鹿な話があるか。こちらは1年前から…」


もみ合いながらも部屋の中に入ってくる二人の主従に、優しげな声がかけられた。


「あなた、お客様の前ですわよ」

「クララ」


開け放たれた扉からすっと部屋へ入ってきたのは小柄な金髪の女性だった。落ち着いた淡いグレー色のドレスを揺らし、揉める主従に翠色の瞳を細めて見つめる。公爵をあなた呼びするぐらいだから公爵夫人だろうとは察せられた。


執事は夫人が現れたとたん、公爵から離れ安堵の息をついている。

公爵は先ほどの暴走はどこへやら妻のもとにすっ飛んでいった。


「クララ、シアの用意は…」

「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。あなた、きちんとした挨拶」


だが、夫人は軽く謝罪をすると公爵にぴしゃりと言い放った。


「う、うむ。ジリア=ファン=ベルケンだ、ようこそ我が家へ。でだ、シアなんだがどんな様子だ。昨日からずっと…」

「メル、お願い」


そわそわと落ち着きなく話し出す公爵を無視して公爵夫人はテーブルの傍らに控えていたメイドの名を呼んだ。

メイドはややためらいがちながらも小さくうなずき、空のカップを一つ持ち上げると大きく振りかぶって公爵に向かって投げつけた。


「は?」


ぽかんとした俺の前で公爵はくるりと指を回してコップの取っ手をつまんだ。カップの勢いを完全に殺し、何事もなかったかのように掲げている。


「あれ、今日はタンポポなのか?」

「…うう、屈辱です…途中で気が付いたんですよ!」

「私としては、マーガレットでもよかったがな」


メイドはがっくりと肩を落とし、公爵は不敵な笑みを浮かべている。そのまま優雅にソファに座る。

表情は悔しそうだが、メイドは一礼して、主人が置いたカップにお茶を注いだ。俺の前にも茶の入ったカップが差し出された。


「場にはさておき、タンポポの黄色にお茶の色が良く映えるね」

「次こそはまいったと言わせてみせますからっ」


公爵相手のメイドの気安さに、ジルクリフは思わず見入ってしまった。

執事もメイドも公爵との距離が非常に近い。物理的な意味でもそうだが、精神的な意味で。貴族であれば、使用人との距離はとるべきではないだろうか。ましてここは公爵家なのだ。

だが、目の前の光景はこれがいつものことなのだと思われる自然さだった。


「カップの絵の花言葉で会話をする遊びなんです。今日は主人が勝ったようですね」


呆気に取られていると夫人が説明してくれる。なぜ客人の前で突然遊びが始まったのかは謎だが説明を聞いて、先ほどカップに茶を注ぐのを気にしていたメイドの態度に納得した。


公爵はすっかり器に描かれた花の模様に夢中になっている。精緻さがとか、色合いがとかぶつぶつとつぶやいていた。

その横で優雅に佇んでいた公爵夫人がにこりと微笑んだ。

スカートをつまんで淑女の礼をとり、頭を下げる。


「申し遅れました。妻のクラリス=ファン=ベルケンです、この度はご足労いただきましてありがとうございます。娘を紹介しますわ」


そうして開けられた扉から静かに一人の少女が入ってきた。いや、形容的には、ぬっとだろうか。


ね、猫?!


小柄な少女の頭は巨大な猫の被り物だった。

金翠のオッドアイが無機質に俺を見つめている。茶色の毛並みが美しいといえば、美しい。ピンと立った三角の耳が愛らしいといえなくもない。


だがジルクリフの心中はといえば―――


え、なにこれ、すっごい怖い…っ

かつて、これほどの恐怖を感じたことがあっただろうか。


騎士になって早数年。国王の傍で近衛の隊長になってからも命のやりとりはあった。戦争に参加したこともある。死にかけたことも1度や2度ではすまないだろう。だが、こんな得体のしれない恐怖を感じたことはない。

桃色の少女らしいドレスが、猫の巨大な頭のせいでかすんでしまっている。


ここでようやくジルクリフは、国王の忠告を思い出していた。


外すと死ぬって?!

この被り物は外せないのか??


すでに頭の中にはこの縁談を断る方法が思いつかなかった。

常日ごろから政略結婚はいやだと豪語していたジルクリフだ。そして、この結婚は政略が絡まない。双方の公爵家に大きなメリットはないからだ。いや、もしかしたら呪いがかけられた猫の被りものを被った娘への縁談がなかったため彼らのほうには多少のメリットがあるのかもしれない。むしろ、この結婚話にだいぶ乗り気な様子だ。


五大公爵家はそれぞれの分野で財と権力をなす。なかでも1、2を争うのがベルケン公爵家だろう。傍から見ればジルクリフの方が優良物件を手に入れたと思われかねないほどだ。


しかし、呪いか何か知らないが、目の前の少女はこの猫の被り物を外せないのだ。命にかかわる、ということだろう。

そして、あの悪友で面白いことが大好きな常に人をからかって生きている国王が、こんな愉快な状況を解消するはずがない。


すでに、王命だ。

昔からジルクリフは彼の言うことに逆らえない。逆らうだけの気力を持ちえないのだ。

基本的には面倒ごとが嫌いで事なかれ主義の自分が、災厄の権化ともいえる彼に歯向かうだけの気概はない。流れに身を任せておくのが一番楽で安全だ。


というわけで、このばかでかい猫の被り物をした娘と結婚することになる。

数々の縁談が走馬灯のように頭の中をよぎった。あの中のどれか一つで妥協しておけば、これほどの窮地に立たされることはなかったのだろうか。


パニックになりながら、ジルクリフはそこでようやくはたと気づく。


こんな被り物を被った娘を用意するのは確かに、国王らしい。

らしいのだが、彼のいつもの悪ふざけではないか?

結婚式の前には冗談だ、と笑いながら王命を撤回してくれるのではないか?

状況を確認しようと、ファン=ベルケン一家に目を向ける。


「アイリシア=ファン=ベルケンと申します、どうぞよろしくお願いいたします」


少女は淑女の礼をとって、スカートの裾を軽く持ち上げた。ゆらりと巨大な頭が揺れたが、もしかして会釈だったのだろうか。

ジルクリフには判断がつきかねた。

不自然に揺れる頭に、自身の心臓の宥めるだけで精一杯だ。


「言葉もないほど気に入ったようだね、よかったよかった」


満足そうに公爵夫妻がうなずいている。夫人だけでなく、いつの間にか我に返った公爵のほうも娘の所作に目元を緩めていた。二人の目はなぜか達成感に満ち溢れている。


なんで、そんなやり遂げた感、満載なんだ?!


気に入るとは、もちろん猫の頭だろうか。いや、それとも娘自身??

そんな無茶な!


助けて、サバッターーーン!!

ジルクリフはやはり軽いパニックのまま、愛馬の名前を心の中で叫んでいた。

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