腐食

 白いシャツにジーンズを着た裸足はだしの男は、二つだけ向かい合わせに置いてある椅子に座っていた。部屋に灯りはついておらず、窓から注がれる月光のみが男を照らしていた。

 男の正面の椅子にも裸足の白いワンピースを着た女性座っている。だが月明かりは足元までしか届いておらず、顔は見えなかった。


 男は静かに女性を見ながら物思いにふける。


 ————————微笑ほほえむ君の姿に魅入みいられてから、どれくらい時間が経過したのだろうか。


 あまりにも幸福な時を過ごすものだから、思わず感慨かんがいふけってしまう。僕は君と一緒に過ごしたかけがえのない日々をいつも思い返してしまう。


 あれは梅雨の時期だった。よく覚えているよ。憂鬱ゆううつに満ちた町の薄暗うすぐらい午前中のことだ。誰もいない小路しょうじを歩いていると、不意に向かい側から君は現れたんだ。初めて君を見た瞬間、僕は運命を感じたよ。


 れた赤い果実のように血色豊かで情欲じょうよくかせるくちびる、夜の海を思わせるような漆黒しっこくひとみ、そして月夜の涼風りょうふうに揺れるレースのような長髪。


 君を見つめる度に湧き上がる歓喜を抑えることがどれほど苦しかったか、君に理解できるかい?


 つのる想いがおもしとなって僕の心を少しずつむしばむ。

 まるで幼虫が葉を少しずつかじるように君の煽情的せんじょうてき節々ふしぶしが僕の頭を占領していき、飛蝗ばったが食い荒らした稲田いなだのように虚しさだけが残るんだ。


 とても辛く、厳しい戦いだった。何度もくじけそうになって別のもので埋め合わせをしようと試みるほど、僕は精神的にま肉体的にも追い詰められた。僕の持つ全てをささげても、心の虚空こくうふさがらずに空いたままだったんだ。


 結局僕は我慢出来ずに君を独占しようと躍起やっきになった。

 だけど君はこんなにいやしい僕を暖かく包み込んでくれた!

 あの日の僕はもう歯止めが効く状態じゃなかった。


 君の小さな口かられる嬌声きょうせいは、僕の聴覚を君の声を聴くためだけのものにしてしまった。


 僕の視覚は君の変わりやすい表情の仔細しさいな情報を読み取るためだけの、繊細な装置に変わった。


 君がただよわせる木苺きいちごのような甘酸あまずっぱい香りは僕の鼻腔びこうくすぐり、天上てんじょうに登ったかのような心地にしてくれた。


 あれからもう二ヶ月経とうとしてる。君との日々は涜神的とくしんてきで背徳的な甘美かんびの連続だった。それは些末さまつな出来事の中から一欠片ひとかけらの幸福を拾おうとするような、奇跡によって成立している円環えんかんだった。

 

 でもこの奇跡もあと少しで終わってしまう。白い名残だけを置いて、君は遠いところへ旅立つんだ。

 いずれ訪れる離別の日を犇犇ひしひしと感じ、僕は毎日絶望と悲哀に明け暮れる。永遠なんてこの世に無いことくらい僕も知っている。幸福な時間を抱いたままこれからも過ごさなきゃならないなんて。

 

「君を超える存在なんて現れるのかな————」


 男の問いかけに女性からの返事は一向にない。だが男は満足気にうなずき、立ち上がるとポケットからライターを取り出し壁をあぶる。するとたちまち火の手が上がり部屋は炎に包まれる。

 男は椅子に座る女性を微笑みながら抱きしめる。


「大丈夫、君を一人にしない。僕もついてくるよ」


 次第に炎に包まれる二人を月は凝視する。幸せそうに微笑みを浮かべる男と、顔を崩し表情が読み取れない女とを。

 



 

 


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