3章 / 明楽IV

 全身が沼に沈んでしまったかような、身じろぎのひとつも出来ないような倦怠感。


 体と同じように思考も鈍っていた。

 色々なことが浮かんでは泡のように消えていく。記憶ごとごっそりと抜け落ちる感覚だった。過去に何度も経験した事のあるそれは、懐かしさすら覚えた。覚えてなんかいないはずなのに。


(疲れた……)


 暗い部屋の中で少年は呟いた。呟いたつもりだった。

 掠れた呼吸が喉から漏れ出ただけで、声は欠片も出なかった。またか、と思って、少年は諦めた。また喋れなくなったところで特に困りはしないのだ。


 濡れた体もそのままに少年はソファの上で膝を抱えた。

 感覚のなくなった指先で体を抱え込んでただ息をするだけ。それ以外にすることもないし、したいとも思わない。自分の体がかたかたと震えていても気にしない。吐き気を催すほどの空腹も今はもう感じない。ただ姉と過ごしたこの部屋で、最後の時を過ごすことだけが望みだった。


 失うものはもう何もないのだ。

 全て無くして、あとはこの身ひとつだけ。

 辛い記憶ばかりだったが―――といっても、多分半分も覚えていないのだろうけれど―――楽しい思い出もあった。薄っすらと、断片的に思い出す友人や姉の顔。自分の恋人だと名乗っていたあの女性の笑顔。どう過ごしたのか、何があったのかはもう分からない。けれど思い出して苦しい気持ちだけではないのだから、きっと楽しいこともあったのだ。ならそれでいい。それだけ分かれば少年は十分だと思った。


(もういいや……)


 ゆっくりと目を閉じる。

 がくんと体の力が抜けて、膝を抱えたまま横たわった。

 ぺちゃりと湿った音がして、ソファの布地に水が染み込んでいく。そのまま自分の体も溶けてなくなっていくような気がして、心地良かった。


 瞼を開く気力は欠片も残っていない。

 心なしか呼吸も浅くなってきたように感じる。自分が何を考えているかも分からなくなって―――少年は微睡むままに身を任せた。


 窓を叩く雨音の中に、小さく足音が混じったのはその直後だった。









 鍵は変えられておらず、扉を開くのは容易だった。

 嵐は激しさを増していて、わざわざ外に出ようなんて者はいない。人目もなく轟く雷鳴のお陰で多少騒がしくても邪魔は入らないだろう。二人の門出には不満が残る天候ではあったが、メリットの方が多いのなら文句はなかった。


 菖蒲は目当ての少年と再会した。

 感極まって言葉も出なかった。胸が弾み、呼吸が荒くなっても、頭の中は至って冷静を保てている。久しぶりの再会なのに少しドライかな、とも思ったが、今は彼を起こすつもりはないのだ。ソファの上で死んだように眠る少年と話す前に、色々とやらなければいけない準備があった。

 

 踵を返して、真っ暗な廊下を歩く。


 いくつか扉を開けて、目的の浴室に辿り着く。

 スイッチを押すと電気がついた。止まっていたら面倒だったが、口座はまだ凍結されていないようだ。やはり神は二人を祝福しているのだと改めて思った。信じてなんかいないけれど。


 浴室も部屋も、とてもじゃないが綺麗とは言えなかった。

 掃除は当然されていないし異臭だって漂っている。特に浴室はカビも目立つし、カミソリやら抜けた髪やらが乱雑に放置されていた。

 綺麗好きの菖蒲としては我慢ならない状況ではあったが、眉を顰める程度に留めておいた。どうせ汚れるのだから関係ないのだ。


 浴槽に湯を流していく。

 ゆっくりと水位が上がっていく様子をぼうっと眺めていた。

 湯気が広がり、冷えた体に染み込んでいく。指先に感覚が戻ってきた。肌に赤みが戻り、口元に笑みが浮かぶ。


(もうすぐ……)


 長かった。本当に。

 焦って失敗して、気が狂うほど後悔した。

 後悔が狂気に拍車をかけて自分でもよく分からなくなっていた。何が正しいのかも分からなくなって―――結局、彼女に残されたのは少年との時間だけだった。


「明楽さん」


 準備は完了。

 邪魔はもう入らない。焦がれる程に待ち続けた瞬間が目の前にある。

 リビングへと向かう足が自然と逸っていく。他には一切目もくれず、彼が横たわるソファにそっと腰かけた。ばたばたとした足音にも目覚める様子はなく、小さな吐息が彼の胸を上下させている。くすりと笑って、彼女は彼の髪をそっと撫でた。


 濡れた髪を搔き分けると、長い睫毛が震えた。

 それだけで笑みが深くなっていく。言いようのない感覚が胸を締め付け、心が満たされていくのが分かった。

 指先で少年の額をなぞり、頬を撫でる。

 呻く素振りもない少年の体温は酷く冷たかった。本当に生きているのか疑いたくなるくらい、か細い鼓動だけが手に伝わる程度。時間がないことを改めて認識して、少女は最後の時間を噛み締める。


「明楽さん、私が分かるかしら?」


 問いかけにも反応はない。

 触れる手のひらから生気がどんどんと抜け落ちていくように感じた。

 

「最後に少し話したかったけれど……」


 最後に見たときよりも、一層瘦せこけた体を抱え込む。

 大した力も要らないくらいに軽い少年を抱き上げた。


「大丈夫、また後でたくさん話せるわ。私も……私たちの子供も、ずっと一緒」


 少年を抱く腕に力が入る。

 少女にとっての歓喜の瞬間まで、あと僅か。その事実が、菖蒲にとってなによりも嬉しかった。


 湯気で溢れる浴室へ。

 少年を抱えたまま、彼女は浴槽へと体を沈めた。


「さあ、明楽さん」


 小さな体を後ろから抱き締める。

 細った左腕に自分の腕を絡めて、手首にそっと指を這わせた。

 錆びついたカミソリを手に取って、せめて痛みを感じないようにと。



 ゆっくりと赤い線を引いていった。

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狂愛クインテット Ryoooh @Ryoooh99

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