3章 / 菖蒲II / 美弥VI
しとしとと雨の降る街を歩いていた。
人通りはほとんどなかった。
傘を叩く雨音をBGMに、菖蒲は舗装の禿げた道をひたすら進む。少し大きめの黒い傘を、時折くるくると回したりしながら。濡れる足元も気にならないくらい、彼女はとにかく上機嫌だった。
程なくして、彼女は目的地に辿り着いた。
時刻は午後五時過ぎ。夜の闇が刻一刻と迫る中で、とりわけ曇天の下では幽霊屋敷と言われてもおかしくないような風体の図書館の門を開けて、菖蒲は歩を進めていく。
「……ふふ」
タイル調の通路の先には、枯れた噴水があった。
手入れなど一切していないらしく、雑草や蔦がそこら中に絡みついている。それは図書館の壁面も同じで、玄関から見上げる外観はまるで廃墟のようだ。
アンティーク調の仰々しい扉の前、菖蒲は大きく深呼吸をした。
事前に手に入れたカードキーをかざす。ぴぴ、と電子音がして、その後にかちりと鍵の開いた音。美弥はもしかしたら使えなくなっているかもしれないと不安がっていたが、問題なく使用できて一安心だ。セキュリティの甘さは相変わらずのようだ。
遠慮なく扉を開けてホールをぐるりと見渡す。
電気が点いていないないため、中は一層の不気味さを醸し出している。人の気配もなく、遠くに聞こえる雨音を除いて物音一つしない。そんな状況に、菖蒲は眉を顰めた。
「……なにかしら。酷い臭いだわ」
不快感の原因は雰囲気だけでなく、この鼻をつく生臭さのせいでもあった。
生ものが腐ったような、それでいて鉄臭い、どこか嗅ぎ慣れたそれ。最近では父と話したときだろうか。あまりにも会話に熱が入ってしまって、すぐに話すことが出来なくなってしまったけれど。最後の会話くらいはもう少し時間を掛けても良かったかも、と後悔していた。
臭いの元はどこだろうと、すんすんと鼻を鳴らして歩き回る。
館内中に充満しているせいではっきりとは分からないが、どうも臭いは二階から漂っているようだ。
「明楽さん……」
胸の内に渦巻く不安は、全て愛する少年が無事でいるかどうかだけ。
彼を手に入れる為、自分の望みの為に、彼女は全てを投げ打った。父の資産を奪い取ったのもそれを叶えるためだ。
帰国した時点で邪魔者の大半がいなくなっていたのは本当に僥倖だった。
美弥との取引を終えた時点で、後はこの館の主を始末するだけなのだ。それで最愛の少年が手に入る。後は然るべき場所で、望みを叶えるだけだ。
早る気持ちを抑え、ゆっくりと階段を上がっていく。
足元の滑りは雨のせいか、それとも粘着く鉄臭い別のナニかか。焦燥が不安を煽った。想像する中でも最悪の状況だけはやめてくれと、口に出してしまいそうだった。
「……ここね」
大きな扉の前。
確信させるように、扉の向こうからは一際不快な臭いが漂っている。閉まり切っていない扉の隙間を覗くのには少し勇気が要りそうだ。
とはいえ、確認しない訳にはいかない。
恐る恐る取っ手を握って、ばくばくと跳ねる鼓動に大きく息を吐きながら、ゆっくりと扉を開く。ぎぎ、と軋むような金属音を立てて開いた隙間から、真っ暗な部屋の中を見回した。
「何かしら、暗くて……」
大きな部屋だった。
スマートフォンのライトだけでは心許ない程には広い。その上鼻が曲がりそうなくらいの悪臭が想像を悪い方向へ膨ませる。その焦りが彼女を部屋の中へと歩ませ、やがてだんだんと慣れてきた視界の端に捉えたそれに息を呑んだ。
「―――ぅ、ッ」
どきり、と心臓が跳ねる。
反射的にライトを向けた。暗闇にぼんやりと浮かぶ人の足首。白い足を上って、金色の長い髪が広がっている。うつ伏せに倒れたその人間だったものは、どす黒い水溜りの中心に横たわっていた。
「…………っ」
予想だにしていたかった状況に、菖蒲は絶句した。
この部屋にいたのは彼女ただ一人で、明楽はいないようだった。ならばどこに、と視線を彷徨わせてすぐに、足元のそれに気が付いた。
真っ黒な血溜まりから現れた足跡は、扉の外へと続いていた。
♪
「それを私に受け入れろって言うんですか」
少し時間を遡った、その日の正午辺りのこと。
隠す気のない怒気を孕んだ声に、菖蒲は頷いた。
「分かってて言ってるんですよね。馬鹿にし過ぎじゃないです?」
「……貴女には酷い事を言ってると思うわ」
「流石に舐めすぎっつーか……それともホントにイカれちゃったんですか?」
ばん、と束になった書類をテーブルに叩きつけた。
閑散とした喫茶店に荒い息遣いだけが流れる。
大通りからも外れた場所にあるこの喫茶店は、以前菖蒲がよく利用していた店だった。老夫婦が切り盛りしているのだが、呼ばなければ大抵奥に引っ込んで顔すら見せないのだ。おまけに耳も遠いのだから、人に聞かれたくない話をするには持ってこいだった。
「これで先輩から手を引けって、冗談じゃないんですよね」
「ええ、本気よ」
「拒否したらどうするんです?」
「それは言わなくても分かるでしょう?」
切れ長の目が美弥を真っすぐ見据える。
従わないなら仕方ない、という強い意志が込められていた。
菖蒲が用意したのは彼女の持つ資産の譲渡に関する書類だった。加えて抱えていた弁護士と税理士の電話番号に、権利書やら印鑑やら必要なものは揃えて。本来は彼女の父の持ち物だったものすら、全て譲渡が出来るように準備されていた。
「貴女はそもそも、明楽さんに本気じゃなかったと思ったのだけれど」
「……何言ってるんですか」
「今怒ってるのだって、金でどうこうされる事に腹が立ってるだけでしょう?」
「…………」
「明楽さんから手を引いて、私に少し協力をするだけで、一生遊んで暮らしても有り余るお金が手に入るのよ。彼に似たような男性なんてすぐに見つかるわ。それ以上の男性だって、なんだって好きにできる。明楽さんと天秤にかけて、貴女が彼を選ぶ理由があるのかしら?」
マグカップに口をつけて、ホットコーヒーをゆっくり啜る。
味は良くも悪くもない。他の飲み物にしても、軽食にしても同じようなものだ。だから流行らないんだろうな、と菖蒲は思っていた。
しばらく間を空けて、美弥が深く息を吐く。
書類を丁寧に集めてファイルに戻した。それを突き返す―――ことはなく、そのまま自分の脇に置く。それが彼女なりの意思表示だった。
「分かりました。これで手を引きます」
「ありがとう。本当に悪いとは思ってるわ。でも、私の望みは……」
「どうでもいいですけどね。どっちにしろ黒川先輩と戦って勝てる気はしませんし、確かに悪い話じゃないですしね」
「そう言って貰えて嬉しいわ。色々と手を尽くした甲斐があったってものね」
カップをソーサラーに置いて、窓の外に視線を移す。
雨足は止むことなく、どんよりとした空が広がっている。それに反して彼女の気分は晴れやかだった。障害のほとんどは取り除かれたのだ。あとは神矢 里桜の排除だけ。ここまでくれば、望みは叶ったも同然だった。
「やっと……やっとね。長かったわ。この半年は特に長く感じたもの。気が狂いそうだった」
彼と離れるという選択は、苦渋の決断の末だ。
本音を言えば片時だって離れたくなかった。ただ彼との生活を維持するには、当時まだ生きていた和葉や雪那たちを排除できるだけの力と金が必要だったのだ。何者にも邪魔のできない確固たる場所を手に入れなければならなかった。それが足りなかったから、彼との生活は終わりを告げた。あの時程自分の力不足に腹が立った事はなかった。
「お父さんとは話できました?」
「ええ、できたわ。……ふふっ、私の顔を見るなり幽霊でも見たみたいに驚いて……思い出すだけでも笑っちゃうわね」
後妻と住む家にいるはずのない娘に激昂して、口汚く罵って。
妻と名乗る女は酷く怯えていて滑稽だった。腹違いの妹と弟を抱き締めながら、父の部下たちに何かを叫ぶばかり。その様子に、菖蒲は可笑しくて仕方がなかった。周りの人間がまだ味方でいるつもりだったのだろう。独裁的で敵の多かった父を貶めようとするのに、思ったよりも労力は掛からなかった。彼らのほとんどは金で私の側に着いて、残りは暴力に屈した。
あれだけ傲慢だった父も、数時間後には泣き喚きながら死ぬことになった。書類にサインさせた後は、家族共々、今は仲良く海の底だ。
「まぁ、最後の最後に役立ってくれたのだから良しとするわ」
「そのお金が全部私のものですか。いいんです?先輩と暮らすためのお金じゃないんですか?」
「そうね。そのつもりだったけれど……色々あったもの。心境の変化くらい私にだってあるのよ」
「その結果があんなお願いですか。親姉弟を殺して手に入れたっていうのに、自分で使わないんですもん。お父さんたち可哀そう……」
「使い道が変わっただけよ。意味はあったわ」
ふふ、と笑って、菖蒲は隣の席に座らせた人形の頭を撫でる。
美弥と落ち合ってからも、何度か人形に語り掛けるような仕草があった。それを異常だと美弥が思うのは当然だったが、言い知れない不気味さに追及できずにいた。
そんな何とも言えないような、怪訝そうな視線に気付かない菖蒲ではなかった。
察したように笑う。愛想笑いを返して、居心地悪そうに外を見る美弥に語り出した。
「……おかしいって思う?」
「あ、いえ……っていうか、え?訊いていいやつです?」
「構わないわ。普通に考えれば、異常者に見えるでしょうしね」
「……てかマジで、何があったんですか?ぶっちゃけめっちゃ怖いんですけど。訊いていいのかも分かんなかったし、最初見たとき泣きそうになりましたもん」
「……明楽さんと最後にシたとき、彼との子供を授かったんだけれど」
思い出すように、ゆっくりと言葉を吐いていく。
忘れられないあの瞬間。女として至福だった時間。妊娠したと分かったときは、柄にもなく大喜びしてしまった。
大切に大切に、色んな準備も怠らなかった。
つわりも何もかも、この子の為ならと辛くなかった。明楽と三人で過ごす瞬間を想像するだけで、どんな時でも幸せだと思えるようになったのに。
「けれど、ダメだったの。女の子だって分かって、名前も決めて……でも生まれなかった。医者が流産するしかないと言ったときは死んでしまいたかったわ」
あれ程落胆した時はなかった。
視界を塗り潰す絶望に、本気で自殺を考えた。何度も吐いて、食事なんか喉を通らなかった。ベッドから降りることもできなかった。起きているときはひたすら泣いて、疲れたら眠っての繰り返し。そんな日々が長く続いたせいで、半年も時間を掛けてしまったのだ。
最愛の少年との間にできた、最愛の子供。
愛することは傷付けることだという価値観すらひっくり返すような、何にも代え難かった娘だったのに。結局自分には生むことすらできなかったのだ。
「それは……何て言うか。すみません……」
「いいのよ。それでその後、練習用に買ってたこの人形にあの子の名前を付けて……ふふ、そうでもしなきゃ、本当に死んでたかもしれなかったのよね」
「…………」
「でもしばらくしてから……あの子の声が聞こえる気がするの。寂しいって言うのよ。だから、明楽さんと一緒に……家族三人で、仲良く暮らさなきゃいけないでしょう?」
美弥はあぁ、と納得した。
彼女から取引を持ち掛けられたとき、その内容の意味が分からなかった。その理由がこれだと、今初めて気が付いたのだ。
「だからあんな事言ったんですね」
聞いたときは耳を疑った。
混乱している間に書類やら何やらを押し付けられて、訳も分からずムカついてしまった。話を聞けばなんてことない。共感も理解もできないが、彼女なりの葛藤と考えの末の言葉だったのだ。
「先輩と一緒に死にたいなんて、頭おかしくなっちゃったのかと思いました」
菖蒲の願いは、明楽に殺されながら明楽を殺すこと。
二人で愛し合って、天国にいる娘に会いに行く。そこで三人で暮らしていく事が願いだと、菖蒲は心の底から本気で願っていた。
「明楽さんもきっと喜んで着いてきてくれるわ。私たちはもう家族なのだから……
にこやかに笑う菖蒲は、そう言って真っ黒なブラックコーヒーを一気に飲み干した。
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