3章 / 菖蒲I / 明楽IV

 約半年ぶりの自宅に、少女は震えるような歓喜を覚えた。


 ここを出て行ってから掃除はもちろんされておらず、少し歩くだけで暗闇でも分かるくらいに埃が舞う。足の裏には不快な感触もある。床に散らばった錠剤も、割れた注射器もそのままだった。


 それでいいと思った。

 その痕を目にするだけで、あの日々の事を鮮明に思い出すことができるのだ。


 少年と離れてからは、日に日に薄れていった記憶。

 まだ日が浅い内は、目を瞑れば感触すら思い起こせたのに。

 柔らかな肌、甘ったるいミルクのような匂い、さらさらとした髪。やけに温かく感じた体温も、舌を這わせればびくびくと震える体も。少し押し込むだけでぷつりと紅を流す皮膚と、熱っぽく荒い吐息は特に覚えている。何より喉を枯らしても漏れ出る声はどんな音楽よりも甘美だった。


「ああぁぁ……」


 背筋に電気が走る。

 思い出すだけで、体が一気に熱を帯びていく。

 半年も時間を掛けてしまったせいで、霞がかってしまった最高の瞬間。あの時は眠る暇すら惜しくて、全身全霊で少年を愛していた。彼もまたそれに応えてくれていた。少なくとも少女はそう信じて疑わなかった。だからこそ嬉しくて、離れ離れにならざるを得なかったあの瞬間まで愛し続けたのだ。


 抱き締めた人形は優しくソファに寝かせ、少女はその隣に深く腰掛ける。


 最後はこの場所だった。

 自分の体の中に放たれた熱を最後に感じたのは、まさにこの場所。腹の中に命を宿したと運命めいたものを確信したのも。数週間経って、それは間違っていなかったと知ったときは狂喜乱舞した。彼との間にできた命は、彼女にとっては人生そのものを変える程に衝撃的だった。


(あの時は急ぎ過ぎて、全て失敗してしまったけれど)


 ただ目先の快楽を求めるあまり、自分も少年も準備が出来ていなかった。

 あんな穴だらけの生活がいつまでも続く訳がなかったのだ。当然の如く崩れ去って、結果自分に残されたのは宿った子供だけ。今だけだと言い訳するように彼を手放し、失敗を取り戻すために奔走するハメになった。


「くふ、ふふふふふっ……」


 唇から嗤い声が零れ落ちる。

 ともあれ時間は掛かったが、全ては終わったのだ。


 障害となるものの大半は取り除いた。

 恋人だと嘗めた事を言う和葉も、邪魔だった姉の雪那も消えた。残るは図書館に引き篭もった変人と、自分一人では何もできない後輩だけ。路傍の石ころよりも小さな障害だった。


「ねぇ?椿もそう思うわよね?」


 つばき、と呼んだ人形の頭を優しく撫でる。

 まだ小さな赤ん坊を模したリボーンドールは、彼女にとって紛れもない「少年との子供」だ。


「早くパパに会いたいわよね?大丈夫よ。すぐに会えるわ……ふふ、どこにいるかなんてすぐに分かるもの。少し眠ったら、まずはお母さんのお友達に会いにいきましょうか」


 菖蒲には、子供が可愛らしく返事をしている声が聞こえている。

 半年では子供は生まれるはずがないと分かっていても、彼女は自分が狂っているのだとは微塵も思っていない。体温のない人形は自分の子供で、流産だと嘘ばかりを吐いた医者の方が狂っているのだと、本気でそう思い込んでいた。

 今は冷たくなって海の底にいるだろうが、そんなことは些末な出来事に過ぎないのだ。


「……ええ、そうね。ママもよ。……ふふ、そうよね。早くパパを迎えに行って、三人で愉しく暮らしましょう」


 床と同様、地面に散らばった薬を手に取る。

 随分昔のモノだが構う気はなかった。少年のために処方した薬のうちの、精神安定剤と睡眠導入剤。この半年で色々とあったせいか、酷く傷付いた心を保つには、彼女もこの小さな錠剤に頼らざるを得なかった。


 埃を手で払い、口に放り込む。

 水も飲まずに嚥下してから、静かに目を閉じた。


 夢は相変わらず見ることはできなかったが、久しぶりに朝まで目を覚ますことはなかった。

 









 カーテンの向こう、窓を叩く雨の音で目が覚めた。


 薄暗い部屋の中、天井をぼうっと見上げる。

 今日もいつも通り、酷い頭痛と倦怠感が僕を襲う。ずきずきと頭の中で誰かが鐘を鳴らして、まるで僕を非難するように責め立てる。

 思考すらままならない状態で、指先すら動かすのを躊躇うくらいの体の重さは正直堪えてしまう。毎朝死にたくなるような気分になるのも当たり前だった。


「…………」


 隣にはすやすやと眠るお姉ちゃんの寝顔。

 毎晩僕を抱き枕にして、彼女が起きるまで僕はベッドを抜けることができない。気を遣い過ぎかとも思うけれど、僕とお姉ちゃんの距離感はそんなものだ。他人だけど他人じゃない、近くて遠い存在。よく分からない間柄。それを疑問に思う事はあるけれど、そんなことを彼女の前では口にできないのだ。


「……ん」


 痛む頭に深く息を吐くと、お姉ちゃんが小さく反応した。

 まだ半分夢の中にいるようで、焦点の合わない目で僕を捉える。そのままじっと見つめて数分が経った。

 ぱちぱちと瞬きを数回。目を擦ってから、少し枯れた声で言った。


「……あぁ、起きてたんだね。ごめん、私も起きるかな」


 お姉ちゃんは朝が弱く、寝起きは特に悪い。

 機嫌が悪くなる訳ではないけれど、話せるようになるまで時間がかかるのだ。


「まだ寝ててもいいですよ」

「キミもまだ眠いのかい?」

「僕は……そうでもないですけど。ぼうっとしてただけで眠くはないです」

「なら私も起きるさ。お腹は?昨日はあんまり食べてなかっただろう」


 そりゃあ、あんなにギスギスした中で食事が喉を通るわけがない。

 出された食事の半分を残したのは二人のせいだ、と言えたら楽だろうけど、ぐっと喉に押し込んでおく。彼女の弟としての僕は、そんなことは言わないのだから。


 絡めていた手足を解いて、彼女はのそのそと起き上がる。

 いつもはさらさらとした金髪も、寝起きは爆発したみたいにぼさぼさだ。その上がしがしと遠慮なくかき乱す。毎朝頭痛を堪えて櫛を通すのは僕なのに。


「髪、梳かしましょうか

「あぁ……いや、その前に」


 櫛を取りに行こうとした僕の肩を引き留めて、お姉ちゃんが顔を寄せた。

 迫る唇。寝起きなのに、と思う間もなく、それは僕の唇に重ねられた。嬉しそうに目を細める彼女のされるがまま、僕は体の力を抜いてそれを受け入れる。舌を捻じ込まれても、無遠慮の口内を舐め回されても、僕はただ黙って目を瞑るだけだ。


 唾液が糸を引いてシャツとシーツに零れ落ちる。

 熱の籠った吐息が離れていくのを感じて、僕はようやく安堵した。


「……ん、ふふ。おはようのキスだよ。たまにはこういうのも良いかと思ってね」

「……そう、ですか」

「これからは毎日しよう。朝と夜だ。少なくとも二回、日課みたいなもんだね」


 姉弟ですることじゃない、とは言わず、僕は黙ったまま頷いた。

 こう言われてしまえば僕に選択肢はない。拒否権だって、考える一瞬の間だってない。それが今の僕だから。


 彼女の望むように振舞う僕がいて、それをすぐ傍で傍観する僕がいる。

 眺めるだけの僕は、これがおかしい事だって何度も言う。けれどこうして彼女の前で笑顔を作る僕には届かない。無視をして、理解できないままただ望まれる僕を振舞うだけだ。


 そう。今の僕は、お姉ちゃんの弟だから。


 頭がまた、ずきずきと痛み出した。









「キミはどこに住みたい?」


 朝食のトーストを齧りながら、お姉ちゃんの言葉を考えた。


「……どういうことです?」

「そのまんまの意味さ。どこか住みたい所があるか訊いてるんだ」


 何を言ってるんだろう、というのが素直な感想。

 とはいえ、彼女の言葉を深く考えるだけ無駄だったりする。突飛な言動の裏には彼女にしか分からない意味があるのだ。言葉足らずなせいで言葉の意図が分からなくても、とりあえず答えておけばいいのだと気付いたのは最近になってからだ。


 どこだろう、と頭の中で色々と巡らせてみる。

 どこでもいいとは思うけれど、ふと浮かんだイメージをそのまま伝えた。


「海、とか」

「……ふむ」

「海の見える所とか、いいですね。あんまり人がいなくて、静かな所のが」

「なるほど。いいね。田舎のほうで、海の見える家が良いってことだね」

「……もしかして、引っ越すんですか?」


 大口を開けてトーストを捻じ込む彼女に向けて、僕は恐る恐る尋ねてみた。

 出不精だったお姉ちゃんが引っ越しだなんて、何かあったに決まってるのだ。そもそも僕とお姉ちゃんが良くても、美弥ちゃんが何て言うか―――


「美弥なら昨日出ていった」

「へ?」

「彼女が気になるんだろ?美弥なら昨晩、家を出ていった。もう戻らない」

「なん、で……」


 僕の表情を察してか、先回りするように彼女は言った。

 薄ら笑みを浮かべたまま、コーヒーを流し込んでいる。確かに喧嘩していたけれど、だからと言ってもう戻らないなんて。戸惑っている僕を後目に、どうでもいいとばかりに、彼女は話を戻そうとする。


「さぁ?美弥が出ていくと言うから、私は承諾した。……で、引っ越しのことなんだけどさ」

「……はい」

「近い内に……そうだね、一週間以内くらいかな。それくらいに引っ越そうと思うんだ。キミは自分の荷物だけをまとめてくれればいいからね」

「そんなにすぐにですか?」

「そうだね」

「何か、あったんですか」

「いや、別に」


 なにもないよ、とお姉ちゃんは笑って言う。

 

「ここも飽きてきたしね。キミと暮らすんだから、もっとちゃんとした家の方がいいだろう?」


 誤魔化しの言葉くらい、僕にでも分かる。

 出ていったという美弥ちゃんに、畳みかけるように提案された引っ越し。彼女らしくない行動なのだ。やっぱり、美弥ちゃん絡みで何かトラブルがあったのだろう。


「……お姉ちゃん、本当に?」

「本当さ。キミは姉の言葉が信用できないのかい?そんな風に育てた覚えはないんだけどな」


 棘が含まれた言葉を投げられてしまう。

 あまり触れるなということだろうか。僕にも関わりのある問題だと思うんだけど、それを許してはくれないらしい。お姉ちゃんにそう躾けて育てられた僕にとっては、彼女の言葉は絶対なのだ。


―――と、ふいに違和感。


 育てられた?

 僕が、貴女に?

 嘘だ。僕を育ててくれた人はお姉ちゃんじゃない。確証はないけれど、直感的に真実ではないと思った。


 なら、誰が?

 今まで僕は誰と暮らしてきたんだっけ。


「……その、僕は……」

「……いや、いい。私も言い方が悪かった。私はキミの家族なんだ。恋人で、妻で、姉なんだ。誰よりもキミを愛している。だからキミは私を愛して、私の言葉を信じていればいい」

「…………」

「大丈夫。何も難しく考えることはない。キミは私の言葉だけを聞いていればいい。何も疑うな。そうだろう?」


 お姉ちゃん。

 僕を育ててくれた、お姉ちゃん。名前は里桜。神矢 里桜。

 僕の名前は柊木 明楽。あれ、どうして名字が―――


 ようやく収まった頭痛がまた僕に襲い掛かる。

 考えれば考える程、その痛みは増していく。頭を押さえても、蹲ろうとテーブルに肘を着いても変わらない。気付けばポタポタと零れる紅が、真っ白なテーブルクロスを汚していた。


「あれ、なんで……お姉ちゃん、なのに。恋人……お姉ちゃんが?……誰だっけ。誰か……」


 お姉ちゃん。

 恋人。

 目の前で苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる彼女とは別に、誰かいた気がする。タバコを咥えたショートヘアの女性と、ニコニコとした垂れ目の少女。頭の中に浮かぶ二人の顔は、ぐちゃぐちゃをペンで塗り潰されていた。声も籠っていてよく聞こえない。思い出そうとしても、どうしても辿り着けないもどかしさに吐き気がした。


 あの二人は誰なんだろう。

 すごく大切な人だった気がするのに、なんで思い出せないんだろう。

 どうして、僕は―――


「待て、アキラ。考えなくていい。よせ、頼むから……!」


 鼻から零れる血を拭う手と、響く大きな声。

 狭窄していく視界の端には、さっきと変わらず苦々しげなお姉ちゃんの顔。


(あれ、おねえちゃん。なんでそんな悲しそうな……)


 おねえちゃん? 

 おねえちゃんって、誰だっけ。

 僕の肩を揺さぶるこの人?いいや、違う。確か黒い髪で、もっと短くて……


 (あぁ、そうだ。僕の姉さんは……)


 思い出したのは、暗い部屋のベッドの上。

 頭から血を流して、動かなくなった姉さんの姿だった。


「ぁ、ぁああぁ……」

「やめろ。いいから、何も考えるな。私を見ろ、アキラ……」


 その奥で倒れる少女の姿。

 顔は暗くて見えないけれど、体はほとんど真っ赤に染まっている。

 手に持った拳銃は、きっと姉さんを撃ったそれ。転がったナイフは彼女を滅多刺しにしたものだろうか。


 ―――鮮明に思い起こされる、いなくなってしまった、死んでしまった僕の姉と恋人の姿。


「――――――ぁぁぁあああ!!!」


 そこまで思い出して、僕はついに叫び声を上げた。

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