3章 / 里桜IV / 美弥V
久しぶりの日本の夜は思いの外寒く、薄手のワンピースだけでは身震いしてしまいそうだった。
キャリーケースからデニムのジャケットを取り出して、とりあえず上に羽織っておくことにした。黒のワンピースにはあまり合いそうにはなかったけれど、ひとまずはこれでいいだろう。どうせすぐにタクシーに乗ってしまうのだから、見栄えなんか気にしていられない。
がらがらと音を立てながら、空港の外へ。
ロータリーのタクシー乗り場は空いていて、待つことなく捕まえることが出来た。待たされることが大嫌いな彼女にとってはありがたいことだ。車に寄り掛かったドライバーは彼女に気付き、愛想笑いもなくキャリーケースを受け取った。
初老のドライバーがケースをトランクに詰め、後部座席のドアを開ける。
小さく会釈をしながら座席へ。独特な匂いが鼻をつく。顔を顰めそうになるのを堪えながら車内を見回した。
「どちらまで行かれますか」
と、運転席に着いたドライバーが行き先を尋ねてきた。
ドライバーのプロフィールが書かれたネームプレートに、石井 友則と書かれている。先ほど見た顔よりも幾分若く映った顔写真のとなりには、「趣味:お菓子作り」なんて情報も。お世辞にも料理すらしそうにない見た目とのギャップに笑いそうになってしまった。
「……お客さん?」
バックミラー越しに向けられた訝しげな視線に、彼女は「すみません」と返事をした。
「―――までお願いします。どれくらいで着きますか?」
「そうですね……この時間なら、一時間もあれば着きますよ」
そうですか、と言って、彼女は目を閉じた。
時差ボケのせいで頭がぼうっとしていた。重い瞼に逆らう気も起きず、頭を窓に預けて力を抜く。ドライバーはすぐさま眠ろうとした彼女に気を悪くする様子もなく、静かに車を走らせた。
(もうすぐ会えるわ……)
夢現の頭の中で、少女は期待に胸を膨らませた。
面倒な後始末を終わらせて、ようやく帰ってくることができた。予想外に時間は掛かってしまったが、それもこれからの事を考えれば盛り上がるためのエッセンスにしかならない。ふふ、と小さく笑って、彼女はそのまま寝息を立て始めた。
ぎゅっとその胸に、赤ん坊の人形を抱き締めながら。
♪
「マジで信じられないです。私には何度もダメだって言っておきながら、自分はこそこそと……!」
夕食後も延々と続く恨み言に、里桜は心底うざったそうに顔を歪めた。
「最初のとき以外で何回シたんですか。あの感じだと結構やってますよね?」
「やってないって。何度も言ったけど、ちょっとキスしたりイチャイチャしただけじゃないか」
「そんなの信じられませんー!」
「キミも結構しつこいね。じゃあどうしろって言うんだ」
何度も繰り返されたやり取りに飽きてしまったのか、最初こそ気まずそうにしていた明楽もいつの間にか眠ってしまった。夕食後はいつもすぐに眠ってしまうのだが、こんな空気の中でもそれは変わらないようだ。
その隣で甘える猫を愛でるように彼を撫でる里桜は、いい加減進展のない議論を切り上げたいとばかりに、半ば投げやりに言い放った。
「神に誓って、あれ以来セックスはしてないよ。今はアキラに負担がかかるような事はしたくないからね」
神様なんか信じてないくせに、と美弥は悪態をつく。
「キスしたり体触ったりはいいんですか」
「……まぁ、確かに我慢出来なかったのは認めるよ。でもこうして彼の状態を探ってるのも本当さ」
「は?どういう事です?」
「私もキミも、いつまでも我慢できるなんて思ってないだろう?ここまで愛してる男と一つ屋根の下なんだからさ、死ぬまでプラトニックなままでいられる程、欲望がないわけじゃないんだ」
ちらり、と明楽を見て、眠っていることを確認する。
規則正しい寝息と可愛らしい寝顔に、里桜は頬が緩んだ。
「彼をこれ以上壊さないよう、自然に体を重ねられればそれが一番良い事だよね。だから少しずつ反応を見ながら、彼に迫ってるんだよ。彼の準備が出来れば、キミにも我慢しろなんか言わないさ」
「だから自分は良くて私はダメって?」
「キミにそれが出来れば任せてもいいけどさ。失敗したらまたアキラが壊れてしまう。それだけは避けなきゃいけないだろう」
「……ふぅん。ま、言いたい事は分かりました」
噛みつかんばかりだった形相も、ひとまずは落ち着きを取り戻す。
とはいえ、分かりましたと頷いてはいるが、美弥の表情は納得していないようだった。まだ何か言いたい事があるのか、続く言葉を言いあぐねている。
少し時間を置いて、美弥は喉の奥に引っかかったそれを言葉にした。
「結局里桜さんは、先輩をどうしたいんです?」
「……それは以前話したと思ったんだけどね」
里桜の表情が強張り出した。
いつもへらへらと唇を曲げた彼女とは打って変わって、僅かに苛立ちの色が伺える。初めて見る彼女の感情に、美弥も体に力が入った。
「私はアキラとこれからも暮らしていきたいと思ってるよ。アヤメのように傷付けることもなく、カズハやユキナのように彼の心を蝕むこともなくね。だからここまで配慮してるし、気を張ってるんだ。ハッキリ言ってキミに搔き回されたくはないんだよ」
「……私が何をするって言うんです?」
「キミはそんな風に思ってはないんだろう?私の考えとは正反対のはずだ」
「そうですねー。ぶっちゃけ、里桜さんの言ってる事はあり得ないって感じです」
べー、と舌を出して、美弥は嫌悪感を表した。
もともと考え方が違うのは分かっていたことだが、お互い相手を出し抜く気で利用しようとしていた。
それが目的をある程度果たしたことで膠着してしまっていたのだが、それもこれ以上だらだらと続けていても仕方がないと思い始めた矢先なのだ。色々な準備が整い始めたことも相まって、先のキスを目撃してしまったことがキッカケとなって爆発したのだった。
「最近の先輩って、なんだかつまらないんですよね」
「…………」
「ほら、そうやって人前でぐーすか寝ちゃったりとか。へらへらして、毎日のほほんと生活して、なにちょっと幸せっぽくなってるんですか。そんなのマジありえねーっつーの」
「……キミはどちらかと言えばアヤメに近い性癖だと思ってたけど、ちょっと違うみたいだね」
「黒川先輩?あはは、違いますって。あんなのと一緒にされちゃ堪んないです。あの人は殺しかける事をマジで愛情表現だって思ってる本物さんですからね。私はそこまで狂ってないですもん」
「どうかな。種類は違えど同類のように見えるけどね」
「私は好きな子には意地悪しちゃうタイプってだけです。意地悪して、困った先輩を見るとキュンしちゃうだけ。それが最高に幸せで悪いですか?……それに里桜さんには言われたくないし」
侮蔑を込めた視線を里桜に向ける。
自分だけはマトモだと思い込んでいる彼女の態度は、美弥にとって吐き気がするくらいに嫌悪の対象だった。自分の事を棚に上げる気はないけれど、里桜ほど厭らしい人間はいないとさえ思っていた。
「友達を利用して、挙句殺してるし。しかも先輩のお姉さんだし。で、結局先輩の悪いとこ利用してなーにぬくぬくと恋人面してるとか、ほんっと気持ち悪い。傷付けることなくーって、とっくに傷付けてるんだっつーの。死ねよ、マジって感じです」
「……随分言ってくれるね、キミも」
「だって里桜さん、最近クッソキモいんですもん。私もそろそろ限界っていうか、アンタももう要らないし?みたいな」
「ほう。自分じゃ何もできないガキのくせに、大きな態度になったもんだね。どうしたんだい?邪魔者が減って強くなった気になったかい?」
明楽を撫でる手は止めず、鋭い視線だけを美弥に突き刺していく。
部屋にひりついた空気が流れる。明楽が眠っていて良かったと里桜は思った。こんな状況は彼に悪影響しか及ぼさないだろう。声を荒げないで済んだのは、手のひらから伝わる体温のお陰だった。
「いいよ、分かった。キミは彼を傷付けて愉しみたい。私はこれ以上彼を傷付けたくない。過去に何をしたとしても関係ない。私のアキラと私の空間を壊そうとするなら、黙ってられないね。そもそもキミは便利な駒くらいにしか思ってなかったし、要らなくなったんならさっさと処分するべきだったよ」
「遅えっつーね。私がただのんびりしてただけだと思ってたんですかー?」
「どうせキミの事だから、また誰かに頼るんだろう?まぁ、誰を頼るかは大体分かるけどね」
美弥自身に大きな力はない。
金もないし、権力もない。あるのは人懐っこさを利用したコネと、立ち回りの上手さだけ。それさえ気を付けていれば相手にもならないと、里桜は本気で思っていた。
その上で、彼女が頼れるのは一人だけ。そこまで分かっていればどうにでもなるのだ。
美弥を信用したことなど一度もない。
見えないところでコソコソ何かを企まれる方が面倒だと思って手元に置いておいたが、こうもあからさまに敵意を向けられるのであれば話は別だ。獅子身中の虫はさっさと消してしまうに限る。
「面倒なことになる前に、ここで殺しておいた方がいいかな」
「やってみます?先輩起きちゃいますよ?」
「平気さ。こう見えて、人を殺す技術は十分身に着けてるのさ。キミが何か言う前に首をへし折るくらい、簡単にできるんだよ」
「へぇー。すっごいですねぇ。やってみろって話ですけど」
髪を梳く手を止めて、ゆっくりと腰を上げた。
マットレスが沈んで明楽の体が揺れる。が、起きる気配どころか身じろぎもしなかった。彼に向けられた目線に気付いた里桜が、美弥の言葉を制して言った。
「アキラの夕食には薬を混ぜてある。そうでもしなきゃ何時までたっても眠らないからね。多少大騒ぎしても起きないさ」
「あっはは……マジクソですね。まー、だから何だっつー感じです」
じりじりとにじり寄る里桜に動じることなく、美弥はハンドバッグを手に取った。
どこに行くにも肌身離さない、ピンクのラメが入ったエナメルのそれ。ジッパーを開けて手を入れれば、ごつりと無骨な鉄の感触がした。
「撃ったことないですけど、この距離ならーってやつです」
ずしりと手に感じる重みを真っすぐに里桜に向け、けらけらと嘲笑ってやる。
こんなこともあろうかと、和葉の部屋で拾っておいた拳銃だ。こういう嗅覚は誰よりも鋭い自信があるのだ。ましてや里桜と行動を共にするなら、武器の一つくらいは身に着けて置かなければ。使う機会が無ければいいなとは思っていたが、ハンドバッグに忍ばせておいて正解だった。
初めて握る銃身に汗が噴き出る。でも口端は吊り上がっていく。
人なんか殺したことはないし、撃った事もない。実際に撃てるのかも分からない。が、驚くほど冷静な自分がいるのも事実だ。嫌だけど、殺されるくらいなら殺してしまえ。なんて覚悟を決めているのも可笑しくて仕方なかった。
「映画とは違うんだ。いくら近かろうが、マトモに当てられると思うかい?」
相対する里桜も、突然向けられた銃口に動揺すらしていないようだった。
実を言えばこういったケースは初めてではない。今の地位を得るために、色々と後ろ暗い仕事をしたこともあるのだ。身を守るためにと若い頃に訓練を受けたこともある。拳銃を持った男を捻じ伏せるのは彼女にとって難しい事ではなかった。
「動かない的に当てるのとはワケが違う。撃たれたところでその程度の口径じゃあ頭を撃ち抜かない限り即死もしない。キミには無理だね」
「…………」
「諦めろ。見逃してはやらないが、痛みは感じないようにしてあげよう」
「……あー、気持ち悪っ。確かに里桜さんは避けそうかなぁ」
ゆっくりと獲物に飛び掛かる前の肉食獣のように、腰を屈めて近寄る里桜。
頭良いくせに馬鹿なんだから、と嘲笑って、鈍く光る銃口をズラした。
狙う的は里桜でなくてもいいのだ。
今この場にいるのは二人だけではないのだから。
「……あぁ、そうか。キミはホントに頭に来る」
「私は別にいいんですよ。でも里桜さんは嫌ですよね?」
「アキラを殺すか?それはキミの本望じゃないだろう」
「死んだら死んだです。すっごい……死ぬほどイヤですけど。殺されるくらいなら道連れです」
「アキラを撃てばキミも死ぬぞ。私が殺す。あらゆる苦痛を味わわせて、時間を掛けて苦しめて殺す」
見たことのない鬼気迫った形相に、美弥は余計に笑いが込み上げた。
カタカタと銃口が揺れる。それすらも里桜は嫌った。自分が撃たれるのはまだいい。だが明楽にそれが向けられるのは、この上ない恐怖であった。感じたことのない恐ろしさと緊張が体を縛り付けた。
「撃たなくても私を殺すんじゃないんですかー?」
「……クソ。あぁ、分かった。消えろ。見逃してやる」
「見逃してください、でしょ。いつまで偉そうにしてるんですか」
形勢逆転。
明楽は間違いなく、これ以上ない里桜の弱点になった。予想外の反応には驚いたが、それを利用しない手はなかった。
明楽に銃口を向けたまま、美弥はゆっくりと膝を立てる。
憎まれ口を叩くのはいいが、この場に居座る意味もないのだ。こうも深い溝が出来上がった以上、さっさと逃げ出してしまう方が得策だった。
「……二度は言わない。頼むから、今すぐ消えてくれ」
屈するように言った里桜を見て、美弥はけたけたと嗤いながら立ち上がった。
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