3章 / 里桜III / 美弥IV
十一月に入り、秋の涼しさに肌寒さを感じ始めるようになった頃。
この辺りになると、里桜は元々の出不精に輪をかけて引き篭もりがちになる。
寒さにとことん弱く、酷い時には春が来るまで家から一歩も出ないときもあった。そもそも外出自体あまり好きではない上に、旅行や散歩などは何が楽しいのか理解できないとさえ思っているのだ。となれば当然、この時期は余程の事が無ければ部屋から出ることはなかった。
―――のはずだった。少なくとも、ついこの間までは彼女自身そう思っていた。
「アキラ。明日はここに行ってみないかい?」
いつもの穴倉のような部屋―――ではなく、倍近くまで広くなった大きな洋室、眠れれば何でも良いとさえ豪語していた里桜が買った新しいローベッドの上で、ノートパソコンの画面を指さした。
画面には紅葉をイメージしたイラストに、いくつかのオススメスポットを紹介する記事が映っていた。かなり細かく調べたのか、タブがぎっしりと詰まるくらいに表示されている。その中でも特に面白そうなサイトを見つけ、里桜は顔を綻ばせた。
昨日は冬服を大量に買い漁り、一昨日は人気のあるテーマパークで朝から遊び倒した。その前は話題になっていたレストランに行って、帰りは有名な夜景スポットで肩を寄せ合いもした。
週のほとんどを彼とのデートで過ごし、家に帰れば片時も離れずにいる。長い間他人との関わりを面倒に思っていたのが嘘のように、彼の傍から離れようとはしない。
彼女自身、自分の変化に戸惑うくらい、彼との生活を楽しんでいた。
「この辺りじゃココが一番綺麗らしいんだ。近くに温泉もあるし、どうだい?」
「温泉、ですか?」
「心配しなくても一人にしたりなんかしないよ。ここには混浴だってあるし、貸し切りにできるから問題ないさ」
ほんの少しだけ逡巡した明楽に、里桜は即座に反応する。
明楽と暮らし始めてから数カ月が経ち、彼女も彼の扱いにようやく慣れてきたところだ。
僅かな感情の機微も見分け、言葉足らずな彼の思考を読めるようにもなった。おかげで彼の精神は安定してきているし、以前は頻繁に起こっていた頭痛や突発的な嗚咽も少なくなってきている。良い兆候だ。
明楽の為ならば、と色々思案して、里桜の生活も大きく変わっていった。
明るく清潔感のある部屋に移り、インテリアも全て買い替えた。二人で眠れるようにキングサイズのベッドを中心に、そこから観れるように大きな壁掛けのテレビモニタ、間接照明ばかりだった灯りはクルクルと回るシーリングファンライトに変わり、埃塗れだった本棚は全て綺麗に掃除されている。相変わらずぎっしりと本が詰まっているが、以前のように読まずに放置されているようなモノはなかった。
「僕、ちゃんとした所に紅葉を見に行くのは初めてです」
「実は私もなんだ。ふふふ、楽しみだ。今までは興味なんてまるで無かったけれど、キミと行くと思うとどうしてこう胸が高鳴るんだろうな」
「……美弥ちゃんも一緒ですか?」
「ミヤは……どうだろう。一緒がいいかい?」
ノートパソコンを脇に除けて、すぐ傍で寝転がっていた明楽の髪を撫でる。
くしゃくしゃに乱れた猫っ毛を気にもせず、明楽はテレビに視線を向けていた。お気に入りの海外ドラマに夢中なのは知っていたが、ちらりとも視線を向けてくれないのは何だか寂しく感じてしまう。
「きっと行きたいって言うと思いますよ」
「言うだろうな。……私としては、二人きりでも良いとは思うんだけどね」
「そうなんですか?」
「あぁ、そうさ。遊園地の時も買い物の時もずっと一緒だったろう?たまには姉弟二人きりでどこかに行くのも良いと思わないかい?」
「美弥ちゃんも同じ兄妹ですよ」
「まぁ、そうだけどね。……アキラはミヤが好きなんだな」
「うーん、好きって言うか……」
言いあぐねる明楽に、里桜の不満は少しづつ募っていく。
里桜が姉で、弟が明楽。その妹として美弥がいる。恋人と姉弟の二つの関係を同時に手に入れようとして、結果的に自分で作り出してしまったのがこの形である。
雪那の影響もあるのだろうが、里桜としては望むべくして出来上がった関係性なのだ。それを今さら後悔した所でどうしようもないけれど、最近は少し煩わしく感じていた。
「いいよ、分かった。一緒に連れて行こう。後で文句を言われても困るしね」
「……お姉ちゃんはそれでもいいですか?」
「キミがそうしたいなら構わないさ。なに、二人きりで出かける機会なんかこれから先いくらでもある。クリスマスも、大晦日も正月も。その先の春も、夏もだ。ずっと一緒なんだからね」
焦る必要はない、と自分に言い聞かせる。
もどかしくないと言えばウソにはなるが、実際に時間は幾らでもあるのだ。
「……さて。もう少しすればミヤも帰ってくるだろうし」
少年の髪をもう一度くしゃくしゃと乱暴に撫でて、里桜は立ち上がった。
時刻は午後六時半。窓の外はすっかり暗くなっていた。そろそろ夕食の支度をしなければならないと、くすぐったそうに目を細める明楽の手を取った。
「晩御飯の準備をしようか。彼女が帰ってくる前に、ある程度済ませておかないとね」
「そうですね」
「今日は何がいい?キミの好きなものを作ってあげよう」
食料品の買い出しは済んである。
美弥が何処で何をしているのかは知らないし、彼女に何を食べたいかなんて聞く必要もない。出されたものを食っていればいいのだ。
うーん、と考え込むように唸ってから、明楽はおずおずと答えた。
「オムライス、とか。この間テレビで見たやつがいいです」
「お、いいね。卵はたくさんあるし、それにしようか」
「でも、あんまり多いのは……」
「分かってるさ。もし食べきれなかったら残したっていいんだし」
以前料理番組で見たホワイトシチューのオムライスを思い浮かべて、明楽は小さく笑う。今からシチューを作るとなれば時間は掛かるだろうが、彼が食べたいというのだから仕方ない。例え夜中であろうと、どれだけ手間が掛かろうとも、里桜は躊躇いもしないだろう。
「さ、行こうか」
少年の手を引いて、キッチンへ。
こくりと頷く少年は、母親の後を追う子猫のようについていく。
特に手伝わせるつもりはないが、これがいつも通りの風景だった。
部屋の中で過ごす時も、トイレや風呂でさえ。階下にあるキッチンで調理するのであれば、当たり前のように彼を連れて行く。目的や理由がなかろうが、常に傍にいる。里桜と明楽の間にある一種の掟のようなものだった。
美弥は馬鹿みたいだと呆れていたが、言いたい奴には言わせておけばいい。他人から見て可笑しかろうが、自分たちが良ければそれでいいのだ。
「本を多めに持ってくといいよ。出来上がるまで時間がかかると思うし……あぁ、寒いかもしれないからパーカーを着ておこうか。それでも寒かったら、その……私が温めてあげよう。大丈夫さ。ほら、ミヤはキッチンなんかほとんど来ることはないんだしさ。二人きりならいいだろう?」
そうですね、と短い返事に満足して、里桜は軽い足取りで部屋を後にする。
シチューを煮込むのには時間がかかる。その間に少しだけ仲良くしたってバチは当たらないだろう。二人きりになれる時間はそう多くないのだ。
毎回彼女の見ている前でコトに及ぶのは、いくら里桜でも恥ずかしいようだった。こうして美弥がいない隙を狙って―――一緒に住んでいいなんて言うんじゃなかったと後悔していた―――イチャイチャするのも、慣れたものだ。
(まさか私がこんな風になるなんてね)
ニヤけた頬を明楽に見られないよう、彼の前を歩いていく。
キッチンに着いてから料理を始めたのは、それからもう少し時間が経ってからだった。
♪
「ただいまー」
と小さく挨拶をして、玄関のカギを締めた。
仮に大きな声で言ったところで、返事なんかあるわけないのだ。どうせ里桜も明楽も自分の世界に夢中で、自分の事なんか気にも掛けていない。気付けば二人でどこかへ行ってしまったり、同じ部屋の中にいてもどこか疎外感を感じたりもする。寝室だって美弥だけ別の部屋なのだ。あからさまな扱いにはいい加減うんざりしていた。
(いつまで我慢できるかなー……)
学校を辞めてから二人と一緒にいる時間は増えたものの、比例してフラストレーションは溜まる一方だ。
自由に過ごすことはできても、明楽は常に里桜の傍から離れない。
彼が離れようとしないのか、それとも里桜が離そうとしないのかは置いておいても、それを一日中見せつけられるのは流石に精神的にクるものがある。苛立ちが募って、意味もなく外出をするようになったのもその為だった。
重い気分を引き摺ったまま、美弥は二階にある二人の部屋へ向かった。
地下室の部屋は急に里桜が片付けてしまったのだ。「アキラの体に悪いからね」と言って、二階にある大きな部屋へと移っていった。ふん、と鼻を鳴らしてやったけれど、浮かれてばかりの彼女には皮肉にもならなかったようだ。
「せーんぱーい。帰りましたよーぅ」
装飾の付いた取っ手を引っ張って、部屋の中に入る。
ぐるりと部屋を見渡しても誰もいなかった。がらんとしたベッド、クッションが乱雑に放られたソファ、点けっぱなしのテレビ。
スマートフォンで時間を確認する。午後八時前。この時間から出かけることはないだろうから、きっと館内のどこかにいるはずだ。
「あーもう、めんどくさっ」
このまま自室に引っ込もうかとも考えたが、それはそれでなんだか癪だった。
除け者状態だからと言って身を引いてやるつもりもないのだ。今の彼女にできることは、空気を読まずに邪魔者に徹すること。適度にストレスを解消しつつ、あの人が帰ってくるまで里桜に嫌がらせをするだけである。
とことこと歩いて、今度は浴室へ。
一階の端にある浴室は銭湯のような造りになっていた。男女別にはなっていないが、広々とした浴槽にいくつもあるシャワーが壁に備え付けられている。ミストサウナやジャグジーもついているのだから、美弥は気分転換にと頻繁に使っていた。
「いないし……ご飯作ってるのかなぁ」
はぁ、と溜息を吐いて、今度はキッチンへ。
外出で少しは晴れた気分も、だんだんと滅入ってきてしまう。実際、自由に生活は出来ているものの、明楽との接触は制限されているようなものだった。
明楽といる為にこの家で暮らしているのに、と不満は遠慮なく表に出しているけれど、里桜は何かにつけて「まだ彼には早い」だの「今はまだ安定していないんだ」だの言い訳を並べては独占しようとするのだ。嘘吐け、と言ってやりたくもなるのも無理はなかった。
今度は何も言わずにキッチンのドアを開ける。
目を向けるまでもなく人の気配を感じた。
ぐつぐつと煮える鍋の音。衣擦れに耳障りな水音。熱っぽく荒い吐息と、押し殺した嬌声。あぁ、と唇を噛んで、美弥は思わず怒鳴り散らしてやりたくなった。
「……何してるんです?」
冷静にそう言えたのは奇跡に近い。
静かな声音とは裏腹に、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
目の前で実際に見せつけられるのは初めてではない。が、だからと言って平然としていられるわけでもないのだ。
はだけたシャツに、口元がてらてらと唾液で光る姿。手はがっしりと彼の細腰に巻き付いて、立ったまま圧し掛かるように重なった二人の姿は、何をしていたのか一目瞭然だった。
蕩けた目をした明楽と、紅潮した顔で振り返る里桜を見て、美弥は奥歯をぎしりと鳴らした。
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