3章 / 里桜II

 指でなぞれば埃が纏わりつくほどのキッチンはすっかり綺麗に掃除されて、長い間使われなかった皿も全て念入りに洗った。


 クッキングヒーターをオンにすれば、電子音と共にフライパンに熱が入る。

 手をかざして熱さを感じたところで、薄く油を引いた。水分が僅かに残っていたのか、ぱちぱちと音を立てて跳ね出す。寝起きの頭にはいい刺激だった。少しだけ眉を顰めながら、水気が完全に飛び切るぼうっと眺めていた。


「あー、卵がないのか……」


 食料品の買い物なんかほとんどしたことが無かった為か、冷蔵庫は足りないものだらけ。

 そもそも料理の経験自体がまるでないのだ。彼の為を思って自炊を学び始めたのだが、かなり奥が深くて戸惑ってばかりだった。それでも文句一つ言わず平らげる彼を思い浮かべれば、不思議と悪い気はしない。というか、楽しくて仕方がなかった。


 後で買いにいなかきゃ、と頭に留めておいて、予定していた朝食のメニューを変更することにした。

 日本的な和食はパス。焼き魚も味噌汁も明日にすればいい。目玉焼きをひっくり返すタイミングを掴み掛けていただけに、少し残念だったりもするが。また明日チャレンジすればいいや、と里桜は冷蔵庫を再度漁り出した。


 家庭用としては最大サイズの冷蔵庫の中身は、整理とは程遠いくらいにゴチャついている。

 パックに詰められた肉が山ほど積まれた最上段は今にも崩れそうだし、その下も袋詰めの野菜で一杯だった。調味料も乱雑に突っ込んであって、自分の適当さに頭が痛くなる。そう言えば自分の部屋も大概だったしなぁ、と自虐的に笑った。


 そう、笑った。

 自然に。何も考えることなく、今までに感じたことのなかった感覚をそのまま吐き出すように。彼女にとっては、天変地異にも匹敵するような大事件だった。


「ふふっ、今日はどうしようかなぁ」


 明楽と交わったあの日から、里桜に劇的な変化が訪れた。

 自分の体の下でか細く泣く少年に、言葉には表せないナニかが胸を占めた。抱き締めるとそれが奔流となって溢れ出て、思考と行動が支配される感覚。自分がコントロール出来なくなるのも決して深いではなくて、むしろ身を委ねることに心地良さすら覚えてしまった。


 一通りの行為が終わった後も、冷めることのない熱が彼女を包んでいた。

 今まで味わったことのない衝動は何よりも抗い難く、理性的だと自負していた彼女の価値観やプライドの全てを薙ぎ払った。生まれ変わったと言っても良いくらいだ。

 今までの自分と決別したかのように、あの日を境に全てが一変したのだ。


「―――あ、しまった。もったいないな」


 警告音と共にヒーターがオフになる。

 こうして思いを馳せて時間が過ぎてしまうのも、かつての彼女ならあり得なかったことだ。


「そろそろ起きてくるよなぁ」


 料理はほとんど進んでいない。

 それでもいいか、と笑って、里桜は食パンをトースターに放り込んだ。




 





「今日は買い物にでも行こうか」


 マーガリンを塗っただけのトーストを頬張りながら、里桜は未だ寝惚け眼の明楽に向けて言った。


 あんな穴倉のような部屋で食事をしたくないと、美弥が必死になって片付けた図書館の一室。三人で使うには広く、片側の壁一面を占める窓からは住宅街が覗ける。出勤するサラリーマンや学生が通りを歩いていた。


「買い物ですか?」

「あぁ。食料品と、キミの服も必要だしね。他にも何か欲しいものとかないのかい?」

「欲しいものですか……いえ、僕は特に」


 トーストを千切って一口ずつ食べる明楽は、困ったような笑みを浮かべて首を振った。


 驚くことに、彼はものの数日で復活した。

 会話できるようになるまで一か月くらいは掛かるだろうと見立てていたが、彼は何食わぬ顔で部屋を出てきたのだ。ベッドで塞ぎ込んでいたことなど忘れてしまったかのように。流石の彼女も、状況を理解するまで呆けてしまったくらいだ。


「とは言ってもね。いつまでもあんな殺風景な部屋じゃあさ」


 彼との会話が可能になってから、里桜は時間をかけて慎重に整理をした。

 何せまるで別人になったかのような彼の言動は、違和感を通り越して気味悪さまで感じるほどだった。指先一つ動かすことすら拒絶していた少年が、たった二晩でかつての彼の姿を取り戻したのだから当然だ。何がキッカケでまた爆発してしまうのか分からなかった。


―――いや、そもそも取り戻したと言っていいのだろうか。


 浮かべた笑顔も、明るさが含まれた声音も、里桜を困惑させるだけだった。

 自分が望んだ事とはいえ、変化が急激過ぎた。まだ全てを確認し終えたわけではないが、実際の過去と彼の記憶は所々で解離している部分があるのだ。それはコップに張り詰めた水のようで、ほんの少しの矛盾や刺激でいつ零れてもおかしくない。

 想像し得る中で最も恐れていたことが起きてしまったのだと気付いた頃には、とっくに手遅れだった。


「せめてテレビとかパソコンとかさ。ずっと本ばかり読んでいても退屈だろう?」

「お姉ちゃんも本ばっかりじゃないですか」

「私はそれ以外もやってるさ。映画とか、他の趣味も増えたしね」


 明楽は里桜を「お姉ちゃん」と呼ぶようになった。

 雪那の事は覚えていたし、彼女が実の姉だと言う事も忘れていない。が、今は


「なら……そうですね。新しい本が欲しいです」

「だから本ばかりじゃ……まぁいいや。行ってみてから探すのも面白そうだしね」


 復学を拒んだ彼は、時間があればひたすら本を貪るように読み耽った。

 ベッドと机以外には何もない部屋か、里桜の部屋のどちらかに居るのがお気に入りのようで、外出をしたいとは思わないらしい。こうして誘わなければ、窓を開けることすら本能的に拒んでいるように見えた。


 外界との接触を拒み本の世界に没頭するのは、彼なりに精神を安定させようとしているのかもしれない、と里桜は考えていた。

 文字の世界の中だけで過ごしていれば、少なくとも思い出したくない過去からは逃げられる。そうしていつか忘れる事が出来るときまで、自分の心を延命するように文字を追うのだ。


「美弥はどうする?学校が終わってから合流するかい?」

「んー……いいですけど、私別に欲しいもんないしなぁ」

「荷物持ってほしいんだけどな」

「車で行くんですよね?私要らなくないです?」

「いいじゃないか。みんなで行った方が楽しいよ」


 美弥はしぶしぶといった様子で、仕方ないですねと頷いた。

 嬉しそうに笑う里桜に訝し気な視線を送りつつ、フォークに刺したウインナーを齧る。彼女から見れば、大きな変化があったのは明楽だけではなかった。急に人間らしくなった里桜も、表面上は元通りの明るい少年になった明楽も、気軽に触れてはいけないような気がしたのだった。


「決まりだ。四時くらいにモールで待ち合わせよう。そう言えば面白そうな映画もやってたなぁ」


 けらけら笑う里桜。

 それを見て、にこにこと目を細める明楽。


「そういえば」


 と、里桜がパンを飲み込む。

 明楽に視線を向けて、言葉に力を込めて言った。


「キミと初めて会ったのも映画館だったよね」

「……そうでしたっけ」


 覚えてません、と言いたげな明楽に、里桜は言葉を重ねる。


「そうさ。カズハがトイレに行っててさ、その隙に私が声をかけたんだ」

「カズハ……」

「憶えてないかい?キミの恋人の……桐生 和葉って女の子だ。あの時はアヤメの一件の後だったよね」

「あぁ、そうでした。カズハ、さんと。アヤメ……?」


 頭に痛みが走る。

 こめかみを抑えながら、明楽はテーブルに肘をついた。カズハという名前も、アヤメという名前も聞き覚えはある。恋人だと言われれば、確かにそうだったと思い出せる。ただそれが酷くおぼろげで、靄がかかったように記憶が霞んでいた。


「……いや、無理に思い出さなくていいよ。昔のことさ。今のキミには関係のないことだったね。ごめんごめん」

「は、い……」

「今のキミには私と美弥がいればいいだろう?私がキミのお姉ちゃんで、美弥がキミの妹だ。これからもずっと仲良く生きていけばいいさ」

「そう、ですね……」


 痛みは治まらず、ずきずきと責め立てるように明楽を襲う。

 思い出そうとすればする程、痛みは増していく。汗が滲んで呼吸が苦しく感じるようになったところで、絶え絶えに言った。


「すみません、少し横になります……」

「あぁ、悪かったね。落ち着くまで眠るといい。薬も忘れずにね?」

「はい、すみません……」


 何度も謝罪の言葉を口にして、明楽は席を立った。

 ふらふらとした足取りは見ていて心配になるが、里桜はそのまま彼を見送る。扉が閉まってようやく、ふうと大きな溜息を吐いた。


「……やっぱりだめか」

「当たり前じゃないですか。マジでぶっ壊れる寸前なんですから、あんまり刺激しないでくださいよ」

「いやぁ、どうしても気になっちゃってさ。ミヤだって色々ハッキリしないのが気に入らないんだろう?」

「それはそうですけど、これはまた別問題です。時間を掛けてゆっくりって言ったのは里桜さんですよ」


 不機嫌さを露わにして、首を竦める里桜に不満をぶつけた。

 行動と言葉が矛盾しているのもそうだが、何より彼女に明楽をどうこうされるのも腹立たしい。気まぐれみたいな言葉で彼を壊されても困るのだ。そんな事おくびにも出さないのだが、美弥の内心は穏やかではなかった。


「いいからしばらく大人しくしててください。これマジですよ!」

「分かった分かった。過去の話はやめておくよ。カズハたちの話もしないし、彼を突いたりもしない。それでいいだろう?」

「……頼みますよ、ホントに」


 何度も釘を刺して、美弥は手に持ったフォークをテーブルに放った。

 これだけ言っても、また彼女はきっとやらかすんだろうなと心の中で舌を出して。こんな口約束にはどれ程の効果もない。それは美弥が一番よく分かっていた。


(って言っても、マジで今の先輩つまんないしなぁ)


 へらへらと笑うだけの少年なんか、面白くもなんともない。

 どうせ壊れかけているのならさっさとぶっ壊して、もっと面白くすればいいのに、なんて思う自分もいた。それが自分の手によるものか、彼女の手によるものかの差はあるけれど。こればかりは譲りたくないのも確かだ。


 もやもやとする思考を振り払って、美弥はもう一度里桜に念を押しておいた。

 

 

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