3章 / 里桜I

「今こうして塞ぎ込んでるのは本当のキミかな?」


 長々とした考察を終えて、里桜は丸まった明楽に投げかける。

 意地悪く聞こえる言葉も、決して彼を追い詰めようとしているわけではなかった。

 彼女の目的は最初から変わっていない。全ては明楽を完全に手に入れるためで、それはもう目前だった。


「最初は母親。壊れる寸前だった彼女を助けるために、キミは父親として振る舞うと決めたんだ。当時のキミはそれが最善だと思ったんだろうけど……結局は母親を狂わせてオシマイだったわけだ。仮面の下で本当のキミが悲鳴を上げても、それを無視して母親に傷付けられてきた。ユキナに助けられてようやく、キミは失敗したと悟ったんだね」


 椅子に座る里桜は淡々と言葉を続けた。

 明楽は依然背中を向けたまま、否定も肯定もしない。が、無反応を貫いていた彼の体が小さく震えていた。少年の肌を濡らす汗に、彼女は笑みを深くする。


「ユキナと暮らすことになってから、キミは一度自分をリセットした。母親が望む自分から、今度はユキナが望む自分に作り変えたんだ。幼い頃から自分自身を殺し続けたせいで、本当の自分を失ったんだよ。そりゃそうだよね、人格形成期の後半から毎日極度のストレスに晒され続けたんだから、逃避の為に別人格を作り出しても不思議じゃない。いわゆる解離性障害のひとつだね。自分じゃない「誰かのための自分」を維持しなければ、壊れてしまうと思ったんだ」


 彼女は一つ一つを紐解くように、ゆっくりと少年に語り掛けた。


「アヤメが望んだキミは、切り刻まれようが殺されかけようが構わなかった。それでも逃げ出そうとしたのはカズハが望むキミが邪魔をしたからだ。深く関わる人間が増えれば増えるほど、切り替えが上手くいかないときがあったんだろう」


 性格や言葉遣いなど、基本的な部分は変わらない。

 が、言動や思考がまるで別人のようになってしまうケースが見受けられた。注意深く観察していなければ分からない程度ではあるものの、気付いてしまえば疑問を持つには十分な変化だ。


 ちらり、と美弥に目を向ける。

 ベッドに腰かけた彼女は口を挟む様子もなく、ただ黙って話を聞いていた。

 彼女の本心はどうであれ、今はまだ利用価値のある少女だ。不要になるまでは―――邪魔をしなければ、まだ使ってやってもいいだろう。たとえ少年が眠るベッドに座り、我が物のように彼に触れていても。


「カズハだけはキミの事に気付いていたのかもしれない。だから過去を全て無くして、タクミだなんて名前を付けてやり直そうとしたんだ。柊木 明楽がもう手遅れなら、新しいキミと生きていこうってさ」


 意識を明楽に戻して、止まっていた話を続ける。

 和葉だけは唯一、彼の精神的な欠陥を理解していた。菖蒲の一件で危機感が加速して、あのような暴挙に至ったのだ―――とはいえ、彼女の行動は間違ってはいなかったと里桜は思っていた。


「実際、良い手段だったとは思うよ。ああでもしなければキミと生きていくなんて土台無理な話だからね。どうせまた誰かに望まれたキミが生まれて、カズハから離れてふらふらするんだから。それなら全部リセットして、全く違うアキラに作り変えようって方が現実的だ。その手段も経験も彼女にはあったんだから」


 それはそれで困るんだけどさ、と里桜は苦笑した。

 和葉は一貫して明楽の事を愛していて、最後まで彼と生きていく事を考えていた。その過程で傷付けることになっても、より良い未来が待っているならと心を鬼にして。例え明楽が変わってしまったとしても、彼のいない人生は考えられなかったのだ。


「とまぁ、色々あったけどさ。結局もうカズハもユキナもいないわけだし。アヤメもどっか行っちゃったし」

「…………」

「キミの中に残ってるのはあと何人だい?今こうしているキミは誰のためのキミかな?」


 和葉と雪那が死んで、彼女たちの求めた柊木 明楽は消えてなくなった。

 里桜の考えでは、あの時点で全て空っぽになったはずだった。であればと、リスクを承知で美弥を送り込んだのは保険の意味があったのだ。


 もう一度美弥を見る。

 つまらなさそうにしていた彼女に向けて問いかけた。


「ミヤ。キミはあの部屋で、彼になんて言ったんだい?」

「え?」


 まさか話を振られるとは思わず、美弥は間の抜けた声を上げた。

 

「カズハの部屋でさ。死んだ二人の傍で、少年に何か言ったんじゃないかな?」

「あー……言いましたね。全部先輩のせいだーってめっちゃ言いました。ぶっ壊れた先輩可愛いとか、死んじゃえとか、私が守ってあげるとか……」

「それは中々……酷いことを言ったね。でもまぁ、それを聞いて確信したよ」

「はい?どういうことです?」

「今の少年のことさ。キミの言葉通り、で、ってことだよ」


 けらけらと手を叩いて嗤う里桜の言葉に、美弥はようやく納得がいった。


「あぁ、だから……。先輩がホントは悲しんでないとか、心がないとか全然話が繋がってこないなぁって思ってました」

「そういうことさ。今の少年は、ミヤに言われたように―――ミヤが望んだ柊木 明楽になってるだけだ。カズハたちが死んだから悲しんでいるんじゃなく、ミヤがそう言ったから悲しんでるんだよ」


 二人が死んで空っぽになった時点で、明楽は新しい自分を求めた。

 部屋で蹲っていたのは、彼女たちが死んだからではなかったのだ。

 望まれた自分がいなくなって、どうしていいか分からずにいただけ。悲しいなんて感情は欠片もなかった。幼かったあの頃のように、ただ膝を抱えるしかできなかったのだ。


「だからあの時、先輩と会話にならなかったんですね。なんか目もぼーっとしてて、泣きじゃくってあうあう言ってただけでしたし」

「ミヤが言った言葉に縋って、今の少年が出来上がったんだろうね。でもこれじゃあ……ホントに死んじゃったら意味無いからさ」


 頬に手を当てて、小さく唸る。

 美弥のための明楽も良いが、彼女の言葉通りにしたままでは本当に死んでしまう危険がある。実際にその通りに振る舞うなんて……と思って、ふと沸き上がるナニかに気付いた。


「ふふ。そうだ、最初っからそうしておけば良かったね」

「……なんです?」

「ミヤが望んだ少年がいるなら、私が望んだ少年を作るしかないなって事さ。あんまり人格を増やすのは良くないと思ってたけど……この際仕方ないよね」

「えー、このままでも可愛くないです?」

「その結果死んじゃったらダメだろう。なに、二人分くらいなら混在していても問題ないさ」


 あはは、と声を上げて、里桜が椅子から立ち上がる。

 犬を払うように美弥に手を振ってみせた。ベッドから降りろと言うことかと、彼女は大人しく従うことにした。不満げなブーイングの一つでも言ってやろうかと思ったが、はーいと返事をして空いた椅子に腰かける。


(あれ、なんか雰囲気違う?)


 言わなかったのではなく、言えなかった。

 ベッドに上がり、明楽の肩を掴んで仰向けにさせた里桜は、普段とは違う表情を浮かべていた。


「私の求めるキミがまだ出来上がらないのは、その必要がないとキミが思ってるからだ」

「…………」

「必要になるにはどうすればいいと思う?」


 明楽は何も言わない。

 相変わらずぼうっとした目で、自分に跨る里桜を見上げていた。


「……なんか、大丈夫です?里桜さん感じ変わってません?」

「大丈夫さ。私は問題ないよ。うん、問題ない。問題じゃないんだよ、これは」


 明楽を見下ろしたまま、美弥に一瞥もせずに返事をする。

 初めて里桜らしくない言葉を聞いたと、美弥は息を呑んだ。










 人の心も、人間らしい感情も理解できなかった。


 理解できないものは知りたがるタチで、長い時間をかけてようやく知ることはできた。それでもただ知っているというだけで、それを感じたことも理解できたこともなかったけれど。


 求めて求めて―――それはようやく私の手の中に至った。


 少年の顔の両脇に手をついて、じっと見下ろす。

 彼は抵抗しない。したとしても、こんな枯れ枝のような細い腕では私は止められない。というか、今は何がどうなってもブレーキを掛けられる自信がなかった。


 頭では理解していたことが、私の中に生まれたナニかに邪魔をされる。

 私の目的は彼を利用して心を理解すること。そのために大金も叩いたし、唯一と言っていいほどの友人も唆して殺した。

 確かに彼にはシンパシーを覚えていたけれど、少年と感情の理解という目的を天秤にかけたとしたら、私は迷わず少年を切り捨てるだろう。好意的には思ってたけど、それは利用価値があったから。それくらいにしか思ってなかったのに。



―――というのに、一体これは何なのだろう?


 

 少年が死んでしまうから仕方ない、と大義名分が出来た途端、心拍数が上がったように感じた。

 続いて、上気する頬。顔が熱いと思ったら、今度は呼吸までおかしくなってきた。熱っぽい息を自覚したら余計に体が熱くなってきて、座っていただけの私は運動した後みたいに息を弾ませていた。


「問題ないよ。仕方ないからさ……ホントだよ。こんな趣味はないんだ。アヤメやカズハじゃあるまいし」


 誰に言い訳しているんだ、と頭の中で客観視する私がいる。

 視線は少年から離せないでいた。脇見することも、瞬きすらしたくなかった。


「なぁ、いいだろう?私の望むキミが一人くらいいてもさ」


 彼が人格を作る条件ははっきりとは分かっていないが、ほとんどは逃避がキッカケになる。つまり強いストレスをかければ、私が望む少年が発現する可能性があるということだ。


 少年の細い腰に跨って、ゆっくりと距離を潰していく。

 覗き込むように顔を下げれば、またばくばくと心臓が強く鼓動した。息はどんどんと荒くなって―――あはは、と笑い声が耳に入った。私は自然と嗤っていたのだ。頭で考えて表現したわけでなく、本当に自然に。初めての経験だった。


「くは、はははは……なんだこれ。すごいよ。理解できないね」

「…………」

「カズハもユキナもこんな感じだったのかな?……なら、彼女たちの行動も理解できるよ。これは無理だ。抗う気すら起きないね」


 理屈も何もかもを捻じ伏せて、腹の底から沸き上がる衝動が体を突き動かす。

 あぁ、と唸って、やっと私は受け入れ始めた。これが感情ってやつなのかもしれないと思えば、この激情にその身を任せるのも悪くない。ただ一人興味を持った少年が、私の願う通りになるのだと頭を過っただけでこれだ。


「あは、やっぱり私は間違ってなかった。キミを知った時から……あの映画館で会った時から、何か違ってたんだ。今の今までコレが何か分からなかったけどさ。今なら分かるんだ。歓喜に欲情に……あぁ、嫉妬もだ。今までキミを独占してた彼女たちが憎くて仕方ないよ」


 最初は小さな違和感。

 今はその違いがはっきりと分かる。これが好きとか、そう言ったモノなのかは置いておくとして。ただ今はカズハやユキナが羨ましくて、ミヤの望んだキミであることが疎ましく思う。そんなの許せるか、と心の底から思う。頭で考えるまでもなく、反射的にそう思うのだ。


 となれば、やることは決まっている。

 一度理解してしまえば、迷いがないのが私の良いところ。目的の為なら手段を選ばないのも。


「分かるだろう?キミの家族も恋人はもういない。死んだんだ。殺してやった。邪魔だからね。過程がどうあれ、今キミは私の手の中にある。生かすも殺すも私次第なんだから、媚び売らなきゃいけないのは誰だが分かるはずだよね?」


 ぐっと顔を近づければ、甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

 その香りがまた私の体を熱くさせた。自分の体だというのに、今はもうコントロール不能だ。それすら気持ち良いと感じれるのだから、今までの私はなんだったんだと笑いたくなった。


 視線は彼の瞳に。

 虚ろで、私の話を聞いているのかと不安になるが、今はこれでいい。まだ私の望む彼ではないから。私だけの柊木 明楽が出来上がってその時、私を見てくれればいい。

 利用価値なんてもうどうでもよかった。ただ今は、少年が欲しくて仕方がない。

 こんな気持ちを生ませる彼を手放したくなかった。


「私に彼女たちのような趣味はないからね。今回だけだ。いや、もしかしたらまたやるかもしれないけど……少しハードにしてしまうかもしれない。構わないよね?今までもそうだったんだしさ」


 安っぽいTシャツの襟を掴んで、力任せに破いてやる。

 浮き上がった鎖骨にあばら骨。白い肌に刻まれた傷すら艶っぽく感じてしまう。と同時に、ずるいと思ってしまった。私がしてないことを、彼女たちがしてきた証なのだ。


「ん……、ふふ。ああぁ、良いよ。素晴らしい。人の肌ってこんな味なのか。癖になりそうだ」


 古傷を舌でなぞって、ゆっくりと味わっていく。

 ほんのりとした熱を感じて、汗のせいで少し塩っぽく残る味が生々しい。何もかもが初めての経験は、より一層私を興奮させた。


 ぺろりと下で唇を湿らせて、私は汗を吸ったシャツを脱ぎ捨てる。

 私の胸を覆う飾り気のない下着に嫌悪感。なるほど、だからみんな可愛いのを買うんだな。少年に晒すには少し気恥ずかしくて、まとめて放り投げた。次はもっと良いのを着ようと心に決めて。美弥辺りに訊けばいいか。


「なにぶん初めてだから不手際があるかもしれないけどさ。いいよね?これから腐るほど時間はあるんだし、色々試していこう。私たちには……ふふ、私たちだってさ。あはははっ」


 少年の胸の上で、けらけらと笑う。

 楽しくて仕方がない。嬉しいし、素肌に感じる体温が愛おしい。長い間求めて、やっと気付けたものなのだ。心を埋め尽くす衝動をそのままに、私は彼の唇を奪った。


「早いところ私のモノになったほうがいい。キミに選択肢なんてないんだからさ」


 犯すだけでは足りないかもしれないと、また頭の中で言い訳を呟いて。

 私は少年の髪を掴んで、震える首筋に歯を立てた。

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