3章 / 明楽III / 少年の本心


 母さんはずっとずっと泣いていた。


 机に突っ伏して暗い部屋で一人泣き続けた。

 僕には目もくれず、ただひたすらに。昼も夜もなく、空腹も乾きも忘れて泣いていた。

父さんに捨てられたと恨めしそうに呟いては、何度もテーブルを叩く。その音に怯えながら、僕は積み上げられた段ボールの隙間で眠った。何日も何日も。


 僕は必至になって考えた。

 自分の置かれた状況云々というよりは、母さんを何とか助けたかった。

 優しかった彼女の目には僕が映っていない。光のない瞳を濡らして、父さんの面影を追いかけているだけ。それが嫌で嫌で仕方がなかった。大好きな母さんが僕を見ていないということに耐えられなかったのだ。


 じゃあ、と僕は思った。

 まだ幼かった僕の思考は単純だった。

 母さんは父さんの事を愛している。でも今は離れ離れになってしまって、それが母さんを苦しめている。僕は父さんに似ている。となれば、行き着く答えは簡単だ。


「ぼくが父さんのかわりになるから」

 

 今でもよく覚えている。

 忘れられるはずがない。あの日から僕は狂った。

 決して軽はずみな言葉のつもりはなかったけれど、その一言の重みをまだ理解していなかったのだ。それが何を意味していて、何を招くのか。覚悟もないまま、ただ母さんを元気にしてあげたい一心だった。


 それが、僕の人生最大の過ち。









 もともと母さんは精神的に脆いタイプで、その上好きになった相手に依存する癖があった。

 とは言っても常識はしっかり持ち合わせていたし、近所付き合いも問題はなし。父さんと二人きりになると暴走しがちだったらしいけれど、外面は保っていて「柊木さんちの綺麗な奥さん」と評判だった。

 ともあれ、確かに問題はあったけれど、自分の息子に欲情するのを良しとする人間ではなかったのは確かである。


 初めはそんな素振りすら見せなかった。

 僕の言葉に複雑そうな表情を浮かべはしたものの、あれ以来母さんは笑顔を取り戻した。部屋を片付けて、仕事に行くようになった。料理もするし、お風呂にも入る。ただ一つ気がかりだったのは、僕を外に出したがらなくなったことくらい。


「学校はしばらくお休みしようね?」


 母さんは僕を部屋から出そうとしなかった。

 優しげなあの笑顔を浮かべて、強く肩を掴んで言うのだ。

 理由も言わず、訳が分からないまま僕は頷く。疑問はあったけれど、母さんがそう言うなら仕方なかった。そうして欲しいなら、そうする。父さんもそうだったから。


「一緒にお風呂に入ろうか」

「今日は同じベッドで寝ようね」

「今日はお休みだし、ずっと一緒にいましょう?」


 僕は嫌な顔一つせず、母さんの言葉を受け入れる。

 お休みのキスも、おはようのキスも。初めは軽かったそれも、次第に熱を帯びていくようになった。一か月が過ぎる頃には、体のどこかに必ずキスマークがついているのが当たり前になっていた。


 そしてある日。

 いつものように同じベッドで眠る前、母さんは僕をじっと見て言った。


「ねえ、明楽。お母さんの事、好き?」


 好きだよ、と答える。

 本心だった。が、もちろん息子として、家族としてである。

 この時は、自分が父さんの代わりになるなんて言葉はすっかり忘れていたのだ。母さんの言葉の真意も、日ごと濡れていく視線の意味も分からずに、僕は簡単に答えてしまった。自分のやってきた事がどういうことか、分からずに頷いた。

 結局のところ、火種を点けたのも引き金を引いたのも、幼くて愚かな僕だったということだ。


「じゃあ、いいよね?」

 

 何を、と言う前に、母さんが僕に圧し掛かる。

 同年代より小さな体躯の僕が、成人女性の母さんに抵抗できるわけもなく。


 母さんは嗤いながら、僕の体を蹂躙していった。









「明楽……ああぁぁ、あきら。ごめんなさい。私……っ、だって、あなたが……!」


 コトが終わった後、母さんは酷く泣きじゃくった。

 何度も何度も行為を重ねて、朝日が昇ってようやく気が済んだようだ。

 体は重いし、べとべとで気持ちが悪い。よろよろと疲れ切った体を何とか支えて、僕は母さんに向き直る。


「どうして泣いてるの?」


 泣きたいのは僕の方だ、と思った。

 母親とその子供でするコトじゃないのは、いくら幼くても分かる。

 あんなにも止めてくれと懇願しても、手足をバタつかせて抵抗しても、母さんは全てを無視して嬲った。滑った舌を這い回らせて、掴んだ手首を押し付けて、欲望のままに食らい尽くした。あれだけ嗤っていたのに、終われば今度は泣き出すのだ。訳が分からず、僕は呆気に取られていた。


「ごめ、っ、ごめんなさい……」


 ぼろぼろと大粒の涙を零す瞳が、僕をじっと見据える。

 何度も謝る母さんを見て、僕は朧げながら理解し始める。勝手な解釈だったかもしれないし、全くの勘違いだったかもしれない。けれど、僕は自分で納得することにしたのだ。


「いいんだよ、おかあさん」


 僕は父さんなんだから、謝ることじゃない。

 夫婦ならおかしいことじゃないのだから。


「ごめんね。僕よく分かってなくて……でも今度はがんばるから、泣かないで」


 僕が「明楽」のままだったから、上手くいかなかった。

 「父さん」になりきれていれば。しっかりと演じることが出来なかったから、母さんは悲しんだ。息子に酷いことをしたと自分を責めてしまったのだ。


「ちゃんと父さんになるから、泣かないで……」


 「明楽」という自分をどこかにやってしまえばいい。

 もっともっと、母さんが望む「父さん」にならなければ。本気で、僕はそうしなければと思った。明楽じゃだめなのだ。明楽のままでは、母さんは泣いたままだから。父さんじゃなきゃ笑ってくれないのだから。


 僕は笑った。

 自分の母親に凌辱されて、傷付けられても。

 ただ笑って、母さんの名前を呼んだ。今度は失敗しないように、自分の意識を切り離すように。僕の知っている父さんを全力で演じてみせた。


 僕の中に知らない人が生まれたのは、この頃からだ。









 母さんが僕を見る目は、日に日に複雑になっていった。


 常識はある人なのだから、自分の中で噛み砕けないことが溢れてしまったのだろう。息子として愛さなければと思う反面、その息子は愛する夫として振る舞うのだ。ただでさえ追い詰められていた母さんは簡単に壊れてしまった。いや、


 母さんは僕の事をどう思っていたんだろうか。

 愛する夫への想いは抑えきれなくて、夫として振る舞う僕に甘えてしまう。けれど息子にそんなことはしたくないと、自己嫌悪が彼女を押し潰す。まるで麻薬のような多幸感と中毒性のある息子が、家に帰れば笑って出迎えるのだ。


 夫のフリをする息子を、嫌悪感に浸りながら犯す。

 抑えきれない想いをそのままぶつけて、笑って抱き締める彼に愛していると囁く。

 終われば今度は吐き気すら覚える自己嫌悪が彼女を責め立てた。いっそのこと泣き喚いて拒絶してくれたらと思っても、僕は笑顔で母さんに応えた。それがまた、僕を犯すきっかけになった。


「いやぁっ、もう……ごめんなさい、私……っ、ごめ、んなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」


 ダメだと思っても、どうしても求めてしまう。

 それを誘うように笑う僕が、家に帰れば出迎える。母さんが家に寄り付かなくなるのも当然だった。


 母さんがいない間は、僕の中は「明楽」が顔を出す。

 「明楽」はとても弱かった。もう嫌だといつも泣いていた。犯されるのも、暗い部屋も、お腹が空くのも全てが苦しかった。泣き疲れて眠るのが本当に怖かった。何より母さんが帰ってきたとき、また「父さん」にならなきゃいけないのが悲しかった。


 姉さんが僕を助けに現れたのは、「明楽」がほとんど擦り切れた頃。

 

 この時はもう、本当の「明楽」がどんな人間だったのか分からなくなっていた。






 


 

 母さんと引き離されて、姉さんと暮らすことになって。


 初めはどうしていいか分からなかった。

 なにせ「父さん」はもう用済みで、今さら「明楽」として生きていけと言われても困ってしまう。僕の中心に彼が戻ってきたときには、言葉すらマトモに話せなくなっていた。それくらい僕は―――「明楽」はズタズタに傷付き果てていたのだ。


 姉さんの勧めでカウンセリングに通うようになって、数年で言葉を取り戻した。

 とはいえ、僕は「明楽」を取り戻したわけではなくて、僕の中でじっと蹲る「明楽」の代わりを立てただけだったりする。


 姉さんが望む僕はシンプルだった。


 礼儀正しく、反抗的な面を持ち合わせていない、従順で大人しい弟。

 言いつけを守って、姉さんを優先するように行動すればよかった。まだ一緒に暮らしていた頃を思い出せば簡単だったのだ。姉さん姉さん言っているだけで彼女の望む僕は完成したのだから。


 膝を抱える僕を心の奥底に押し込めて、姉さんの求める「明楽」を演じる。


 こうすればいいんだ、と僕は思った。

 誰かに望まれるがままに振舞えば、本当の僕は顔を出さずに済む。望まれた「明楽」を演じていれば、僕の中心はそいつが居座る。傷付いてボロボロで、死にたくなるような「明楽」は心の奥底で眠っていられる。それだけで十分だった。というより、そうしなければ生きていられなかった。


 学校に復帰してからは、それはそれで大変だったけれど。


 姉さんが望む僕。

 和葉さんが望む僕。

 黒川先輩が望む僕。

 友人が望む僕。


 僕の中で色んな「明楽」が目まぐるしく入れ替わっていく。

 混乱することも多くなった。自分が分からなくなって、演じることが苦痛になっていく。それでも、本当の僕は眠ったままだった。

 それはそうだ。彼が起きてしまえば、きっと僕は死にたくなる。

 母との記憶も、黒川先輩や和葉さんとの記憶も。本当の僕が受け止めるには重すぎるのだ。


(今さら、なにが……)


 母はもう二度と会えない。

 姉さんも和葉さんも死んだ。黒川先輩だって、もうどこにいるか分からない。


 今の僕の中は、本当の「僕」しかいないのだ。

 それが堪らなく苦しくて、何よりも悲しくてしかなかった。

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