3章 / 明楽II / 美弥II

 明楽の母親はとても優しかった。


 家族全員で暮らしていた頃は、彼の前では声を荒げたこともない。

 年齢を感じさせない若々しい容姿と相まって、明楽は母親に対して「綺麗で優しい」といったイメージが強かった。だから彼も母親には甘えっきりだったし、それを笑顔で受け入れてくれる彼女が大好きだった。


 幼稚園に上がる頃には、なんとなく家族の中が悪いのだと気付いた。

 にこやかに振舞う母親も、彼のいないところでは夫や姉に牙を剥く。夫に過保護を指摘されれば喚き散らし、雪那への態度を咎められれば暴力に訴える。


 雪那に対してもそうだった。

 共働きである以上、明楽と離れる時間はどうしても生まれてしまう。

 家に帰るまでの間、彼を世話したのは雪那だった。彼女も明楽を可愛がり、親から与えられない愛を弟から受け取ろうとしたのだ。

 母親と姉の確執になど知りもしなかった明楽が、雪那に懐くのは当然だった。


「お父さんとお母さん、どっちが好き?」


 とある休日の午後に、母親は明楽にそう尋ねた。

 父は姉と共に出かけており、家には明楽と母の二人だけ。この頃になると、休日のほとんどはこうして分かれて過ごすのが当たり前だった。

 それに違和感を覚えなかったのか、と訊かれれば、当然感じていたに決まっている。週末は父と姉が家に帰らない事も多かったが、不思議に思っても口にすることはなかった。


「おかあさん!」


 そう答えた明楽に、母は心の底から喜んだ。

 抱き締め、頬擦りして、片時も離れようとはしない。

 明楽もそれが単純に嬉しかった。姉も好きだが、母親はもっと好きだった。自分を好意的に思ってくれない父と比べるべくもない。


 そうして、明楽は母親を選んだ。

 離婚はそれからすぐの事。父は母を見限り、半ば強引に別居を進めた。明楽を選んだとはいえ、母は夫を愛していたのだから、この時は揉めに揉めた。聞いたことのない罵詈雑言と容赦ない暴力。明楽が初めて母の本性を見た瞬間でもあった。


「僕はずっとおかあさんと一緒だから」


 遠く離れたマンションへ引っ越し、ストレスで仕事もままならない母へ向けた言葉。

 幼かった明楽の本心だ。部屋で泣いてばかりいた母を元気付けようと、明楽は笑顔でそう言った。


「僕がおとうさんのかわりになるから!」


 あぁ、なんでこんな事を言ったんだろう、と明楽は今でも後悔している。

 今にして思えば、この一言が引き金だった。この言葉を聞いたときの母は、絶望のどん底で希望を見つけたような表情を浮かべていた。彼女にとっての青天の霹靂だったのだ。


「ほんと?」

「うん」

「ホントに、いいの?」

「いいよ!」


 母はまた泣き崩れた。

 泣いて、明楽を抱き締めた。力いっぱい熱の籠ったそれは、今までのものとはまるで意味が違う。そんな事にも気付かず、明楽は嬉しそうに笑って母の背に小さな手を回した。お母さんが元気になってくれて嬉しい、と本気で思っていたのだ。この時は。



―――自分の言葉が招いた結果を知るのはこの数日後。

 


 熱っぽい息を弾ませた母に、明楽はどうしていいのか分からなかった。









 夏も終わり、残暑も和らいだ秋。


 私は鼻歌混じりに帰路についた。

 友達の誘いも断って足取り軽く駅の方へ。すれ違う人が怪訝そうに私を見るけれど、そんなの気にもならない。定期券をかざして発車寸前の電車に飛び乗った。


 先輩を連れ帰ったあの日。

 私にとっても、かなりのターニングポイントとなった。

 次の日に生徒会を辞め(散々引き留められたけど、泣き落としで一発だった)、しばらくは里桜さんの家に寝泊まりすることにした。

 両親は超放任主義のため、文句どころか「そうか」の一言で終わってしまった。いいんだけど、それはそれでなんか悲しくなる。ともあれ、家に帰れば先輩がいるっていう新生活がスタートしたのだ。


 二駅で降りて残りは徒歩。

 十数分も歩けば、目的の図書館が見えて来る。無駄に豪華で、無駄にボロい。

 住んでみて分かったけど、里桜さんは自分の居住スペース以外は本当に適当なのだ。掃除はしないし、埃まみれでも放っておく。耐えかねた私が業者を呼ばなければどうなってたことか。


「せーんぱいっ」


 仰々しいドアを開け、真っ先に先輩の部屋に向かった。

 早足で階段を登り、角の部屋をノックもせず開ける。中は六畳程の広さに、ベッドと椅子が一つずつ。あまりにも質素な風景だった。


 ベッドには先輩が相変わらず丸くなっていた。

 そのすぐ傍には椅子に座る里桜さん。足元に積み上げられた本を見るに、ずっとここにいるようだ。先輩が目を覚ましてからほとんどの時間をここで過ごしている。なんて言うか、ずるい。


「やぁ、ミヤ。おかえり」

「ただいまです……ご飯、食べました?」

「食べたよ。今日はうどんにしたんだ」

「じゃなくて、先輩です。里桜さんのご飯とかどうでもいいし」


 あはは、と渇いた笑みを見せる。

 笑い声っていうよりは、笑い声を言葉にしている感じ。ホント不気味な人だけど、一応家主だし。愛想笑いだけ浮かべておいて、私は先輩の眠るベッドに腰かけた。


「点滴は打っておいた。けど、そろそろ食べて貰わないとねぇ」

「無理矢理捻じ込んじゃえばいいんですよ。とりあえず胃に入ればいいんだし」


 年上のくせに手間のかかる人だ。

 一日中いじけて、せいぜい寝返りをうつくらいしかすることがない。私か里桜さんが引き摺らなきゃトイレもいかないんだから、困ったものだ―――なんて思っていても、内心はそれが楽しかったりする。


 だってあの先輩が私の手を借りなきゃトイレにもいけないなんて。

 ぼろっぼろで、たまにしくしくと泣いたりしている。小突いても髪を引っ張っても何の反応も見せないくらいに、心も体も擦り切れていた。


 私より何倍も綺麗で権力もお金も持った女たちが、欲しがって堪らなかったあの男の子。

 それが今私の手の中にあって、生かすも殺すも私次第……まぁ里桜さんも、だけど。とにかくそんな現実が手元にあれば、日々が楽しくない訳がないのだ。


「吐かれたら意味がないんだけどね」

「吐かせなきゃいいじゃないですか」

「まぁそうなんだけどさ。どうせ食べるならもっと根本的な……自分で食べてくれたら楽なんだけど」

「はぁ?無理ですよ。こんなんじゃ死ぬまでこのまんまでしょ」


 こつん、と先輩の頭を突く。

 当然のように完全無視。少しだけイラっときて、もう一度突く。今度は強く。頭がぐらりと揺れたけれど、反応らしい反応は見せてくれなかった。


「ほら。死んでるんじゃないんですか?」

「生きてるよ。まぁ……流石にもう演技する必要はないとは思うんだけどね」

「は?」

「演技。言ったろ。私と少年は似てるって。家族が目の前で死んだくらいで、本当にこの子がショックを受けていると思ってるのかい?」


 何言ってるんだろう、って感じ。

 言葉の意味が分からなかった。そもそも先輩と里桜さんは似てないし―――というか、現にこうして心に傷を負ってるからボロキレみたいになってるわけで。

 けれど、里桜さんはそれを演技だと言う。

 こうして食事も水も自分では取らず、ひたすら丸くなっているのも?

 体はがりがりで、少しでも目を離せば死んでしまいそうなくらいに衰弱しているのも?

 そこまで自分を追い詰めることが演技だとは、どうしても思えなかった。


「ははは。まさか。この子が傷付くわけないだろう」

「や、だって。死にかけてるし」

「それも含めてさ。じゃぁ、その根拠について少し話そうか」


 先輩に聞こえるように、小声だった里桜さんの語気が強まっていく。

 その様子は楽しそうで、まるでずっと言いたかったかのようにうずうずしていたふうに見えた。


 手に持った本を閉じ、床に放り投げる。

 背表紙から落ちて、本の山に埋もれていった。


「結論から言えば、彼はユキナやカズハが死んだことに対して傷付いてなんかいない。何なら心の奥底では何とも思っていない。正確には『傷付かなきゃいけない』と思い込んで、そういうふうに振舞っているだけなんだよ」

「……マジ意味分かんないです」

「それを説明するよ。どこから話そうかなぁ」


 言って、里桜さんは足を組んだ。

 顎に手を当てて、何かを考えるような仕草を見せた。彼女が思案するときの癖だ。数秒ほど間を開けて、少し弾んだ声音で語り出す。


 先輩の小さな背中が、僅かにぴくりと動いた気がした。

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