3章 / 明楽I

 目が覚めてすぐ、激しい頭痛に眩暈を覚えた。


 こめかみを抑えて体を起こす。

 眠っていた、というよりは気を失っていたのだろう。思考ははっきりとしていて、最後に見たのは燃え盛るベッドと横たわる女性二人。曖昧な記憶はすでになく、あの二人は―――と考えて、腹部に激痛が走った。体の中身が捩じ切れるような感覚に、涙を零しながら嘔吐した。


 腕に刺さった針。

 そこからの伸びるチューブに、液体の入ったパック。

 誰かが自分を生かそうとしているのは分かった。多分、あの時部屋に来た少女。名前はなんだっけと考えて、どうでもいいやと寝転がる。乱暴に針を抜いて放り投げた。


 目が覚めてからずっと、明楽はベッドの上で膝を抱え続けた。

 安ホテルの一室のような簡素な部屋は今の彼にとってはありがたかった。今は何も見たくないし、聞きたくもない。鉛のような倦怠感が余計に思考を放棄させる。部屋に窓はなく、時間も分からない。ベッド以外は何もない部屋だったが、そもそも外に出ようということすら考えなかった。


 ただひたすら。


 丸くなって、ぴくりとも動かなかった。

 空腹も感じないし、喉も乾かない。というよりは、何も感じられない。

 お腹は減ってるのだろう。ぐうぐうとなってばかりだし、唇はぱりぱりと渇いている。何時間そうしていたのかは分からないが、このままでは死んでしまうのかな、と頭を過った。


(それでもいいか……)


 一番新しい記憶は男に抱えられて部屋を出る瞬間。

 暴れる気力もなくて、華奢な体は簡単に肩に担がれた。部屋に撒かれた灯油に点けられた火は瞬く間に燃え上がり、床や壁を燃やしていく。

 その中心。大きなベッドに横たわった姉と、その脇で背中を壁に預けた恋人の姿は忘れもしない。

 彼女たちを包み、天井まで届くほど勢いを増した炎が焼いていく様は、明楽の脳裏に嫌というほど焼き付いている。目を瞑ってもその光景が瞼の裏で何度も再生されるのだ。

 あの瞬間では曖昧だった記憶も、今は完全に戻っている。

 何もできなかった自分と、それを招いた自分が酷く恨めしかった。


(あの子が言ってた通りだ)


 不意に現れた少女。

 ピンク色のカーディガンに、通っていた高校の制服。毛先を緩く巻いたボブカットの茶髪には見覚えがなかったが、あの甘ったるい声には聞き覚えがある。


 彼女の言葉は辛辣そのものだった。

 全てお前のせいだと、お前がいるから狂ったんだと言ってのけた。違うと反論したい気持ちの反面、心のどこかで「あぁ、そうだよね」と自覚している自分に気付く。そんな事分かっているのに。最初から全部、自分が悪いことくらい。


 始まりは母親との生活から。

 いや、その前からだ。家族四人で暮らしていたときから、少しづつおかしくなっていった。原因は言うまでもなく。


(……僕のせいか)


 父をとても愛していた母。

 長女が生まれ、父に愛される自分以外の女を嫌悪した彼女が、父の面影を持った明楽に執着するのは当然だった。長女が生まれて以降、すれ違いを続けている夫より遥かに愛おしい存在。夫と自分の遺伝子を受け継いで、自分がいなければ生きていけない最愛の息子。その意味が今ならよく分かる。


 母に疎まれ、ギスギスした家庭の中で雪那が唯一心を許せる相手だったのも自分。

 誰かに傷付けられた過去を持つ菖蒲は、同じ傷を持つ自分にシンパシーを覚えた。

 人間の後ろ暗さを知る和葉は、そんな自分を純粋に前を向いて生きる少年だと思った。特殊な環境で生きてきた彼女にとっては、自分を傍に置くことで自我を保とうとした。人として普通に恋をして生きていこうと必死だったのだ。


 

―――それじゃあ、僕は?



 傍目から見れば、彼女たちに翻弄され続けた少年。

 けれどただ世界で一人だけ、自分だけは、そうではないと知っていた。









「や。起きたみたいだね」


 金髪を揺らめかせ、里桜はノックもなしに部屋に入った。

 ベッドで横たわる明楽をじろじろと無遠慮に眺める。抜かれた点滴を見て、肩をすくめて見せた。


「食べてないんだから、点滴は打っておかないと。それとも食事は取れそうかい?」


 明楽は無視した。

 ぴくりとも反応せず、ただ黙って膝を抱えている。そんな態度にも害された様子はなかった。


「それ以上体重減ったら死んじゃうよ。キミには色々訊きたいこともあるんだからさ」

「…………」

「あぁ、構わないよ。無視されるのも想定の内だ。それとも失声症の再発かな?どっちにしろマトモな反応は期待してないからね。今は時間をかけて心と体を治すといいさ」


 シングルサイズのベッドに腰かけると、里桜は丸くなる明楽の髪を撫でた。

 前髪の隙間から光の無い瞳が垣間見える。目の周りは隈が酷く、ただでさえまともに食事を取れていなかった彼の体は瘦せ細っていた。意思の疎通が出来ないとはいえ、平均体重をゆうに下回っている明楽をこのままにしておけない。


「本当は検査も受けて貰いたいんだけどね。まぁ、それは追々やろうか。一応自殺防止の為に監視はさせてもらうし、危険のあるものは与えられない。点滴を抜くのもだめだ。鬱陶しいだろうけど我慢してくれ」


 点滴のバックを変え、少年の腕を取る。

 僅かに抵抗らしい力が込められたが、何の障害にもならなかった。慣れた手つきで血管に針を差し込むと、里桜は小さく頷く。泣き喚かれたりしないだけでも大助かりだった。


 ごろり、と仰向けになる明楽。

 天井の一点を見つめ、里桜の方を向こうとはしない。彼女がいることすら認識できていないんじゃないかと思うくらい、ただただぼうっと息をしているだけ。


「美弥がさ」


 腰かけたまま、里桜が言った。


「あの夜、言い過ぎたと反省していたんだ。なんでも全部キミが悪いんだって言われたそうだね?」

「…………っ」

「あの場で言うべきでなかったんだろうけどさ。まぁ、事実だしね。それはキミも薄々気付いてるんじゃないのかい?」


 ほんの少し、明楽の顔が歪む。


「実はあの日、マコトと会っていてね。キミと私が似ているって話をしたんだ。同類っていうのかな……私には人の心も分からないし、人間らしい感情も全くの希薄だけどさ。だからかもね、キミも実はそうなんじゃないのかなって思ってるんだ」


 顔は天井を向けたままだが、明らかに意識が彼女の方へと向くのを感じた。まさか反応があるとは思わず、里桜は煽るかのように言葉を続ける。


「確かにキミは感情豊かだ。よく笑うし、よく泣くしね。でもさ、調べていくと妙な違和感を覚えるんだよね。母親とのこともそうだし、アヤメやカズハとのことも。あれだけの事をされながら、なぜキミは必至になって抵抗しないんだい?」


 身を乗り出して、明楽の顔を覗き込む。

 口が微かに動いて、何かを伝えようとしたように見えた。が、小さな呻き声ばかりで話にならない。それでも反応と呼べるには十分なものだった


 あは、と里桜が嗤った。

 あれだけ抜け殻のようだった彼が反応した話題がコレだ。痛いところを突かれれば流石に無視もできないだろうとは思っていたが、こうも簡単に釣れてくれるとはラッキーだった。


「カズハがああいう性格なのを知っていて、なぜアヤメの家に行ったんだい?」


 眉が顰められる。

 顎先がそっぽを向くように動いた。


「キミの母親が逮捕されたとき、なぜキミは彼女を庇ったんだ?」


 ゆっくりと芋虫のように背中を向けようとする。

 それを里桜は肩を掴んで制した。


「アヤメを咎めようともしないのは?ユキナと関係を持ち続けたのは?焼けていくカズハとユキナを見て、眺めていただけなのはなぜだ?」

「……っ、ぁ、ぅぁっ」

「おかしな事ばかりだ。マコトにも何の感慨もないんだろう?キミを助けようとしたのにね。存在すら忘れていたんじゃないのかな?」


 里桜は人の心や感情が分からない分、知ろうと努力を続けていた。

 大量の本を読むのもそう。興味のない映画や人の話を聞くことも、全ては知らないことを知りたいから。明楽に興味を持ったのもそれがキッカケだった。


 だからこそ分かることもある。

 普通の人間は、彼のように行動しないのだ。とんでもない聖者か理解不能のお人好しでない限りは。まるでどこぞの神様のように、彼は誰でも許すし何でも受け入れる。どんなことをされても。


「以前キミが通っていたカウンセラーから話も聞いていてね。興味深かったよ。頻繁に話が嚙み合わないときがあったって」


 そう言って、里桜が掴んだ肩を強くベッドに押し付けた。

 華奢な体はされるがままで、折れそうなほど強く握っても痛そうな顔すらしなかった。


「なぁ。本当はキミ、人の事なんかどうでもいいんじゃないのかい?」


 里桜が出した仮説が正しければ、自分と彼は酷く似通っている。

 性格がどうとかそういった話ではなく、真琴に話したように本質の部分が同じなのだ。

 ベッドに膝をかけ、少年に覆い被さるように迫っていく。

 身じろぎ一つしないまま、明楽は彼女の顔を見上げた。


「自分のことだって、何とも思ってないんだろう?どう生きようが死のうが関係ないんだ。だから人に望まれるがまま振舞うんだよね。そうしないと孤立してしまうから、色んな人間が望むような人間を演じるんだ。ちぐはぐな行動も、されるがままの性格もそのせいだろう?そのキッカケになったのがあの母親だったんだ」


 なら、と里桜は言った。

 彼を好き勝手にした彼女たちの気持ちが分かった気がした。それがとても嬉しくて、ようやく人らしさを自分に感じることが出来たように思える。

 心臓がばくばくと鼓動しているのも、異様な体温の上昇も、運動してもいないのに荒くなる呼吸も、今までの彼女にはあり得なかったこと。

 こんな都合の良い人間は、もう出会えないだろうという焦りもあった。


「今度は私が望むように生きてくれるかい?」


 知らないことを教えてほしい、と耳元で囁く。

 美弥には体調が戻るまで手を出さないようにと言っておきながら、自分はこのザマだ。心の中で仕方ないだろう、と言い訳をして、里桜は少年の唇に触れる。突き破らんとする心臓が何故か心地良かった。


「いいよね?順番待ちはしたんだ。大丈夫、悪いようにはしない。暴力を振るう趣味はないし、傷付けようとも思わない。ただ彼女たちが感じたように、私にもキミが欲しいと求めさせてくれるだけでいいんだ」


 目を瞑って唇を寄せる。

 明楽は抵抗しなかった。嫌悪感もなく、「あぁ、またか」くらいにしか思わない。彼女の言葉通り、どうでもよかったのだ。


 彼女が満足するまでの間、ただひたすら天井を眺めていた。

 そうしていれば、何も感じずに済むと知っていたのだ。どうでもいいのだから、眺めている間にさっさと終わらせて欲しかった。


 明楽は目を瞑って、思考の一切を放棄した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る