2章 / 雪那VII / 和葉XXIII

 伸びた髪と、こけた頬。


 仕事に着ていくオーダーメイドのスーツではなく、安っぽいワイシャツにサイズの合わない上着。とはいえ、ド変態どもに買われていくモノにはそれなりの服で十分と言うことらしい。


 沸き上がる不満も怒りも押し込んで、前髪で目元を隠して。


 弟のいない時間を長く過ごした私は、以前とはまるで別人のようになっていた。

 それでも万が一の可能性を摘むために、たとえ正面から見据えられようが、私だと気付かれないように。この人間が腐っていく空間でも狂わないように、その瞬間を虎視眈々と狙うのだ。


「待ってろ、明楽……」


 軋む奥歯を噛み締めて。

 何がどうなろうと、弟は取り戻す。

 

 それ以外のことなんか、知ったことか。









 逆手に握ったナイフを何度も何度も突き立てる。


 鈍く光るそれが肉を割って入る度、白いネグリジェに黒いシミが広がっていく。

 同時に絞り出される苦痛に満ちた悲鳴。弱まっていく抵抗。彼女の体のほとんどがどす黒く塗り潰されてようやく、雪那は我に返った。


「はぁっ、はぁっ、……ッ」


 自分より一回り小さな少女に馬乗りになって、乱れた息を整える。

 窓の外は相変わらず騒がしく、夜中の郊外には似合わない色の光が揺らめいている。いいぞ、と思った。邪魔をされるのだけは我慢ならない。今この瞬間のためだけに、最低最悪の数カ月を生きてきたのだから。


「……くは、ふふ、ははははははッ!」


 眼下で横たわる少女。

 死んだか、と歓喜が胸を叩く。が、すぐに落胆の色に表情が曇る。微かに少女の胸胸が上下していた。


「……なんだ、まだ生きてるのか。さっさと死ねばいいものを」


 不自然な呼吸音。

 時折咳きこんでは血を吐き散らし、粘り気のある血がカーペットへと大きく広がっていく。誰がどう見ても助からないだろう。


「苦しい?それとも痛いか?」


 ナイフを投げ捨てる。

 からん、と音を立てて転がった。これ以上はもう必要ない。


「私もそうだったよ。明楽もそうだったろうな」


 少女の頬を掴む。

 死にかけのくせに目に力は残っているようだった。あと数分もすれば死ぬだろうが、生意気にも睨み返してくる。それが無性に腹立たしかった。


「何がタクミだ。ふざけるなよ。私の弟に、何したんだお前は……!」


 ごきり、という音と共に少女の首が捻じれた。

 振り下ろした右拳を開き、その手でまた頬を掴む。抵抗すら出来ずにいた和葉は、不自然な呼吸音を喉から漏らすだけで精いっぱいだった。


 可哀そうだなんて欠片も思わない。

 左手で首を抑えたまま、ナイフのときと同じように何度も拳を振り下ろした。怒りも恨みも全て込めた。ナイフで穴だらけにするだけじゃ物足りないのだ。事切れる寸前まで、憎しみの限りと決めていた。


「死ね、死ね、死ね、死ね、死ねッ、このクソガキがッ!」


 自慢だっただろう整った顔が、見る見るうちに歪んでいく。

 こびりつく血は彼女のものなのか、それとも自分の拳からなのかも分からない。構うものか、と雪那は殴り続けた。大切な弟を誑かされ、人格を歪めてまで奪おうとした女なのだ。この程度で死ねるのなら感謝してほしいとさえ思った。


「あああああぁぁッ!」


 一際高く振り上げて、思い切り叩きつける。

 ばきりと嫌な音。びくびくと跳ねた少女の体から生気が失われていくのが分かった。あの不気味な呼吸すら聞こえないことに、雪那は勝ち誇ったように嗤った。


「あは、あはははははっ!やっと死んだ!どうだ、このクソガキが!舐めた口ばかり利きやがって!」


 髪を掴んで、がんがんと床に叩きつけた。

 糸の切れた人形のように、ぐったりとされるがままだ。


「はーっ、はーっ、……ざまあみろ。明楽は返してもらうぞ。お前なんかには勿体ないんだよ。私の弟だぞ、私だけの!」


 天井を見上げて、雪那は叫んだ。

 誰に言うわけでもなかった。ただ明楽がいなくなってからこれまでの時間、溜まりに溜まっていた鬱憤を晴らすように嗤った。

 それも当然。やっと最愛の弟が帰ってくるのだ。

 今度は上手くやれる自信があった。この街から離れて、どこか海の見える小さな田舎町で暮らそう。金の心配ならない。傷付いた弟を慰めながら、二人だけで生きていけばいい。時間はいくらでもあるのだから、どんな問題があっても関係なかった。


「あぁ、そうだ。明楽……私の弟。もう邪魔するヤツはいない。こいつも、あの女も……母親も父親もだ。二人だけでやり直そう。なぁ、明楽……」


 清々しい爽快感に身を浸しながら、雪那は振り返った。

 明楽が眠っているベッドに視線を向ける。

 常用している薬のせいで夜は滅多なことでは起きないと聞いていた。目的の一つは達したのだ。あとは彼を抱えて外に出て、車でそのまま消えてしまうだけ。里桜には電話で礼の一つでも言えばいいだろう。いけ好かない旧友とはいえ、アレも明楽を狙っているのだから。


「明楽、あきら……」


 立ち上がる。

 火は鎮火しつつあるようで、部屋は暗闇に包まれつつあった。


「かえろう。さぁ。あきらぁ……!」


 重い体を引き摺って、雪那はベッドの方へと歩き出す。

 血に塗れた顔も体も、今は気にならなかった。









 夢うつつの中で、明楽は目を覚ました。


 誰かが叫んでいる。

 なんだろう、と体を起こそうとするが、なかなか上手くいかない。頭も体も、酷く重かった。ぼんやりしていて思考が定まらない。うつ伏せに突っ伏した状態のまま、しばらく耳に入る叫び声だけを聞いていた。


「……ッ、……ねっ!」


 語気は強め。

 和葉の声でないことはすぐに分かった。彼女の声音は高く、透き通った印象を与える。聞こえてくるのは低めのハスキーボイスだった。


 声に合わせて、鈍い音もした。

 モノを落とした時のような音。それは何度か聞こえて、声が止むのと同時になくなった。


(なんだろう。かずはさん……)


 少しずつクリアになっていく頭の中で、だんだんと不安が入り交じっていく。

 よくよく考えればありえないシチュエーションだった。和葉はごく僅かな使用人を覗き、部屋には誰も入れたがらない。夜は特に二人きりであることに拘っていて、同じベッドで眠る時間を邪魔されるのは、彼女にとっての逆鱗だ。にも関わらず、彼女以外の声が聞こえるのは何かが起きている証拠なのだ。


 もそもそと体を動かす。

 体の感覚は戻ってきた。寝返りを打つと、窓の外で暖色の光が揺れているのが分かった。


(やっぱりなんか変だ。和葉さんもいないし……)


 いつもなら自分を抱き枕のようにして眠る彼女が、隣にいない。

 嫌な予感に明楽は体を起こそうと必死になった。寝起きは最悪で、視界はまだぼやけていた。


「……和葉さん?」


 そんな視界の隅。

 部屋の端で、蠢く人影。窓から入る光が徐々に失われつつあり、顔ははっきりとは見えない。が、それが立ち上がってこちらに向かってくるのだけは分かった。

 肩まである髪を揺らしながら、何かを呟いている。明楽は本能的に後退ろうとした。単純にが恐ろしくて仕方なかった。


「―――ら、―――きら」


 まるでうわ言のように。

 胸を騒がす言葉を何度も繰り返しながら、影はベッドに手をついた。



―――あきら。



 影は嗤う。

 にんまりと白い歯を光らせて、震える少年に手を伸ばした。









 どれだけもがこうとも、マトモに体を動かせる気がしない。


 全身から力が抜けていく。

 私もバカじゃない。今まで散々やってきた事だ。こうなった人間がどうなるかなんて、腐るほど見てきた。自分が経験するなんて思いもしなかったけれど。


(明楽くん……)


 襲ってきた使用人は―――柊木 雪那は、見事に復讐してみせた。

 いつからウチに潜り込んでいたのか。いや、そもそもどうしてこんな事ができたのか。誰かが糸を引いていたのかも……なんて考えるだけ無駄だ。それが分かったところで私にはどうしようもない。


 仰向けから、ごろりと寝返りをうって。

 雪那は私に興味を失ったのか、それとも死んだと思ったのか、明楽くんの方へと向かって行った。

 ぶつぶつと彼の名前を呟きながら、まるで亡霊か幽鬼だ。かつての「大人の女性」らしさは全くなく、薄暗さも相まってまさに化け物といった風体だった。


「……けほっ、っ、ぁあッ」


 咳と共に、苦い鉄の味が口内を満たす。

 傍目でも手遅れだと分かるほどの出血量。狭まる視界。ぼうっとする頭。

 もうダメだろうな、と頭の片隅で諦めの言葉が浮かんでいた。死ぬんだと思うと怖くて堪らなかった。


(あーあ、やだなぁ。死んじゃうのか。まだこれから色々やりたい事あったのになぁ)


 明楽くんと。

 もっとしたい事もあったし、行きたい所もたくさんあった。

 子供だって欲しかった。たっぷり二人きりを楽しんでから、テレビで見るような幸せな家族を楽しみたかった。どんなものか知りたかった。マトモに―――好きな人と普通の人生を生きてみたかった。


(普通の人生か。いいですよね、ほんと。真琴さんはお前が何言ってるんだ、とか言いそうですけど。いいじゃないですか、憧れるくらい)


 今頃何してるんだろうか。

 姉のように慕ってきた真琴さんを売ったのは私なのに。

 情緒不安定。そんなの分かってる。明楽くんが絡むと、私はおかしくなってしまうのだ。


(明楽くん、ごめんなさい……)


 お友達を傷付けてごめんなさい。

 お姉さんを傷付けてごめんなさい。

 無理強いしてばかりでごめんなさい。

 貴方の知らないところで、色んな人を傷付けてごめんなさい。

 私の我儘で、貴方を傷付けてばかりでごめんなさい。



―――好きになって、ごめんなさい。



 はは、と笑い声が漏れてしまう。

 もう最後だ。私はもうすぐ死ぬだろう。悔しいし、悲しいけれど、もうどうしようもない。でもせめて最後くらい、貴方のそばで。貴方の名前を呼んで、好きと一言だけ言いたかった。それだけできれば、私はもう満足だ。


 大好きな明楽くん。

 可愛くて、優しくて、いつも笑ってばかりの彼。

 我儘を言えば困ったように笑う。腕を組めば照れて俯いてしまう。

 彼といれば、私の荒んだ心は満たされる気がした。桐生ではなく、和葉として生きていける気がした。一緒に生きていきたいと思ったのは、貴方だけだった。


 最後の力を振り絞る。

 動かなかった体も、不思議と活力が戻ったような気がした。本当にゆっくりとだけれど、這い蹲ることくらいはできた。最後の我儘のため。そう強く思えば、死にかけの体でも何とかなるものなのだ。たぶん。


(大丈夫ですから、明楽くん。そんな顔しないでください)


 霞む視界。

 サイドテーブルまではもう少し。ベッドの上では、雪那が明楽と何かを話していた。耳はとっくに聞こえなくなっていたから、内容までは分からないけれど。


 ずる、ずる、と。

 芋虫のように這って進む。

 痛みはもうない。呼吸も上手くできていない。ただやり残したことだけは、片付けなければならない。罪滅ぼしではないけれど、それくらいしなければ我儘は言えないでしょう?


「―――!!」

「―――、っ!!」


 明楽くんが頭を抱えて、何かを叫んでいる。

 歪んだ顔は見たくなかった。私のせいだとしても、私だけはそんな事言う資格はなくても。そんな事知るか、って感じ。私以外の誰かに、そんな表情をさせてたまるか。


 小さなサイドテーブル。

 備え付けられた棚を引く。法にも触れるし、使いたいとも思わなかったソレを手に取った。ナイフなんかよりもよっぽど威力のある、小さくても十分なソレ。万が一の護身用にと準備していて良かったと初めて思った。


(また好きって言ってくれるかなぁ……)


 そんなはずないか、と笑えてくる。

 結局私は、私の為に彼を利用したのだ。

 愛しているのは紛れもない本心。ただどうやって愛したらいいかとか、自分の中に渦巻く嫉妬とか、そういったモノをコントロール出来なかったのだ。

 彼はきっと普通に私を愛してくれたはずなのに、私の求める理想だけを押し付けてしまった。

 桐生としての私が、彼を奪ってしまえと叫んだ。それが原因。全部台無しにしてしまった、私が悪い。ホント今さらだけど。


 指先にありったけの力を込めて、ハンマーを引く。

 弾は込めたままだ。安全装置も外しっぱなし。真琴さんはぐちぐちと小言を言っていたけれど、外したままでよかった。こんな震える指と視界じゃあ、どうしようもなかっただろうし。


(明楽くん。明楽くん。あきらくん……)


 雪那は激昂していた。

 何が癇に障ったのか、蹲る明楽に圧し掛かった。

 ベッドの下から見えるのは、そんな彼女の背中から上だけ。狙う的がはっきりしていて助かった。


「……あきらくん」


 かたかたと震える銃口。

 どうせこれで最後なんだ。火傷しても構わないと、バレルを手で押さえて。


 最愛の人の名前を口にしてから、私は引き金を絞った。


 

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