2章 / 和葉 XXII

 幸せな時間というのは、あっという間に過ぎていく。


 一緒に寝て、一緒に起きて、一緒に朝ご飯を食べる。当たり前の行動が愛しくて仕方がない。

 おはようのキスだって出来るようになった。まだ顔を真っ赤にして、唇を重ねるだけのキスだけれど。それでも大きな進歩だった。


 その後は同じ洗面台に向かって歯を磨いて、「今日は何をしようか」なんて会話をする。

 家の中で本を読む日もあれば、外に散歩へ出かける日もあった。真夏の日差しはまだ彼には辛いようで、大抵は早々に部屋へ引っ込んでしまう。それでも外を歩きたいと言う彼の意志は尊重して、できる限り日陰を歩いたり日傘を差したりと工夫した。


 敷地内には至る所に使用人を配置した。

 今は大人しくしている彼の姉や、気味の悪いあの変人を警戒してのことだ。このまま引き下がるとも思えないし、付け入る隙は与えたくない。引っ越しも考えたが、セキュリティに関してはこの家が一番だろう。彼の視界に他の女を入れるのも癪だけれど、今はこの生活を続けることが最優先だった。


「サンドイッチなら食べられそうですか?」


 そう尋ねると、彼は「うん」と一言だけ返して目を瞑った。

 木陰に設置したテーブルと椅子。晴天でも風があるためか、涼しいとは言えないまでも汗をかくほどでもない。

 明楽くんは冷房よりこういった自然の涼しさを好む傾向があるのだ。今朝の散歩で疲れてしまったのか、椅子に座ってうとうととしていた。


「……もう少ししてから、ご飯食べましょうか」


 今度は返事がなかった。

 対面に座る私は、それでもこの上ない幸福感に満ちていた。愛する人が穏やかな寝顔を晒してくれているのだ。ストレスも緩和されてきたようで、最近は徐々に食事も取れるようになってきた。良い傾向だ。全てが上手く回っている。この上ない時間だ。


 タクミという名前になった明楽くん。

 疑問も口にせず、けれども胸の内に不満や疑念を抱えている様子もない。

 この生活を受け入れてくれているのだと信じたかった。彼がこの家でタクミとして生活を始めてから、ようやくひと月が経とうとしている。まだまだ課題はあるが、これで良い。この時間だけが私の全てだ。


 彼もそう思ってくれていれば、どれだけ素晴らしい事だろうか。









 八月も終わり、残暑もまだ残る日の夜。


 違和感に気づいたのは和葉だった。

 いつも通り僅かに開けたカーテンの向こうに、オレンジ色の薄明りが見えた。ゆらゆらと揺らめいては、次第に色が強くなっていく。ベッドサイドにある時計を見ても、時刻はまだ午前二時を過ぎた頃。朝日には早すぎる時間だった。


「なんですか、もう……」


 隣で眠る少年に起きる気配はなし。

 睡眠導入の副効果も毎日服用しているせいか、最近は夜中に起てしまうことも増えてきた。起こさないように気を遣い、和葉はベッドから降りた。


 窓の外を覗く。

 何人かが慌てて走っていくのが見えた。何だろう、と首を傾げてすぐ、部屋の扉がノックされた。


「どうぞ」

「夜分に失礼します、お嬢様」


 訪ねてきたのは真琴の代理を務める使用人だった。

 暗闇で表情は伺い知れないが、息を切らしている。走ってここまで来たのだろう。


「申し訳ございません。南棟にて火災が発生しております。使用人総出で消火には当たっておりますが、内部から出火しており……沈下が難しいため、消防への連絡の許可を頂きに参りました」

「火事?スプリンクラーはどうしたんです?」

「作動しておりません。警報装置の一部が停止しておりまして、その間に火災が発生したものと」

「そんな馬鹿なことが……いえ、消防に連絡をお願いします。南棟の書類は無事ですか?」

「まだ確認はできておりませんが、その……」

「それだけ燃えてるってことですね。分かりました。顧客には知られないようにしてください」

「承知しました」


 和葉は努めて冷静を保った。

 南棟は桐生家にとって重要な場所である。「商品」の売買履歴は全て紙で残しており、それらを保管しているのが南棟なのだ。

 使用人は頭を下げ、扉を閉めた。その向こうで走り去っていく音。冷静を装った主人とは違い、慌ただしさを隠そうとはしなかった。


 部屋に残った和葉は、恨めしそうに爪を噛んだ。

 ハッキングを考慮しての紙のみでの記録は間違っていないとは思う。だがそれ以上に、あの場所にはそれぞれの顧客の弱みも保管してあった。購入時の写真や、「お試し」と称した行為の録画データ。一つでも外に出れば破滅させられるようなモノばかりが。なくなってしまえば、顧客とのパワーバランスが崩れてしまう。桐生家が脅迫される恐れすらあった。


「……偶然、じゃないですよね」


 ちらり、と明楽を見る。

 焦燥に駆られる彼女とは対照的に無邪気な寝顔だ。

 あまりにも無垢なそれに笑みが零れてしまうが、今は気を引き締めなければならない。ただの火事ならまだ良い。考えすぎであればそれに越したことはない。けれど、和葉の胸中は穏やかではなかった。


「……私です。人を何人か私の部屋へ。侵入者がいる可能性があります」


 手早く電話をかけ、万全を期す。

 頭に浮かんでいる人物が犯人であれば、狙われるのは自分か明楽なのだ。返り討ちにしてやる自信はあったが、明楽が連れ去られる可能性があるのは我慢ならなかった。


(いい機会と取るべきですかね。それならそれで、片づけてしまえば……)


 後顧の憂いを断つ意味でも、好機と捉えるべきだろうか。

 和葉は複雑そうな表情を浮かべながら、窓の外で揺らめく炎を眺めていた。









 こんこん。


 ノックが部屋に響く。

 電話をしてから数分。どうぞ、と答える前に扉が開いた。


「お待たせして申し訳ございません」

「いえ、構いません。話は聞いてますか?」

「はい。柊木様をお守りいたします」


 礼儀をぐちぐちと咎めるには、今は余裕がなかった。

 黒いスーツを身に纏った女性に一瞥すると、そのまま視線を外へと戻す。火の手は一向に収まる気配はなく、やがて開けた窓の隙間からサイレンの音が耳に届いた。


「……南棟はもうダメそうですね」


 ぽつりと呟く。

 母は海外へ出張中。どうせ意中の男を連れて好き勝手やっているのだろうが、人のことは言えないと文句を言うつもりはない。だが自分だけでは下せない判断もあるのだから、こんな時くらいは連絡を取れるようにしてくれと愚痴を吐きたくはなった。


 はぁ、と溜息。

 この後のことを考えるだけで嫌気が差す。うんざりですね、と愚痴を吐こうとして、背後に迫る足音に気付いた。


「……どうしました?」

「いえ、その……これを」

「?」


 使用人の顔は暗がりの上、長い前髪が目元を隠していて表情が分からない。


(こんな人、いましたっけ……?)


 全ての使用人を把握しているわけではないのだから、面識のない者もいるか、と飲み込んでおく。ただでさえ最近はドタバタしていたし、いずれ売られていく人間のことなんか気にかけている暇はなかった。


 スマートフォンを手渡され、怪訝な面持ちで女性を見返す。なんだろう、と視線を落とすと、それは通話状態のままになっていた。


「……もしもし?」


 電話に出ろ、ということだろうか。

 やはりこの女性は新人なのかもしれない。たどたどしさやノック忘れなど、なんて言えばいいのか分からなくなったのだろう。なんでそんなヤツを寄こしたんだろう、と苛立ちを募らせ、和葉は電話相手の言葉を待った。


『やあ。お久しぶり』

「……っ」


 思わず舌打ちをしてしまう。

 こんなタイミングで―――いや、だからこそか。南棟の火災を考えれば、電話口でけらけらと嗤うこの女の仕業だと即座に理解した。


 激高するのは簡単だ。

 が、それはそれで癇に障る。この女の思う通りの行動はしたくない。

 沸騰寸前の腹の内を抑えながら、和葉は低い声で言った。


「放火は重罪ですよ」

『私じゃあないよ。キミを恨む人間なんか腐るほどいるだろう?その内の誰かなんじゃないのかい?』

「その程度の連中がウチに侵入して火を点けたと言いたいんですか?」

『身内かもしれないだろう?何せ人間を壊しては売ったりしてるんだから、使用人のほとんどはキミを殺したいと思ってるんじゃないかな』


 怒りに顔が歪む。

 この女との会話は本当に嫌いだった。ああ言えばこう言い返してくるし、口調がコケにされているようで腹が立つ。手に持ったスマートフォンがみしみしと音を立てていた。


「で、結局何なんです?」

『あぁ、キミと話せるのも最後だと思ったらなんだか寂しくなってさ。お別れの一言でも言っておこうかと思ってね』

「はぁ?何を……」

『すぐ分かるさ。ほら、言っただろう?身内かもしれないよって』

「ワケの分からないことを―――」



―――どすん。



 言い切る前に、背後から衝撃。

 振り返れば、電話を手渡した使用人の女性が覆い被さるように体を預けていた。そのまま体重をかけられ、地面に押し倒される。抵抗しようと手を振り払った。


 はらり、と前髪が舞う。

 その奥に、ぎらぎらと見知った目があった。濁っているくせに鈍く光るそれは、酷く恨みの籠った視線を和葉にぶつけていた。


『もしもーし?聞こえてるかい?言い忘れてたんだけどさー』


 電話口の向こう、里桜の話す声が聞こえる。

 それどころではないと、和葉は今自分の置かれている状況を理解した。


「久しぶりだな。クソガキ」

「……っ、なんで、貴女がッ……!」


 地獄の底から響くような声音。

 手には銀色に光るナイフ。刃渡りは長く、厚みもあった。


『怖いお姉サンがキミのところで働いてるから、気を付けたほうがいいよ』


 あはは、という笑い声は、和葉の耳には入らなかった。


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