2章 / 和葉XXI / 扇I
「一緒に寝るのも、久しぶりですね」
そうだね、と少年の口が動く。
注意して耳を傾けなければ聞き取れない程の声量だったが、和葉にはしっかりと理解できた。彼の言葉を聞き漏らすなんてことは、彼女にとってあってはならないことなのだ。
窓から差し込む月明かりが二人を照らしていた。
僅かに開いた隙間からは虫の音が聞こえてくる。適度な涼しさを伴った風は、半開きになった遮光カーテンをゆらゆらと揺らめかせている。適度に効いた空調のおかげで熱帯夜の不快感は感じられない。
「毎日こうだったらいいなって、ずっと思ってたんですよ。一緒に寝て、一緒に起きて、一緒にご飯食べて……それが一生続くのなら、それで十分だったんです」
うん、と頷く。
少年の目は閉じたまま。抗生物質と言われて飲んだ催眠誘発剤のせいで、夢の中にいるような感覚だった。現実との境が曖昧な思考は、和葉の言葉をそのまま受け入れてしまう。
「でもいいんです。今こうして貴方と過ごせるんですから。これからはずっと、二人きりで生きていくって約束してくれますか?」
今度こそ、と一言添える。
その言葉に少年はもう一度頷いた。
それに満足したのか、和葉は満面の笑みで少年の額に口付けた。
「ふふ。幸せです、本当に……」
うとうとと舟を漕ぐ少年を見つめながら、和葉は何度も同じような問い掛けを繰り返した。その度にあって無いような返事ばかりではあったが、それも一切気にならない。応えてくれるだけで胸がいっぱいになった。
やがて問い掛けにも反応しなくなり、少年は次第に寝息を立て始めた。
苦笑しながら、今日はこれで十分だと自分自身を納得させる。欲を言えば色々と物足りないが―――なにせ教育に時間が掛かったせいで、随分とご無沙汰だったりするのだ―――焦って失敗しては元も子もない。ずっと我慢してきたのだ。一晩や二晩くらい我慢できる、と思う。たぶん。
それからしばらく、頬杖を付いて彼の寝顔を眺めた。
眠気も忘れて、飽きるまで目に焼き付ける。会話が出来ないのは残念だが、この時間が一生続けばいいと本気で思えた。
「おやすみなさい、明楽くん」
後付ではない本当の名前を呼んでから、和葉は抱き締めるようにして瞼を閉じた。
♪
医者というには不真面目で、親の経営する病院の一つを任されたものの、使命感ややりがいなんて全く無し。
それでも医者になったのは、ただそういう家系だったからと言うだけである。
漠然と稼げると思ったし、何不自由なく生きている父親を見て自分もそうなりたいと思ったから。人助けなんて考えたこともない。
もともと頭も良かったからか……いや、どうせ親父が金を払ったからだろうけど、それなりに勉強もきっちりして医大も卒業した。研修医としては親父の病院でも働いた。腫物のように扱われても、気にならなかった。
「や、タクミくん。元気だった?」
そんなこんなで、俺は一人の男の子の面倒を見ることになった。
桐生とかいうとんでもなく恐ろしい一家に捕らわれた、可哀そうな少年。この家の一人娘がご執心らしい。
親父がよく買ってくる女たちの出所がここだって言うんだから、正直関わりたいとは思わない。そんな家に毎週来なきゃいけないなんて冗談じゃない―――とはいえ断れるはずもなく、俺は親父が言うままにこの家に往診をするハメになったのだ。
「はい、今日は大分調子が良いです」
「それは良かった」
良いはずないんだけどな、と内心鼻で笑いながら、聴診器を当てていく。
心音は正常。瞳孔も問題ないし、体中の傷に目を瞑れば健康だろう。
「昨晩はよく寝れた?」
「はい」
「食事は?ちゃんと食べれるようになった?」
「ご飯はまだあんまり……」
申し訳なさそうに苦笑する彼。
食べられなくて当然だ。どんなストレスの中にいたのかは知らないが、胃はボロ雑巾もいいところなのだ。こうして笑って話せているだけでも驚きなのに、普通にメシを食えるはずがない。
「薬はちゃんと飲んでるよね?」
ちら、と少年の背後に立つ少女に視線を送る。
桐生の一人娘。テレビでも見ないような美少女だが、中身は悪魔が可愛く見えるくらいの外道だ。噂話だけでも身震いしてしまう。
少女がこくりと頷く。
薬は毎日飲んでるようだ。まぁ、そりゃそうか。
「飲んだ後眠くなったり、頭がぼーっとしたりする?」
「はい」
「起きたあとはどう?」
「頭ははっきりしないときの方が多いです」
なるほど、と言っておく。
当たり前だ。そうなるように調整した薬なのだから。
催眠作用が強く、元々はこの家の人間……じゃなくて、商品を作るに親父が作った薬。この少年に刷り込んだ記憶を定着させるには不可欠だろう。
「ちょっと何個か質問をするね。君の名前は?」
「えっと、桐生 タクミです」
「年齢は?」
「十七です」
「両親のことは覚えてる?」
「それは記憶になくて……事故で亡くなったって聞いてます」
「そうだね。学校のことは?友達とか、どんなところに通ってたとか」
「それも、ちょっと……」
矢継ぎ早に質問を重ねる。
回答内容というよりは、彼の反応に注視する。余程の役者でもない限りは、嘘かどうかは見破れる自信があった。俺の仕事は彼の健康管理ではなく、記憶が戻っていないかどうかを確かめることなのだ。
それからまたいくつか質問をして、彼の反応を確かめた。
うん、今のところは素直な反応を繰り返してばかり。可哀そうだけれど、記憶は戻ってはいないだろうと判断した。
「ふむ……とりあえずはこんなもんかな」
かれこれ三十分ほどの問診を終えて、俺はカルテにメモを取ってからカバンにしまう。これ以上は無意味だし、ぶっちゃけさっさと帰りたいというのが本音だったりする。いくら俺でも、この少年と真正面から対応するのは気が狂いそうだった。
「薬はいつも通り出しておくから、継続して飲んでね。今は心身共に疲れてるだろうから、しばらくはのんびりと過ごしたほうがいいな」
「はい、わかりました」
「なるべくストレスをかけないようにね。記憶が戻らないのは不安だろうけど、もっと気楽に楽しんで生きていけばいいさ」
その方が俺も楽だし、とは言わないけど。
彼は納得したような、どこか複雑そうな表情を浮かべて、小さく頭を下げた。俺も共犯者だっていうのに律儀な子だ。
「ありがとうございました」
「いえいえ。また来週も来るからね」
本当は来たくないけど。
椅子から立ち上がった少年の後ろ。
にこにこと笑う少女の顔を見て、親父が来たがらなかった理由がようやく分かった気がした。
♪
「明楽くん、どうですか?」
今後の往診のスケジュールを相談するから、という理由で明楽を退室させた後、和葉は白衣を着た青年に向かって言った。
「問題ないでしょう。記憶は戻ってませんし、その兆候もないようです。薬は継続して飲ませてください。念のため最初に刷り込んだ以外の内容は加えないでおくようにお願いします」
「分かってます。細心の注意を払ってますから」
「刷り込む方法は今まで通りで構いません。頭痛や意識の混濁が見られるようであれば、連絡をください」
「わかりました」
先ほどまでの笑顔は消え、どこか不機嫌そうですらある表情で和葉が答えた。
少年の前でなければこうも態度が違うのかと、少し意地悪をしたくなった。
「それと、父が貴女によろしくと」
「そうですか。その割には、ご自分では来られないんですね」
皮肉たっぷりの返答に、青年は苦笑いを浮かべる。
わざとらしく頭をかく仕草が、さらに和葉の機嫌を損なわせた。
「父は最近買った女性に夢中のようでして。確かここのメイドさんだったかと」
「……真琴さんですか。彼女、どうしてますか?」
「あぁ、そういえばそんな名前でしたね。元気ですよ。手足は動かないみたいですけど。昨晩も今朝も父の寝室から声が聞こえてきました」
皮肉には皮肉で返してやる。
そもそも今まで断り続けていたくせに、今さらになって売り払ったのはお前だろう、と言ってやりたくなった。それなのに心配する素振りなんか見せるものだから、青年は内心可笑しくて仕方がなかった。
嫌がらせは十分。いや、まだ少し足りないか。
「まぁ、僕はああいうのには興味ありませんから。支払いがある以上は仕事もしますし、処方もします。貴女に敵対するほど馬鹿でもないつもりですよ」
「ならいいです。多少口の利き方には問題あるかもしれませんが、仕事さえしてくれれば私も手間が省けます」
「ええ。まぁ、あの少年には同情しますがね」
「同情?貴方がそれを言えるとでも思ってるんですか?」
「思ってませんよ。ただ、今までの人生を壊してまであの少年が欲しかったのかな、と思いまして」
けらけら、と笑って言う。
桐生 和葉は掛け値なしのクズだ。見た目と金のせいでそう見えないだけで、やってることはそこらの政治家よりタチが悪い。
好きだから、とか愛してるから、なんて理由で本人やその周りを壊すのだ。それを悪いとも思ってないし、最後は愛だのなんだのと正当化しようとする。父親からその話を聞かされたときは、そんな人間がいるのかと呆れてしまった。
「恋は盲目と言いますが、まさにその通りですね」
「さっきから何が言いたいんですか」
「本当に彼のことを想うなら、あの傷はないでしょう」
シャツを捲った中にあった、少年の体を思い出す。
異常を通り越してまるで現実感がなかった。古傷はあるにせよ、半分ほどは目の前の少女が作った傷だというのだ。にも関わらず彼を「何よりも愛している」と言ってのける彼女に、吐き気を覚えた。
「薬もそうです。本来あんな少年に使うものじゃありません。貴女のとこの商品に使う分には興味ありませんがね」
「で?明楽くんには使うなと?それを貴方が言うんですか。今さらそんな正義感を振りかざして、何がしたいんです?」
それもそうですね、と青年が言う。
医者としてのプライドもないし、真面目に人助けなんて言うつもりもない。
ただ彼女がどれだけ異常で、自分がちゃんとマトモであると再確認がしたかっただけだ。
「さすがに毎週関わる男の子があんな状態なら、心配の一つくらいするでしょう。それが普通の人間ってモノですよ。貴女には分からないかもしれないですけどね」
「余計なお世話です」
「はは、そうでしょうね」
「扇さん。貴方がどう思おうが、扇家の医者である以上、私に従ってもらいます」
「分かってますよ。父にも和葉さんにも逆らいはしません」
「ならその口閉じて、黙って仕事をしていればいいんです」
ぴきり、と部屋の空気がひび割れたような気がした。
多少文句を言ってやりたかっただけだが、年下の少女が怒るだけでここまで緊張感が走るのかと感心すらしてしまう。
とはいえ、言いたいことは言ってやったのだ。これ以上の軽口で関係を傷付けるのは本意ではなかった。
「すみません、僕の悪い癖なんですよ。言わなくていい事まで言うなといつも怒られてばかりでして」
「その通りだと思いますよ。今回は大目に見ますが、あまり私を甘く見ないでもらいたいですね」
「それはもちろん。以後気を付けます」
ぺこりと頭を下げて、扇と呼ばれた青年はへらへらと笑みを浮かべた。
「お二人の結婚式には呼んでくださいね。もうすぐ彼も十八歳でしょう?」
「式は二人だけで行うつもりです」
「そうなんですか?」
「明楽くん以外にドレス姿を見せるつもりはありません」
「それは……はは、彼が羨ましいですね」
思っていないくせに、と和葉は言いたげだったが、言葉を飲み込んだようだった。
代わりに「さっさと帰れ」と言わんばかりの視線を送る。扇もそれを察したのか、カバンを手に取った。
「さて、そろそろ帰りますかね」
「お疲れ様でした。見送りは要りませんよね?」
「……ええ、いりませんよ」
なるほど、と扇は納得した。
不機嫌だったのはやり取りのせいではなくて、明楽が傍にいないからのようだ。ほんの数分離れるだけでこの苛立ちようでは、普段はそれこそ片時も離れないのだろう。また少年に同情する材料が増えてしまった。
「それじゃ、彼によろしく」
「はい。それでは」
言うや否や、和葉は部屋を出て行った。
扉を閉めることすらもどかしいのか、真っ先に自室へと向かっていく。少年のストレスにならなければいいけど、と扇は肩をすくめた。
ぽつんと部屋に一人残され、乾いた笑い声をあげる。軽視されているわけではないようだが、それ以上にあの少年のことで頭が一杯らしい。愛しい愛しい人形がそれほど大切か、と可笑しくなってしまった。
「ま、どうでもいいけどね。クソガキがどうなろうが、知ったことじゃないし」
幸せなのかどうかは知らないが、そんなのは今だけだと気付いたとき、彼女はどうなるのだろう。
処方した薬を眺めては嗤い、それをテーブルへと放り投げた。
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