2章 / 明楽V
大きなベッドの上。
長い長い夢から覚めたような感覚を胸に、少年はゆっくりと起き上がった。
体は酷い倦怠感が纏わりつき、意識はぼうっとしたまま。視界は霞み、乾き切った喉は声を出すことすらままならなかった。
「おはようございます」
ずきずきと痛む頭を抑えながら、少年は声の主を見た。
窓から差し込む光のせいで、彼女には逆光が掛かっている。そもそもぼんやりとしか見えていなかったが、神の長い少女だという事は理解できた。
「……っ、ぅ」
「無理しなくていいんですよ。長い間眠ってたんですから」
少女はベッドサイドに置かれた椅子に座っていた。
そっと少年に近づき、額に手を当てる。熱を測っているようだ。
「……うん、平熱ですね。体調は悪くありませんか?」
少し思案して、小さく頷く。
決して良いとは言えないけれど、彼女にそれを言うのは躊躇われた。
ふと、気付いた。
辺りを見回す。見知らぬ部屋に、見知らぬ少女。自分には不釣合いだと思えるくらいの豪華な内装の上、何人も寝れそうなベッドに眠っていたのだ。ここが何処だかも知らないし、今がいつなのかも分からない。そしてなにより、自分が誰なのかすらも。途端に言い知れない不安が胸の中を蠢いた。
「安心しました。体に異常は無いとお医者様が言ってたんですけど、ずっと目を覚まさないんですから」
少年の心中をよそに、少女は嬉しそうに言った。
息を呑むくらいの美しい少女だった。亜麻色の髪を横に束ね、優しげな目をしている。品のある動作も、漂ってくる香りも全てに胸が高鳴ってしまいそうになる。こんな状況でなければ、ではあったが。
痛む頭を抱えながら、少年は声を出そうとした。
とにもかくにも、現状を把握しておきたかった。自分自身がすっぽり抜け落ちてしまった感覚が恐ろしくて堪らないのだ。目の前で笑う少女がいくら美しかろうと、気後れしていられない。
「……ぁ、あ、あのっ」
掠れた声が喉から漏れる。
聞き覚えのない自分の声が、さらに不安を煽る。
「はい、なんですか?」
「その、僕は……えっと」
「……どうしました?」
細められた瞼の隙間から、じっと少年を見つめている。
見定めているというよりは、観察しているような視線だった。じろじろと見ているわけではなかったが、居心地はあまり良くない。
「ごめんなさい。僕、ここが何処とか、あんまりよく分かってなくて……」
「あぁ、そういえばそうでしたね。お医者様から、記憶の欠落や混乱があると伺ってます」
「はい。その……すみません、実は貴女の名前も……」
「気にしないでください。仕方ないことなんですから」
少年にとっては一大事なのだが、少女はどこか嬉しそうである。
ぽん、と手を叩いて、椅子からベッドへと座り直した。少年の隣へと距離を縮め、事の経緯を語り出す。
「起き抜けですけど、そうですね……まずは、お名前からにしましょうか」
少女の口から、少年の名前が告げられた。
♪
一時間程の会話で、僕の忘れてしまった過去の大半は理解できた。
記憶喪失だなんて、まるで漫画かドラマみたいだ。
パニックになるというよりは、意外と冷静でいられる自分に驚いた。「あぁ、そうなんだなぁ」と我ながら呑気に受け入れられたのもびっくりである。
まぁ正直、ぴんときてはいないけれど。
どうも他人の話を聞いているようで、自分事とは思えない。けど何も覚えていない以上、彼女の言葉が真実だと信じるしかなかった。悪い人ではないようだし、お金もない僕を騙す理由はないだろうから。
彼女の名前は「カズハ」。
僕の名前は「タクミ」。
どちらも聞き覚えはなかった。
桐生という家の長女に生まれた彼女と、僕は婚約関係にあるようだ。
あんなに綺麗な人とそんな関係なんて信じられなかったけれど、彼女の態度も振る舞いも疑いようはない。何千枚にも及ぶ僕らの写った写真や、行為の一部を収めた動画なんかは特に信じるに足る証拠になった。……動画は消してほしいけど。
いろいろと詰め込まれたせいで、全部は覚えきれなかった。
両親は事故で亡くなっていて、一人息子だった僕は父の友人である桐生家に引き取られたこと。
そこでカズハさんと出会い、婚約するに至ったこと。高校には進まず、彼女の仕事のサポートをしていること。僕が十八歳になったら入籍する予定だということ。……僕は結構な甘えんぼうで、彼女に夢中で仕方なかったこと。本当かな、これ。
そしてつい先日、交通事故で頭部を強く打って入院していたのだと聞いた。
憶えてはいないが一度意識が戻ってからは医師が定期的に通い、自宅で治療を受けていたらしい。体の至る所に刻まれた傷を見れば、事故だというのも納得できた。痣、切り傷、縫い痕に火傷……無事で良かった、ほんとに。
「タクミくん」
とカズハさんが僕を呼ぶ。
なんだか変な感じ。自分が呼ばれてる感覚はないけれど、とにかく返事をしておく。ふふふ、と笑って、彼女は僕に寄り添ってきた。二人でいるときはこれが普通なんだとか。
「今は不安かもしれませんが、大丈夫です。私がずっと傍にいますからね」
「うん……ありがとう、カズハさん」
「ふふ。なんか、すごく久しぶりな感じがします。いつもはタクミくんのほうから甘えてくるのに」
「……ごめんね。なんか、まだ慣れないっていうか……」
「謝らないでください。いいんです。ちょっとずつ戻っていけばいいんですから」
カズハさんが笑う。
花が咲いたように、って言葉は、こんな事を言うんだろうと思った。誰が見ても見惚れてしまうくらいの笑顔なのに、僕はどうしても身構えてしまう。理由なんか分からなくて、それがまた怖くて体が固まるのだ。
とはいっても、それを表面に出すのは憚られた。
務めて動揺も緊張も見せないように。そうしてはいけないのだと、体が覚えているみたいだった。
もう少し話を聞いておきたかったが、僕の体はまだまだ本調子には遠いようだった。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるだけあって、倦怠感が一層強くなったことを彼女は見逃さなかった。
「……まだ病み上がりですし、もう少し眠っておきますか?」
「うん、そうだね。まだちょっと体が重くて……」
「お薬飲んで、一緒に寝ましょう。……何ですか、その顔は」
当たり前のようにベッドに入ってくる彼女に、僕は思わず後退ってしまった。
それはそうだ。今までは婚約者で色々と経験してきた仲かもしれないが、今の僕にとっては初対面に近いのだ。おまけに超が付くほどの美人さん。同じベッドで眠るなんてハードルが高過ぎである。
それが不満だったらしく、カズハさんは子供のように頬を膨らませた。
それがまた可愛らしくて、僕の胸がどきりと跳ねる。先ほどまでの緊張はどこへやら。
「だって、なんと言うかまだ僕は……!」
「いつも一緒に寝てたじゃないですか」
「今まではそうかもしれないけどさ!」
「今までもこれからも変わりません。今までと同じことをしていれば、思い出すかもしれませんし」
言って、腕を抱き枕代わりにする。
ふわりと香る柑橘系の匂い。髪はやたらとさらさらして、やけに高い体温が生々しく感じる。彼女はもう一度笑うと、体をぐっと僕に近づけた。
「ほら、お薬。ちゃんと飲まないと治りませんよ?」
白いカプセルを二錠、目の前に差し出される。
無機質なそれを口に含まされ、有無を言わさず流し込まれる。喉が渇いていたこともあってか、ベッドサイドにあったペットボトルの水は瞬く間に飲み干した。
こくりと鳴った喉を見て、彼女はまた嬉しそうに目を細める。
薬を飲んでしばらくは、彼女と他愛のない話をしていた。好みの話だったり、面白い本の話だったり。体調が戻ったら旅行に行こうとも話した。なんでも世界中に別荘があるのだそうだ。うん、それは楽しみだ。
「……タクミくん?眠くなってきました?」
「ん、うん……」
薬の作用なのか、だんだんと眠気が強くなってくる。
もう瞼を開けるのも一苦労で、頭はぼうっとして何を話していたのかも忘れてしまう。もう少し頑張ろうと努力してみたけれど、猛烈な睡魔は耐えようとすらさせてくれない。結局「おやすみ」と言う前に、僕の意識はそこで途絶えた。
「ふふ、おやすみなさい。明楽くん」
アキラ?
夢の中に落ちていく寸前、彼女がそう言った気がした。
誰だろう、と思う頃には、僕の意識はぷつりと切れてしまっていた。
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