2章 / 和葉XX / 明楽IV

 初めの三日間は泣き喚くばかりだった。


 投薬は一日一回。

 種類や量を調節して、過剰摂取にならないよう細心の注意を払った。食事はほとんど与えず、水は脱水症状にならない程度に。禁断症状に苦しむ姿は心苦しかったけれど、目的のためには我慢しなくてはならない。この先に理想の『明楽くん』が待っているのだと思えば、この胸を掻き毟りたくなるような時間も耐えることができた。


 やがて喉が枯れて声も出なくなった辺りで、部屋の覗き窓を開けることにした。

 彼を閉じ込めている部屋は、内装を黒く塗りほとんど光が入らないようにしている。人は真っ暗な空間で何日も閉じ込められていると、驚くほど簡単に発狂するのだ。『そう』なった人は何人も見てきたし、おかげで私も人の壊し方が上達してきた。


 虚ろな目でぼうっと這い蹲る彼の耳には、窓から聞こえる女性の声。

 痛みに苦しむ叫び声や、すすり泣く声。時には狂ったように喘ぐ嬌声が、塞ぐことのできない耳に延々と飛び込んでくる。

 薬のせいでマトモに思考できない頭では、純粋に恐怖だけが彼に刷り込まれる。

 その声がいつ自分の口から出ることになるのかと、あの暗い部屋で恐々としているわけだ。可哀そうだとは思うが、それも仕方のないことだった。


 一週間が過ぎた頃には、涙すら枯れ果てていた。


 幻覚でも見えているのだろうか、時折誰かと話しているように口を動かす。

 かと思えば酷く怯えて、芋虫のように這いずり回ってはガタガタと震えたり。そんな状態がもう数日続いて、ついにはピクリとも動かなくなった。


 監視していた使用人の報告を受けて、私は彼の待つ部屋へと足を踏み入れる。

 途端に鼻をつく悪臭。思わず顔を顰めてしまう。

 それもそうだ。吐瀉物や排泄物はそのままの状態で、汗も何もかもを垂れ流したままなのだから。さすがの私でも、愛する人の排泄物まで愛せる自信はない……と思っていたけれど、明楽くんのモノだと思うと不思議と嫌悪感はなかったりする。触れても汚いと思えないのだから、私の愛は相当深いようだ。ふふ。


「明楽くん?」


 声をかけても彼はぴくりとも反応しない。

 床にうつ伏せに転がったまま、呼吸すらしているのか怪しいくらい。抱きかかえるようにして仰向けにしてみると、かすかに胸が上下していた。小さな体で懸命に生きている様子は、なんだか健気で胸を締め付けられてしまう。やっぱり私の恋人はどんな姿になっても可愛いのだ、と誇らしく思う。


「あーきーらーくん?大丈夫ですか?」


 大丈夫か、なんて私が言えたことじゃないけれど。

 彼は未だ反応を見せず、半分ほど開いた瞼の隙間から虚ろな瞳が覗いて見えた。どこを見ているのかも分からない目は、まさに「死んだ魚の目」といった感じ。

 仕方がないので持ってきたペットボトルの水をぶちまけて、強めに頬を叩いてやった。そこでようやく、反応らしい反応を見せてくれた。


「おはようございます」

「…………」

「喋らなくてもいいですよ。頷くとか、何かしらのサインだけで構いません」


 小さく。

 本当に小さく、彼は首を動かした。

 それに満足して、私は用意していたいくつかの質問を投げかける。


「ここが何処だか分かりますか?」

「……っ」


 力なく横に振られる首。

 

「なぜここにいるのか分かりますか?」


 同様に首を振る。

 注意して見ていなければ分からない程の弱々しさ。


「そうですか。では、私の名前は憶えていますか?」

「…………、ぁ」


 口が微かに動いている。

 何かを言おうとしているようで、だが声を出すほどの力も残っていない。頷くだけでいいと言ったのに、もう。


「憶えている、って意味でいいですか?」


 声を出すのを諦め、彼は頷く。

 私の名前は忘れないでいてくれて嬉しいけれど、教育完了まではもう一歩というところ。うん、上出来だ。これで仕上げを済ませれば、教育は全て終わる。


 ぱりぱりと乾いた髪を撫でて、明楽くんをそっと横たえる。

 ぼうっとした表情。何も理解できていないといったそれは、本当に私の琴線を震わせる。

 自分は何も悪い事をしていないのに、理不尽に閉じ込められ、苦しめられる。

 薬を使われて、飢餓と乾きに涙も枯れて、思考すらままならないだろう。「なんで僕がこんな目に遭うんだろう」なんて当たり前のことも。それでいいのだ。それを極限まで突き詰めてやれば、あとは簡単に壊れる。


「……本当はこれ、気が進まないんですけど」


 ごとり、と不穏な音を立てて、黒いバッグが地面に置かれる。

 中身は私のお気に入りの道具たち。「調教」で使い慣れたそれらは、明楽くん用にオーダーメイドした一級品だ。


「もう少しで終わりですからね。一緒に頑張りましょう、おーっ」


 とりあえず、一番使い慣れたものを手に取った。

 ざらざらとした黒い皮に、目いっぱいの砂を詰めたモノ。確か、トランプのゲームみたいな名前のやつ。なんだっけ……と考えるより早く、私の手は彼の腹部を捉えた。


「……っ、ぁッ」


 軽い彼の体が地面を擦って転がっていく。

 素肌についた擦り傷に、私は自分の言葉を思い出した。


「あ、そういえば傷付けないって言いましたよね、私。……まぁいいですよね。どうせすぐ忘れることになるんですし」


 本当に、本当に気が進まないが、これから定期的に彼に暴力を振るう。

 投薬も乾きもそのままに、トドメの痛みを与えてやる。そうしてようやく、彼は苦しみから逃れるために自分を壊し始めるのだ。自分じゃないもう一人の自分を作り出して、傷付けられる自分を切り離す。『明楽くん』はいなくなってしまうけれど、新しい『明楽くん』が生まれるのだ。


 それがお母様から教わったヒトの壊し方。

 過去も全て消し飛ばして、私たちの関係をイチからやり直す方法なのだ。


「……ふふ、くふふふっ」


 どすん、と鈍い音。

 壁際まで転がった彼の体が九の字に曲がる。


 どすん。

 どすん。

 どすん。


 一発ごとに、彼が私のものになっていくようで。

 か細く震える明楽くんを、何度も何度も打ちのめした。









 狭いマンションの一室にいた。


 見慣れた部屋は相変わらず暗かった。

 カーテンは閉め切られ、電気は半年も前から止められている。窓を開けることは許されていなかったから、夏に差し掛かったこの時期は特に地獄のような環境だ。少しでも涼しい場所を求めて、少年は小さな体を部屋の隅へと捻じ込んでいた。


 それでも茹だるような熱気に、少年は水道の蛇口を捻る。

 止まっていなくて良かったと少年は心の底から思った。流れる水を手で掬い、ごくごくと喉を鳴らして飲み続けた。

 食べれるものは四日前に尽きてしまっていたため、今はこの水が生命線だった。もう慣れたとはいえ、辛くない訳ではない。余計に鳴り響く腹の音に自然と涙が滲んだ。



―――おかあさん、まだかなぁ。



 母はまだ帰ってこない。

 このままだと死んじゃうのかな、とどこか他人事のように考えていた。

 帰ってこなければこのまま餓死するだけだろうし、帰ってきたら帰ってきたで今度こそ殺されてしまうかもしれない。先週は機嫌が悪かったようで、何度も首を絞められては失神するまで犯された。首に残った痣はまだ残ったままだった。


 それでも、少年は母の帰りを待っていた。

 コンビニで買ったモノを放り投げるだけでもいい。自分にいくら酷いことをしようが、この狭い空間で母は神に等しかった。その神に見捨てられるのは、死ぬよりも恐ろしい。


 父親も、大好きだった姉も別れたっきり会っていない。

 もう顔も覚えていない。会いに来ると言っていたのに。嘘吐き。もうどうでもいいけれど。



―――おかあさん。



 呼ぼうとしても、もう声も出ない。

 目を閉じると、母親の顔が浮かび上がる―――はずなのに、何故か今日に限ってぼやけていた。絵具で塗り潰したみたいに、顔だけがぐちゃぐちゃに歪んでいる。おかしいな、と少年はもう一度目を閉じて母の姿を思い浮かべた。が、それでも母親は出来の悪い落書きのようなまま。



―――あれ、なんでだろう。



 大好きだったお母さん。

 今でも大好きだ。酷いことはするし、自分を見ると泣いたり笑ったり喚いたりするけれど、それでも母親のことは大好きだった。


 目を開ける。

 ゴミだらけの部屋が消え、今度は大きなベッドの上にいた。

 あれほど苦痛に感じていた倦怠感も空腹感もなくなった。空調の効いた部屋は快適で、窓からは陽光が差している。まるでタイムスリップしたかのような状況でも、少年はおかしいとは思わなかった。


「あぁ、明楽さん。やっと起きたのね」


 気付けば、真正面に女性が立っていた。

 黒髪の美しい、どこか冷たさを感じる目をした女性は、少年を見て嬉しそうに笑った。手に持った注射器は不釣り合いだったけれど、それも何故か『当たり前』のように思える。それが当然とばかりに、少年は手首を差し出していた。



―――今日は痛くないといいなぁ。刃物とかは嫌だなぁ。



 「傷付けることが最大の愛情表現」だと彼女は言っていた。

 妙に納得していたのを覚えている。だから母親は、自分に暴力を振るったんだと思えたからだ。そう思わなければ狂ってしまいそうだった。


 やがて針が肌を突き刺して、中身が押し込まれる。

 何度も憶えのある感覚が体を駆け巡って、頭を焼き切ろうとする。女性はそれを見て嗤っていた。母親と同じように、黒い絵具で顔を歪ませながら。


 もう一度目を瞑って、ゆっくりと開く。

 今度は自分の部屋。机の上には教科書が散乱していて、ベッドには学生服の上着が放り投げられている。その隣に、スーツを着た女性の姿があった。



―――あぁ、またか。



 短く切り揃えた髪を掻き上げる。

 何か言っているが、少年には聞き取れなかった。同じくぐちゃぐちゃに潰れた顔を寄せて、女性は少年に覆い被さろうと手を伸ばした。


 唇を寄せる寸前、少年はまた目を閉じる。

 予想通り、開いた時にはまた別の場所にいた。

 今度は大きな部屋。外国のお金持ちが住むような、豪華なインテリアが並べれられている。深く沈むソファに座った少年は、隣に寄り添う少女の顔を見た。


「―――さん?」


 名前が分からない。

 言葉にしたはずなのに、声に出ない。瞬く間に少女の顔が黒く塗り潰されていって、にやにやと歪む口元だけはっきりと浮かび上がる。彼女も何か言っているが、やはり聞こえなかった。


 少女だったものは首を振ると、少年の首に手をかける。

 指を絡めて、ゆっくりと食い込ませていく。いつかの誰かと同じように。もうそれも思い出せなかった。



―――あぁ、誰だっけ。すごく好きだった気がするけど……。



 苦しさが次第になくなっていく。

 視界はだんだんと狭まって、鼻先に迫った黒い化け物が何度も言葉を繰り返す。

 相変わらず聞こえはしないが、唇の動きが何度も聞いたあの言葉だと理解させた。



―――あいしてます、あいしてます、あいしてます。



 ごめんね、と少年は答えた。

 なんで謝ったのか、何に謝ったのかも、分からなかった。


 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る