2章 / 雪那VIII / 明楽VI
二言、三言を交わして、雪那は目の前が真っ赤になった。
返り血が目に入った訳ではなく、ただ怒りで我を忘れてしまったのだ。
何度だって殺したいと思うほど憎い相手をようやく始末して、あとは最愛の弟を救い出すだけ。記憶を弄られているとはいえ、自分の顔を見れば思い出してくれると思った―――いや、思い出さなくても、何かしら変化があってくれればと願っていた。桐生 和葉がそんな雑な仕事をするはずはないと知っておきながら、私だけはすぐに思い出してくれると信じていたのだった。
が、実際のところ。
明楽は思い出すどころか、酷く怯えた表情のまま。
震えた体を後退らせ、シーツで身を守るように丸まって。
涙で滲ませた瞳を彼女に向け、近づこうとするたびに悲鳴を上げた。
「……なぁ、明楽。冗談だろ。私だ、雪那だよ。お前の姉だぞ」
「僕、はっ……タクミです。あきらって名前じゃ……!」
「ふざけるな!お前は明楽だろう!タクミなんてあのクソガキが勝手に付けた名前だ!」
抑えつけていた感情が爆発する。
激昂は明楽をより怯えさせ、視線を交わすことすら難しくさせた。
「どうしてだ、なぁ。お前の為にずっと生きてきたんじゃないか。なのにお前は……!」
雪那の思考は至ってシンプルだった。
初めて出来た弟は、信じられないほど可愛く思えた。愛らしくて、いつも彼を構った。両親が共働きだったこともあってか、雪那は姉というよりは母親のように振舞った。雪那は母親とは険悪だったせいで、明楽のことを唯一心の許せる肉親のように思っていた。
「どうしてお前は、私を見てくれないんだ……いつもいつも、私ばかり……!」
「そんなの、僕には関係ない、っ」
「関係ない?本気で言ってるのか。記憶がないとはいえ、私に向かってそんな口を利くのか、お前は」
「ひと、違いです……!」
「人違いなもんか!お前は私の弟だ!何よりも誰よりも愛してる弟だ!!」
少年の華奢な肩をベッドに押し付けて、雪那は咆哮した。
唾が飛び、まだ乾いていない血が明楽の頬を汚す。肩を掴む手は女性のものとは思えない程の力が籠っていた。
「嫌だ、やめっ……!」
「お前は私のものだ。あんな奴に、誰が渡すか!」
理性なんてとっくに吹き飛んでいた。
明楽がいなかった数カ月は、まるで地獄のような日々だった。食事はまともに喉を通らず、眠れば悪夢ばかり。睡眠不足で幻覚まで見える始末だ。里桜の言葉を信じて―――というよりは、縋り付く思いでこの日を待ったのだ。それなのに。
明楽の発した言葉の一つが、和葉の逆鱗に触れてしまった。
「かずは、さん……!」
♪
ほとんど反射的に、衝動に駆られるまま首に手を伸ばした。
幼い頃に母親から明楽を守ったのも、引き取ってから彼を育てたのも私だ。
妻と縁を切るために息子を売ったクソ親父を殺したのも。
姉弟二人で生きていくのに、不自由な思いをさせないようにと仕事に必死になったのも。
失語症になって、部屋から一歩も出れなくなった明楽を立ち直らせたのも。
全て、全て私のおかげなのに。
「なんで、なんでだ……あのクソガキが、そんなに良いのか」
「……っ、か、あぁッ……!」
「私よりもあいつか。私がどんな思いで、今まで……!」
許せない。
私を忘れてしまったのはまだいい。すぐに思い出させる自信はあったし、なんなら都合の良い面だってある。
ただ、あの女の名前を呼ぶのは許せなかった。
私を目の前にして、あの女に助けを求めるのだけは。酷い裏切りだと思った。今までの想いや生活、積み重ねてきたモノが全てひっくり返されたような感じ。愛憎とはよく言ったものだ。こんなにも愛しているのに、どうしてこんなにも憎いんだろう。
爪が皮膚を突き刺して、ぷつりと朱が零れ出る。
ばたばたと足を振り乱して抵抗する明楽に顔が、酷く苦しそうに歪んでいた。
「許さない。許さない。そんなの許せるか、明楽ぁっ……!」
桐生 和葉と違って、殺す気なんかない。
ない、はずだ。
明楽は口をぱくぱくとさせていた。
細い首はみしみしと軋んでいる。このまま締め続ければ、窒息か首が折れるかのどちらかだ。手を緩めなければ、と頭の中では分かっていても、体が言うことを聞いてくれなかった。
「なぁ、頼むよ。また前みたいに二人で暮らそう。そうすれば、全部上手くいくんだ……!」
頷けるはずもない明楽は、目尻から涙を零した。
私の腕を掴む手も、バタつかせていた足も、徐々に力を失っていく。
「なぁ、なぁ、なぁ。どうして何も言ってくれないんだ。私のことが嫌いなのか。あの時のことは謝るよ。もうしない。しないって誓うから、なぁ……」
「ぁ、ッ……ぅ、あぁっ」
きっと今私が言っていることさえ、明楽は理解していない。
そもそも耳に入っているかすらも分からない。入っていたところで、何の話やら、といったところだろう。今のこいつはタクミであって、明楽ではない。それもこれもあのクソガキのせいだ。が、明楽に罪はないと頭では理解していても、手の力は強まるばかりだった。
「あぁ、頼むよ。明楽、私とまた……!」
昔みたいに。
もう一度やり直してくれ、と言う前に、私の意識は闇に落ちた。
♪
ユキナという名前に聞き覚えはなかった。
ただその名前を聞くたびに頭が痛む。
あのハスキーな声も知らないはずなのに、どこか懐かしい感じがする。
僕のことを「あきら」と呼ぶ彼女は、一体誰なのだろう。姉だと言うけれど、もしそれが本当なら和葉さんの言葉は何だったのだろう。どっちを信じればいいのか―――なんて、考えるだけで嫌気が差す。
正直なところ、今の僕にとってはどっちでもいいのだ。
ついこの間までの記憶はなくて、常に付き纏う不安が拭い切れない日々を過ごして。
それでも和葉さんの言葉を信じて生きていこうと、ようやく割り切れ始めたのに。今さらになって家族を名乗る女性が現れても、どうしていいか分からなかった。
(いやだ、なんでこんな事ばっかり……!)
姉だと言い張る彼女は、和葉さんの言葉が嘘だと言う。
自分が唯一の肉親で、今まで僕を育ててくれたのだと。狂気的な執着心を隠そうともせず、僕に向かって吠えていた。
それから彼女は僕の言葉や態度が不満だったのか、怒りを露わにした。
鬼のような形相で、その手を僕の首に掛けた。手加減なんか欠片もない力を込めて、僕の首をへし折ろうとする。抵抗なんて意にも介さずに、彼女は懇願と謝罪を口にしながら、僕を殺そうとしたのだ。
(誰か、かずはさん……っ)
彼女はどこにも見当たらない。
意識が薄れていく。視界は狭窄して、押し退けようと抵抗する手足もだんだんと動かなくなってきた。
不思議なことに、こんな状況も何故か懐かしいとさえ思ってしまう。誰かに傷付けられることとか、殺されそうになることとか。記憶はなくても、体は覚えているのかもしれない。と考えて、あぁそうかと納得した。
きっと僕は思い出せないんじゃなくて、思い出したくないのだろう。
昔の事なんてどうでもいいと感じてしまうのも、きっとそのせいだ。体の傷を見ればいくら僕でも気付く。交通事故で、こんな誰かが意図して付けたような傷が残るはずがないのだ。
体の力が抜けていく。
頭もぼうっとして、考えるのも面倒臭い。この人が本当に姉だろうが構わなかった。僕を傷付けようとする人の言葉なんて、心底どうでもいい。
ぴしりと音を立てて、僕の中の何かが壊れていく。
女性はずっと何かを言い続けていた。涙すら見せる彼女は、酷く悲しそうな表情だった。
(……あれ、なんだろう。見たこと、あるような……)
指に力が入っていく。
体重をかけるように、彼女が前のめりになった。あぁ、と諦めの気持ちが全身の力を奪っていく。もうこれ以上は無理だ。もう少しで思い出せそうなもどかしさは、暗くなっていく頭の中に消えていった。
(……もういやだ、もう)
どうせ死ぬなら、全部に目を背けたかった。
泣き出したくなる気持ちを胸に、僕は目を瞑る。
ぱん、と弾けた音が聞こえたのは、その直後だった。
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