2章 / 和葉XIII

 暴力は好きではないし、振るわなくて良いのならそれに越したことはない。


 その相手が愛しい恋人であれば、尚更のことである。

 あの白くて柔らかい頬を叩くなんて。

 強く抱き締めたら折れてしまいそうな身体を蹴り飛ばすなんて。

 さらさらの髪を掴んで、硬い床に叩きつけるなんて。


 そんな暴力的な躾を、考えた事がない訳ではないけれど。

 八方美人で、自分の彼女がどう思っているかなんて考えても無いような行動をする彼を、お仕置きする想像くらいはしたりもする。

 彼の過去を考えればあり得ないような行為ではあるが、自分以外の誰かが「それ」をしたのだと思うと胸が騒めいてしまう。実際、彼の母親も、黒川もやった事なのだ。そんな事実を突きつけられたのだから、和葉の心は酷く乱れたままだった。


(明楽くんは、どう思ってるんでしょう)


 仕方なく付き合ってる訳ではない、と言った。

 その言葉を鵜呑みにするのであれば、少なからず自分に好意を抱いてくれているという事。少し前なら踊り出しても良いくらいに嬉しい事ではあるけれど、今はなんだか微妙である。


 明楽は嘘を吐く。

 隠し事だってするし、姉と関係した事も黙っていた。

 根拠もなしに明楽は嘘や隠し事をしないタイプだと思っていたのだ。勝手に抱いていた幻想ではあるものの、それは和葉にとっては大きな衝撃だった。

 隠し事の内容も相まって、心の中は「裏切られた」とぐちゃぐちゃに掻き乱されてしまった。


(言えなかった、のか。それとも言わなかった、のか。まぁ今さら、どっちでもいいですけど)


 意味合いは違えど、事実は変わらない。

 恋人として誰よりも彼の近くにいると思っていたのに。

 蓋を開けてみれば、良くて二番手か三番手。下手をすれば、あの男友達よりも距離は遠いのかも知れない。なりふり構わず凶行に走った黒川よりも、家族という関係を捨ててまで身体を重ねる姉よりも。

 恋人になれたのだと浮かれてヘラヘラとしていた自分がまるでピエロのように思えた。


 ———まぁ、そんな道化にもプライドはある。


 ようやく手に入れた少年を、手放すなんて真似はしない。

 自分の立ち位置は分かった。

 やるべき事も理解した。後悔と反省はもう十分で、挽回できるチャンスは大いにある事も見出せた。


 うん、と和葉は頷いた。

 明楽の弁明も終わりに近づいている。半分くらいは聞き逃しているけれど、問題はないだろう。過去は過去。大切にすべきは二人の未来なのだから。


 ぎしり、とベッドを軋ませて、和葉は少年に向き直った。

 少年の言葉が途切れて、不安そうな瞳が自分を見つめている。捨てられた子犬のような、怒られる寸前の子供のような、怯えた色を含んだそれ。素直に悪くないと思ってしまった。


(あぁ、やっぱり私は)


 細い腰に手を掛ける。

 ぴくりと跳ねた身体を引き寄せて、優しく———努めて平静を装って、少年との距離を潰していく。


 あの、とか。その、とか言う少年の口を手で塞ぐ。

 おどおどとした態度は可愛らしいけれど、今はそんな余裕はない。手の平に感じる湿った温もりを楽しみながら、彼に黙るよう目で訴えかけた。


「……そうです。いい子ですね」


 理解したのか、明楽は口を閉ざした。

 相変わらずビクビクと怯えたままで、能面を貼り付けたような表情の少女を見上げる。それでも前髪で遮られた奥の瞳が、爛々と光を放っていた。


 腰に回された手に力が込められた。

 逃がさない、という意思表示。彼が仕舞い込んでいた後ろめたい事も、言い訳も聞いた。あとは清算して、「これから」をどうするかという話だけ。


「じゃあ、お仕置き……の前に。これからの事、話しましょう?」


 私は上手く笑えているだろうかと、少女は思った。




 ◇




「くそっ。マジか……」


 オフィスの一角。

 広々としたフロアにはデスクが並べられていて、昼時でも多くの社員たちが忙しなく働いている。繁忙期でなければ近隣でランチを楽しむのだが、あいにく今日もまともに昼食は取れそうになかった。


 デスクに伏せていた社用のスマートフォンがぶるぶると震えているのに気付き、雪那は思わず舌打ちをしてしまった。

 やっと出来た休憩時間を使ってコンビニにでも行こうかと思っていた矢先の連絡。経験上、この時間の電話はロクなことがない。緊急でなければ社内共通のチャットツールで連絡が来るため、電話連絡というのは本当に急ぎの要件———だいたいがトラブルか、頭を抱えたくなるような面倒ごと———なのである。


 雪那は露骨に嫌そうな表情を浮かべて、スマートフォンの画面を見た。

 案の定、トラブルメーカーとして有名な後輩の名前が表示されていた。最近スタートした大きな案件を、自分がリーダーとなって進めたいと躍起になっていた女である。そのくせ他チームの雪那にこそこそと助けを求めては、ちゃっかり自分の手柄にしようとしたりと、あまりいい感情はもったいなかった。


「あーもう、出たくないな……」


 ちらりと隣に座る同期が雪那に視線を送った。

 同情というか、憐れみというか、複雑な思いの詰まった目である。口は小さく「ドンマイ」と言ってる辺り、彼もこの電話がロクでもない事だと思っているようだった。


 雪那は二度目の舌打ちをした。

 相変わらず震え続けているスマートフォンを差し出して、ぶっきらぼうに言った。


「奢るから、代わりに電話出てくれ」


 ふざけているようだが、本人は至って真剣だった。

 同僚はけらけらと笑っている。彼女に降りかかった不幸が楽しくて仕方ないらしい。手をひらひらとさせながら、そっと差し出されたそれを押し返した。


「嫌だっつーの。今日は早く帰りたいんだって」

「昨日も早くに帰っただろう」

「そういうお前こそ最近定時ばっかりじゃねぇか。諦めて助けてやれよ」


 なんで私が、とぶつぶつ文句を言いながら、雪那は通話ボタンをタップした。

 途端に電話越しに甘ったるい声。新卒三年目でそれなりに仕事も出来る女性ではあるが、あまりにも媚を売ったりあざとい言動をするためか、一部から批判的な噂を流されていたりもする。

 雪那としてはそんな評価はどうでもいいのだけれど、こうも何度も面倒ごとを持ち込まれると苛立ってしまう。


『あ、先輩!やっと出てくれました!』

「……なんだ」

『すみません、ちょっとご相談したいことがありましてぇ……』


 語尾を伸ばして話すな、と眉間にシワが寄る。


「今度は何があったんだ」

『クライアントと少し揉めてしまってましてぇ……先輩にアドバイスを頂けたらなって』

「今回の案件はお前がリーダーとして進めるんだろう?サポートの上長も付いていると聞いたが」

『そうなんですけどぉ』


 魂胆は分かっている。

 評価をするのはその上司で、雪那ではない。大口を叩いた以上「自分の力でやりました」と示したいのだろう。だから案件に関係のない雪那にこっそりと相談を持ちかけたのだ。


 仮にも先輩である自分をそんなふうに使おうだなんて、そもそも理解に苦しむのだけれど。


 とはいえ、突っぱねるのも難しかったりする。

 仕事の相談を断る理由がないし、最近は定時で帰っているため、忙しいという口実は使えないのだ。


「……」

『だめですかぁ?』

「……分かった。後で私のデスクに来い。詳細は先にチャットで送ってくれ」

『やったぁ、ありがとうございますー!』


 うるせぇ、と言いそうになって、なんとか言葉を飲み込んだ。

 その会話を聞いていた同僚が「相談程度で済んだらいいな」と笑う。済むわけないだろう、と頭を抱えて、とりあえず思い切り足を踏んでやった。


「はぁ……終電までに終わるといいけどな……」


 いてぇ、と喚く同僚を尻目に、雪那は弟に向けてメッセージを打ち始めた。




 ◇




 彼の母親がそうしたように。

 黒川が彼を縛り付けたように。


 必要なら体に教え込むのも仕方ないのでは、と和葉は結論を出した。

 後遺症を残したり、今後の生活に支障をきたすようなトラウマさえ無ければ。

 少し……ほんの少しだけ、彼の心と体に楔を打ち込むのはアリなのかもしれないと、和葉はここ数週間考え続けていた。


「さて、少し言いたい事があります」


 こくり、と少年は頷いた。

 涙を浮かべて、怯えた子犬のように体を震わせている。これではどちらが悪者か分からないが、二人きりの部屋の中では、他人の目を気にする必要もなかった。


「さっきも言いましたが、私は明楽くんを愛しています。お仕置きとはいえ、お義母さまのように貴方を傷付けるつもりもありません」

「……うん」

「だから色々考えたんです。どうすれば明楽くんに分かってもらえるかなって。殴ったり蹴ったりしなくても、貴方の心に刻めるように」


 ずっと、ずっと考えていたこと。

 彼の母親を、姉を、黒川 菖蒲を超えられるのか。

 彼が余所見をせずに、自分だけを見てくれるようになる方法を。

 何度も眠れない夜を過ごして、狂ってしまいそうな嫉妬を乗り越えて、和葉は一つの解決法を思い付いたのだ。


 腰に回した腕を引き寄せる。

 俯きがちな明楽の頬に手を添えて、覗き込むように目を合わせた。


「それで一つ、気付いたんです。こんな事になったのは明楽くんが悪いんじゃなくて、悪いのは周りにいる人たちなのかもって」


 え、と少年が声を漏らす。

 和葉は構わずに言葉を続けた。


「お義母がいなければ、黒川がいなければ……お義姉さまがいなければ、明楽くんはあんな目に遭わなくて済んだと思いませんか?」

「それはっ……そんなこと、ないと思うけど……」

「本当に?肉親がいなきゃ良かったなんて思っちゃいけない、なぁんて考えてるからではなくて?」

「……っ」


 添えた手をゆっくりと滑らせていく。

 優しく顎を掴んで、また伏せようとした目を無理矢理引き上げてやる。相変わらず涙は浮かべてはいるが、許してあげるつもりなんてなかった。

 なにせ和葉にとっては今後の人生を左右すると言ってもいいくらいの大問題なのだ。それにケリをつけようと言うのだから、多少の強引さは仕方ない。


「いいですか、よぉく聞いてくださいね?」


 ふふ、と笑う。

 明楽の目に溜まった涙が溢れかける。堪らなくぞくりとした背筋を震わせて、和葉は少年の目尻に唇を寄せて言い放った。


「今度浮気したら———その相手、殺しちゃいますよ?」


 言って、溢れた涙を舌で掬い取った。







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