2章 / 和葉 XII

 私はただ愛していると言って欲しかっただけだった。


 誰よりも愛する人に、愛して欲しかっただけ。

 寄り添って、私だけを見て、抱き締めて欲しかった。そこら辺の女の事変わらない、誰でも思うようなお願い事。別に難しい事を言っている訳でもない。


 ただただ、私は彼と愛し合いたかっただけなのだ。


 それなのに、私の周りには敵ばかり。

 百歩……いや、千歩譲って恋敵がいるのは仕方がない。

 彼はそれだけ魅力的な男性だし、恋人がモテるのは彼女として鼻が高いから。彼氏が容姿や性格で周囲から貶められるよりは遥かにマシだった。

 だからと言って、私から奪おうとするのであれば話は別だ。

 友人であれ、他人であれ、はたまた彼の親族であれ。明楽くんは既に私と付き合っているのだから、私の目を盗んでちょっかいを掛けるのは許せない。

 ましてそれが身体的な接触を目的としているのであれば、その首をへし折られても文句は言えないのだ。


 やるならせめて、それくらいの覚悟は持って貰わなければ。

 私としても、始末し甲斐がないというものだ。


「私のこと、愛してますか?」


 それはもちろん、私にも、明楽くんにも言えること。

 私は私の愛を彼に捧げた。これからもそれはきっと変わらないと誓って言える。それくらい、彼に心酔している。

 彼もまた、それに応えたのだ。

 私の告白に、彼はイエスと答えた。それはつまり「僕も貴女を愛しています」と宣言したと同じ事で、でなければ彼はあの時ノーと答えるべきだったのだ。

 

 そうだ。

 隠し事をするくらいなら。

 嘘を吐くくらいなら。断れなくて、私の告白に頷くくらいなら。


 彼はあの時、ノーと答えるべきだった。


 私を裏切るくらいなら、彼は頷くべきではなかったのだ。







「ねえ、どうなんですか?」


 鬼気迫る迫力に、明楽は身動き一つ出来なかった。

 鼻先から数十センチ先、丸く瞳孔の開いた目に明楽は本能的な恐怖を感じた。彼の知る和葉とは全く別人かと思うような、黒く濁った瞳。光は無く、奥でくすんだ火が明楽を捉えた。


「答えられないんですか」


 肩を掴む手に力が入る。

 半袖のワイシャツがぐしゃりと皺を作った。毎晩綺麗に研いだ爪が食い込んでいくのが分かる。痛むのだろうか、それとも困惑のせいだろうか、少年の顔が悲し気に歪んでいた。


 対する明楽は、突然の事にただ驚いていた。

 本人からしてみれば、単純に元気の無かった和葉を心配しての言葉だったのだ。それがいつの間にか、鬼気迫る表情で問い詰められている。「愛しているか」と迫られるのは以前にも何度かあったが、ここまで切羽詰まった様子で訊かれるのは初めてであった。


 何にせよ、答えは変わらない。

 今は色々あるにせよ、裏切ってしまった事実はあるにしても、彼女の事は本気で好きなのだ。


「好き、だよ……」

「本当に?」

「本当だって。じゃなきゃ付き合ったりなんか……!」

「そうですか?告白されて、断れなかっただけではありませんか?」


 少年は「まさか」と首を横に振った。

 確かに自分は優柔不断で、あまりはっきりと物事を言えるタイプではない。流されるままに意思決定してしまうことも多い。が、それとこれとは話が別である。

 和葉の事が本当に好きだと思えるからこそ、自分は告白を受けたのだから。


 明楽はかぶりを振って答えた。


「そんなことないよ!」

「へえ、そうなんですか」


 嘘つき、と掠れた声が耳に入る。

 明楽にとっては嘘でも何でもないのだが、彼女にはそれが信じられないらしい。心当たりはあるものの、「断れなかった」なんて考えたこともないのだ。


「嘘なんか―――」

「だったら、なんで」


 声が震えた。

 彼は嘘を言っているようには見えないし、きっと本心からの言葉だろうと信じたかった。細い肩に爪を食い込ませて、和葉は吐き出すように言葉を続けた。


「なんで、嘘吐いたんですか。なんで私に隠し事するんですか」

「……隠し事、って」

「私が何も知らないと思ってるんですか?本当に?」


 惚けるなら惚ければいい。

 事実はとっくに掴んでいる。言い訳を聞いてやってもいいが、笑って話し合えるような余裕はない。明楽の前で取り繕っていた理想の自分の面は、とっくに剥がれてしまったのだ。


「昨日の夜、どこにいたかも」


 ぐだぐだと言い訳を並べようとする少年の言葉が詰まる。

 ほら見ろ、と思った。後ろめたさが含まれた汗が、少年の額を流れている。それを見逃してなんかやるつもりはないのだ。


「お義姉さまと夜、何をしているかも」


 ぐさり、と核心を突いてやれば、少年はぎゅっと目を瞑って、顔を伏せてしまった。

 決定的な反応だった。面と向かって秘密を抉られてしまえば、取り繕えるはずもない。明楽がそんな器用な人間ではないことは、和葉がよく分かっていた。


 ぺきりと指が鳴った。

 肩から手を離せば、じんじんと痺れる指先が薄く赤らんでいた。

 そのまま目を逸らす少年の顎に指を掛けて、許してやるもんかと顔を上げさせる。こんな話の最中でなければ―――もっとムードが良かったりすれば、キスの一つくらいしてもいい感じのシチュエーションなのに。残念だと思える辺り、やけに冷静になっている自分に笑えてしまった。


「私が気付いてないとでも?甘いですよ、明楽くん。私がどれだけ貴方の事を愛していると思っているんですか」

「……っ、その」

「分かってないんですよね、きっと。私が今までどんな思いをしてきたかなんて。口では分かった、とかごめん、とか言っても、本気で理解してくれてないんですよ」


 はは、と笑みが零れる。

 笑えることなんて一つもないのに。何よりも大好きな少年に、こんなにも嫌な態度を取っているのに。そんな自分に何よりも嫌悪しているのに。


 和葉は少年の手首を掴んだ。

 ぎり、と握り締めて、彼が出てきたばかりのドアに向かって歩き出す。明楽が困ったような声を上げようが、珍しく抵抗の意思を示していようが関係ない。無理矢理に少年を引き摺って、オートロックの前まで連れ出した。


「開けてください」

「え、ちょっと、学校は……」

「開けろと言ってるんです」


 びくりと体を震わせた少年が、学校指定のバッグから鍵を取り出す。

 和葉も合い鍵は持っているのだが、彼に開けさせたかったのだ。自分が怒っているのだと、拒否権なんてないのだと理解させたかった。

 びくびくと和葉の様子を伺いながら、明楽は鍵を刺し込んだ。

 ガラス張りの自動ドアが開くと、和葉は「行きますよ」と冷めた声で明楽を促した。


「色々、話し合わなければいけませんから」


 話し合いで済めばいいですけど、とは言わない。

 どんな事をしてでも、二人のために要らないモノは取り払わなければならないのだ。









 部屋に入るなり、和葉はカバンを放り投げて家中を漁って回った。


 リビングから始まり、バスルームやトイレを見た後で、明楽の寝室へと入っていく。一度だけ訪れたことのある部屋は、一見すれば変わり無いようにも見えた。

 が、乱れたままのベッドを見るなり、腹の底から沸々と湧き上がるモノを感じてしまう。想像通りに―――嫌な予感通りと言うように、和葉はそのベッドに腰掛けた。


「昨日はここでシたんですか?」


 す、と乱雑に掛けられたタオルケットを払い除ける。

 皺が寄った白いシーツに手を触れた。僅かに感じる湿り気に眉を顰めて、その指先を見せびらかすように近付けると、生臭い残り香が鼻をついた。


「ほら、こんな匂いまで残して……何か言うコトがあれば、聞きますよ」

「……ない、よ」


 自室の入り口。

 今にも泣き出してしまいそうな少年は、力なく座り込んでしまった。自分の意思ではないとはいえ、和葉を裏切っていたのは事実なのだ。それを知られてしまった以上、どんな言葉も無意味なのは分かっていた。


「明楽くん」

「……なに」

「勘違いして欲しくないんですが、私は今でも明楽くんの事を愛しています。隠し事をしていても、毎晩のようにお義姉さまと関係を持っていようともです」


 努めて冷静に。

 腸は煮えくり返っていようとも、その矛先を彼に向けるのはまだ早い。言い分も聞いてなければ、彼がなんの理由もなしに不義をするような人間でもないのだから。


 和葉はぽんぽん、とベッドを叩く。

 少し逡巡したあと、明楽はのろのろと立ち上がって彼女の隣へ腰掛ける。瞬間、和葉は少年を抱き寄せた。


「……正直、今すごく腹が立ってます。浮気したことも、嘘吐いて隠してたことも。こんなにショックだったことはありません」

「……うん」

「でも同じくらい、明楽くんの事が好きなんです。それに―――」


 言葉を区切って、明楽に向き直る。

 彼の目は涙ぐんでいた。胸がぐっと締め付けられる姿でも、今はそれ以上の怒りが勝っている。泣けば許してもらえると思ったら大間違いなのだ。


「それに。まだ明楽くんの言い分を聞いてませんから」


 彼を許すのは、それを聞いた後で。

 許すかどうかはその言葉次第だけれど、それなりの罰は受けて貰わなければならない。自分で言った言葉の責任は、その体で取るべきなのだから。


 だから、と和葉は続けた。

 部屋は暑苦しいくらいに熱が籠っていた。じんわりと滲む汗も気にしない。少しくらい火照っていたほうが、今の自分には好都合なのだ。


「聞かせてください。一から十まで、事細かに。今度嘘を吐いたら、私何するか分かりませんよ?……その後で、しっかりお仕置きしてあげますから。仲直りはそのときにしましょうか」


 和葉は自分でも意識しないまま、歪に嗤ってみせた。

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