和葉 XIII

 本館の裏口から出て数分の所に、使用人用の別館がある。


 使用人用とはいえ、外観は屋敷の見た目に合わせて豪華な造りになっていた。

 内装もほとんど変わりなく、住み込みで働く十人それぞれに個室も用意されている。バストイレ、個人用キッチン完備の上、地下には大浴場も備え付けられていたりと使用人の間ではかなり評判が良かった。

 

 その三階建ての別館の一階、一番奥の角部屋。

 一番大きなその部屋は使用人たちの談話室である。普段はコの字に並べられたソファで寛いで、雑談やゲームを楽しんだりと緊張とは無縁の空間だ。

 というのも、この別館には和葉を含む桐生家の人間は立ち入らないのが暗黙の了解となっていた。多少騒いだところで本館までは響かないし、和葉たちも勤務時間外まで口を出す気はなかった。余程の事がない限りは、この場所は使用人たちの城のような扱いであった。


 そんな場所に、この夜は緊張感が走った。

 談話室の中心で、真琴が直立不動の姿勢で立っていた。臍の下辺りで手を組んで、背筋はぴんと伸ばしたまま。目の前で憂鬱気に語る女性の言葉を、一言一句聞き漏らすまいと神経を張り巡らせていた。


「なんだか大変そうね」


 はい、と歯切れよく答える。

 それ以上の答えは要らないらしく、女性は溜息を吐いて目を瞑った。

 背の高い、大人の雰囲気を纏った女性だった。シンプルな黒いドレスに映える白い肌と、目元の泣き黒子がやけに妖艶な印象を与える。実年齢は四十路に届くのだが、見た目は多く見積もっても三十台前半といった感じだ。


 栗色の髪を指でくるくると弄っては、何か考え事をしているようだ。しばらく無言と溜息の時間が流れた後で、女性はソファに深く腰掛けた。


「母親としては助けてあげたいのだけれど」

「お嬢様が嫌がります」

「でしょうね。あの子ったら、自分で何とかするって聞かないんだから。少しくらい親に甘えたっていいと思うんだけれどねぇ」

「明楽様に関しての事柄は、私どもがサポートしておりますので」


 言外に「だから邪魔をするな」と言っているのだが、そんな慇懃無礼な言葉を女性はあまり気にしていないようだった。

 彼女が出しゃばるのはどうしても避けたいのだ。

 過程よりも結果を徹底的に追及するのが彼女のやり方なのだから、和葉の意思を捻じ曲げかねなかった。


「冬華様は変わらず、お見守り下さい」

「見守った結果がアレでしょう?いくらなんでもやり過ぎじゃないかしら」

「それは……」

「本来なら世話役の貴女が諫めるべきだと思うのだけれど」


 じろりと睨まれ、真琴は口を噤んだ。

 和葉の母、冬華の言い分は最もだった。世話役というのは付き従うだけでなく、主人が道を踏み外さないように眼を光らせておかなければならない。

 この仕事に就くとき、冬華からその旨は聞かされていた。ある従者としてではなく、姉として導いてほしいと。が、長い間一緒にいたせいか、どうしても甘くなってしまっていたのだった。

  

 こほん、と咳払いを一つして、冬華は前のめりになった。

 おっとりとした垂れ目が剣呑な光を帯び始める。普段は温厚な性格でも、桐生家の現当主なのだ。その気になったときの迫力は和葉の比ではなかった。


「今はまだ、様子を見ておいてあげる。私の早いうちに孫の顔も見たいしね。貴女は和葉ちゃんに手を貸して、さっさとその男の子を取り込んでちょうだい」

「承知しました」

「それと」


 眼光がさらに鋭くなる。

 真琴の背中にぞくりと悪寒が走った。冷や汗が滲み出て、組んだ手が震え始める。今は辞めてしまった使用人の一人が、彼女の事を「魔女」と称していたのを思い出した。


「やるなら、あの子ではなく貴女が。言いたい事は分かるわね?」

「……承知しております」


 真琴は頭を深く下げた。

 前髪からぽたりと汗の雫が垂れる。今になってワイシャツが肌に張り付いていることに気付いた。冬華の視線が外れると、真琴は気付かれないよう深く、ゆっくりと息を吐いた。


 彼女の言葉の意味は、真琴にとっては以前から考えていた事だった。

 今の和葉の行動は、はっきり言って度を越している。いくら桐生家の後ろ盾があるとはいえ、一つ間違えれば彼女の経歴に傷が付くハメになるだろう。

 自室での彼女の様子からしても、これ以上は見守るだけでは明らかに不足である。なにより冬華の言葉以前に、真琴自身が和葉の力になりたいと思っていた。


「私にお任せください」

「……そう。ならいいわ」


 にこりと笑って、冬華は立ち上がった。

 黒いドレスを翻して、一瞥もくれずに部屋を後にする。ぴりぴりとした空気が一気に弛緩した。部屋の端で黙って立っていた使用人たちも、安堵したように一息ついた。


 真琴はそのまま、彼女が部屋を出ていくまで頭を下げていた。

 遠回しな説教のせいでも、蛇に睨まれたカエルのような自分が悔しかった訳でもなく、ただ窓辺に佇む主人の姿を思い浮かべて。噛んだ唇から血が滴って初めて、真琴は顔を上げた。


(私が、お嬢様を)


 血は繋がらなくても、立場は違えど、和葉は自分にとって大切な人だ。

 冬華よりも、泣き父君よりも、誰よりも長く彼女の傍にいたのだから。


 真琴は心配する同僚を無視して、自室へと戻っていった。









 悩み事があるとはいえ、和葉の一日は変わらない。

 

 起きてからのモーニングルーティーンも、十着ある制服の着る順番も、きっかり八時丁度に明楽の自宅マンション前に立つことも。

 上手くいっていないからと言って生活自体を変えるつもりはなかった。

 ジンクスは信じない方だし、変えてどうにかなるとも思えない。それよりも今は自分の表情を取り繕うのが精一杯で、それ以外の事を考えている余裕がないのだ。


 マンションの前のガードレールに腰かける。

 天気は嫌味なくらい快晴だ。真っ青な空に、ほんの少し混じる程度の白い雲。前日の雨のせいで軽く湿気は残っているが、直射日光の下でも涼しさを与えていた。

 歩くには申し分ない環境でも、和葉の表情は一向に晴れない。

 明楽の前では無理矢理にでも笑うつもりでも、一人の時はあからさまに不機嫌さを表に出してしまうのだった。


「……はぁ」


 気が重い。

 これから明楽と並んで登校すると言うのに、心はどんよりと曇ったまま。

 原因も解決方法も頭では分かっているけれど、それを実行する勇気がないのだ。たった一言、隠し事はあるかと訊けばいいだけ。隠し事があっても怒らない……とは言い切れないが、少なくともこの鬱屈とした暗い感情を晴らすキッカケにはなるはずだ。


 が、答え次第ではこの関係が壊れてしまうかもしれない。

 ずっと望んできた、この関係が。


「はぁ……もう」


 今日何度目かの溜息を吐く。

 腕時計を見れば、午前は八時を少し回った辺り。ふと視線をマンションへ向けると、丁度明楽がガラス張りの自動ドアから出てくる所だった。


「和葉さん」


 のほほんとした、いつもの少年。

 笑って手を振る彼の姿は、今の和葉には目を逸らしたいくらいに苦しかった。


「おはようございます、明楽くん」

「おはよう。晴れて良かったね」

「ええ、ホント」


 鬱陶しい青空ですね、という言葉は心の中だけに留めておく。

 にこにこと笑っている明楽を見ているだけで、ぐずりと胸の中で何かが疼いた。いつも通りの可愛らしい笑顔だ。歳より幼く見えるせいで母性本能を擽られる。

 

―――それもまた、今は違う感情が顔を覗かせていた。


「……どうかした?」

「いえ、何でもありませんよ」

「そう?でも何だか―――」

「遅刻しちゃいますし、行きましょうか」


 言葉を遮って、和葉は明楽の手を取った。

 こんな時だけ自分の機微に気付くなんて、とつくづく思う。それが後ろめたさからなのか、それとも自分が隠し切れていなかっただけなのかは分からないが、彼の行動一つ一つに疑いを持ってしまう自分が嫌だった。

 

(何なんですか、もう……)


 苛立ちは収まらず、掴んだ手を握って歩き出す。

 背後から「ちょっと待って」と声が上がるが、唇を噛んで無視をした。


「ねえ、和葉さんってば……!」

「なんですか」


 振り返らない。

 どんな顔をしていいか分からなかったのだ。マトモに笑える自信もないし、落ち着くまでは目を合わせたくなかった。

 

 当然、明楽は困惑した。

 明らかに和葉の様子はおかしかった。事あるごとにじっとこちらを見てばかりだったのに、今日は一度も目が合わない。言葉もどこか固く、笑顔は引き攣り気味。その上この素っ気なさは、彼女の言う「何でもない」とは程遠い態度だった。


「本当にどうしたの?僕が何かしたなら、謝るからさ……」

「だから、別に何でもないって言ってるじゃないですか」

「何でもなくないよ。和葉さん、いつもと違うじゃんか」

「っ……」


 歯が鳴る。

 歩を止めて、明楽の方へと振り返った。少年は細い眉を八の字に歪めていて、まるで本当に自分の事を心配しているかのような表情を浮かべていた。

 

「なんて言うか、その……ごめん。何がいけなかったか、分かってないけど……」

「……」

「とにかく、ごめん」


 今にも泣きだしそうな顔だった。

 そんな彼を前にして、自分は今どんな顔をしているのだろうか。笑えてないのは自覚しているとして、不機嫌そうに強張らせているのか、それとも彼と同じように泣き出しそうな顔をしているのか。

 どちらにしても彼を謝らせるような、そんな顔なのだ。きっと。

 

「……そう。なら、明楽くん」

 

 まるで自分が悪者のようで、うんざりしてしまう。

 恋人に隠し事をしているのは彼の方なのに。それが嫌だと思うのは、当たり前なのに。


(ごめんって、何がごめんなんですか……)


 彼は謝ったのだ。

 ごめんとその口で言って、頭を下げた。それが事実。心当たりがあるから、彼は謝った。それだけだ。

 だから訊く。訊いてやる。

 和葉は少年の肩を掴んで、思い切り引き寄せた。鼻先を突き合わせるくらいまで寄せて、丸く大きくなった目を真っすぐに見据える。女の子のような華奢な体が折れそうに軋んだ。


「明楽くん」

「な、に……」


 手のひらが汗で滲む。

 身体が強張る。腰から下の感覚がなくなったみたいに、脚が震えている。

 彼の答えを聞くのが怖かった。

 また嘘を吐かれたら。

 また隠し事をされたら。


 本当は自分のことなんて、好きじゃなかったら。


「私のこと、愛してますか?」

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