2章 / 和葉XIV / 雪那IV
「え?」
と、彼は目を丸くしていた。
私が言った言葉が理解できなかったのか、それとも聞き間違いだと思ったのか。ぽかんと口を開けて、信じられないといった顔で私を見つめている。
分かりやすいくらいに狼狽した仕草が琴線に触れるけれど、ここで甘やかしては元も子もないのだ。緩んでしまいそうになる頬を引き締めて、私は冷めた声でもう一度言ってやった。
「だから、もしまた同じようなことがあったら」
一度、言葉を区切る。
今度は心の奥底まで染み込むようにと唇を寄せて、ゆっくりと。
「その相手、私が殺しますって言ったんです」
ふざけている訳でも、冗談でもない。
軽口で言うような言葉とは覚悟が違う。やると言ったからには、私は絶対にやる。
今までは少しお仕置きしてやる程度で済ませていた事も、今この瞬間からは違う。発情した雌に相応の雄を当てがってやっていたけれど、それが甘かったのだ。害虫を駆除するように、私もそうしてやればいいとようやく気付いた。
「それは、えっと……どういう意味?」
「ふふ、どういう意味もなにも」
まだよく理解できていないのか、恐る恐るといった様子で口を開いた。
彼は頭は悪くないが、危機感が足りない節がある。黒川の時もそうだし、あの古本屋の女もそう。挙句にこの期に及んでまだ私が冗談を言っていると思っているようだ。
もしくはそうであってくれと願っているのか、縋っているのか。どちらにせよ、私を苛立たせるには十分な言葉の選択だ。
「言葉通りの意味ですよ。私は明楽くんに暴力を振るう趣味はありませんし、DVは家庭崩壊の危機ですから。だったら浮気した相手の方をどうにかするしかないでしょう?」
「だから、その……殺すってこと?」
「そうです。何かおかしいですか?」
鼻先が触れ合うくらいの距離で、明楽くんは息を呑んだ。
細くて白い喉が艶めかしく動くのが目に入る。じんわりと汗ばんだ肌に、香水も付けていないのに香る甘いミルクのような体臭。
一応「怒っている」ていではあるのだけれど、こうも誘惑が多いと挫けてしまいそうになる。
話をキッチリ付けてから、と考えてはいたが、早々に許してイチャイチャするほうが楽しいかも、なんて邪な感情が膨れ上がったり。
(学校もサボっちゃいましたし、せっかくなら……)
個室で二人きりというのも久しぶりなのだ。
日頃から二人の関係に物足りなさを感じている私にとっては、我慢しろという方が酷である。ベッドの上で半ば抱き合っているような格好というのも相まって、ほんの少し気持ちが逸っているみたいだ。
「まぁ、大丈夫ですよ。今後無ければいいんです。明楽くんだって浮気したくてしてる訳ではなさそうですし」
「それは……そう、だけど」
「お義姉さまとの関係に関しては、今は目を瞑っていてあげます。私とあの人とは色々複雑なので……あぁでも、今は、ですからね?」
「姉さんとの事は、僕もなんとかしたいと思ってるんだよ。嘘じゃなくて、本当に普通の家族としての関係に戻りたいと思ってる」
「そうでしょうね。明楽くん、肉親と進んでスるなんて度胸ないですもんね」
くすくす、と笑ってやる。
僅かだが空気が弛緩した。少しだけ安堵したらしく、彼も釣られて笑みを浮かべていた。うん、やっぱり明楽くんは笑っていた方が可愛い。泣き顔もそれはそれで堪らないけれど、私の隣にいる時は笑っていてほしい。
「金曜に会う方は、私が同席するという条件なら何もしません。それ以外の……学校で誰かに誘われたりとか、話したりとか。私がいない時に起きた事は全部、ちゃんと報告するんですよ?」
「ぜんぶ……って、誰と話したとか?」
面倒臭いだろうけど全て話してほしい、なんて。
束縛し過ぎだとは分かっていても、こうでもしなきゃ私がおかしくなってしまう。
彼が内心どう思っているかはこの際考えないようにして、私ははっきりと頷いた。
「誰と、何を、どこで。私が傍にいなかった時だけでいいです」
「……うん。分かった」
返事をするまでに、僅かな間があった。
一瞬何かを考えたように目線を逸らしたのを、私は見逃さない。
「……出来ますか?」
数人監視を付けているのだから、本来なら彼から言ってもらう必要はない。
これはあくまで明楽くんの気持ちを測るための決まり事。これだけ言ってまだ隠し事をするようなら、私もこれ以上の措置を取らなくてはならないから。
彼は何度も頷いて、小さく「出来る」と言い切った。
「そうですか。なら、私も安心できます。もう二度と裏切らないで下さいね?」
警告するのはこれが最後ですから、と。
私が敢えて言わなかった言葉を、彼は理解出来たのだろうか。
♪
カタカタとキーボードで打ち込んだ文字を、見返しては消していく。
言葉を少し変えて、また打ち込む。
やっぱりさっきの方が良かったかも、と思い、再び消す。そんな事を繰り返してかれこれ四時間、終電の時間はとっくに過ぎてしまっていた。
「だから、先輩は甘いんですって。弟さんが大事なら彼女なんか作らせちゃダメですよ」
雪那の隣。
同期の席にノートパソコンを持ち込み、呑気に缶コーヒーを啜る後輩が頬を膨らませて言った。
「作らせちゃダメって、言いようがないだろ。向こうは恋人同士で、こっちは実の姉弟って関係なんだぞ」
「だから何ですか。愛に障害は付き物なんです。なりふり構わずに突き進むしかないんですよ。て言うか、脅してまで弟さんに迫ったくせに今さら何言ってるんですか」
「まぁ、そうなんだけど……」
「だったらもうやり切るしかないんです。禁断の愛を貫くなら、躊躇っちゃダメですよ」
夜中の三時に差し掛かろうというのに、後輩の女性———椎名 雛子のテンションは上がる一方だった。
最初はピリピリとした空気の中で仕事をしていたのだが、その最中に送られてきたメッセージがキッカケで、気付けばお悩み相談が始まったのだった。
『明楽くんと話しました。これ以上私の恋人を苦しめるのなら、こちらも徹底的にやらせて頂きます』
そのメッセージを見たとき、雪那は頭が沸騰しそうになった———と思ったのだが、実際はそうでもなかった。
どこか冷静な自分がいて、頭の中では「あぁ、意外と早くバレたな」としか思えなかったのだ。
いつまでもこの関係を隠し通せるほど明楽は器用じゃないし、和葉がいつまでも気付かないような間抜けだとも思っていない。だからと言って、焦るような問題でもなかった。
喫煙室でタバコを咥えながら、なんて返そうかと考えていた矢先のこと。
休憩に便乗した椎名がやってきて、根掘り葉掘りと聞いてきたのだ。さすが色恋沙汰には敏感な彼女だけあって、雪那はしつこく訊いてくる彼女に根負けする形で白状したのだった。
それから数時間。
仕事に戻ってもなお、椎名と雪那の会話は続いていた。
普段なら私語ばかりの状況は注意するところではあるけれど、今は二人きりなのだ。手を止めさえしなければうるさく言うつもりはなかった。
「禁断の愛、ねぇ……」
「弟さんのこと、好きなんじゃないんですか?」
「好きだよ。愛してる。けどアイツがどう思ってるかは知らん」
「仲良いんですよね。なら……」
「仲良いだけで、女として見れるかは別だろう。ただでさえウチは特殊な家庭環境なんだ。アイツの気持ちを踏み躙ってるのは私が一番分かってる」
踏み躙っても、欲しいと思ったから。
母親にあんな目に遭わされていたのを知っていて、そんな地獄から助けた姉という立場を利用して。
今の生活だって、自分がいなければ無くなってしまう。そんな力関係を盾に、体を要求した。
———振り返ってみれば、なんとまあ最低な人間であることか。
自虐的な笑みを浮かべて、雪那はエンターキーを叩いた。
「でも好きなくせに」
「うるさいな。何度も言うなよ、恥ずかしい」
「あれ、もしかして先輩照れてますー?」
「やかましい。ほら、大体は更正してやったから、あとはお前が見直せ」
「ちぇー、つまんないのー」
共有フォルダにデータを上げて、雪那は椅子に深くもたれ掛かった。
ぎしりと音を立てて、そのまま背を伸ばして軽く目頭を抑える。さすがに疲れは隠せなかった。
「でもまぁ、先輩のことですから。このままハイそうですかー、なんて言わないですよね?」
は、と笑う。
チーム間違えば直属の部下でもないのに、まるで何年も付き合いのある友人のような言い草だった。
「私のことをよく知ってるんだな」
嘲るように、皮肉を込めて言った。
椎名は確かに人懐っこくて、一部を除いて彼女に悪い感情を抱いている人間はいないだろう。いつの間にか仲良くなっているようなタイプではあるだろうが、雪那としては一方的に懐かれている程度にしか感じない。ましてや何度も深夜まで仕事を付き合わされているのだから、どちらかと言えばウザったくさえ思っているのに。
「そりゃ分かりますよー。私、先輩のこと尊敬してますもん」
「あぁ、そう。どうも」
「あー、信じてませんね、その言い方。本当なのにー」
「仕事以外で話した事もないだろ」
「仕事の話だけでも、先輩がどんな人かくらい分かりますし……だから今日、プライベートな話が聞けて嬉しかったのにー」
「……そうか」
話している間も、椎名の手は止まらなかった。
ディスプレイから目を離さず、更正した文章を確認していく。時折メモを取っては、自分なりの修正を入れたりと真面目に仕事をしているようだった。
「……なら、折角だし色々聞いてもらおうかな」
彼女は思ったより、悪い奴じゃないのかも。
ロクに関わろうともせずに決めつけていたのは自分の方かもしれない。知らない一面を目の当たりにして、雪那はすっかり温くなったコーヒーに口をつけた。
「はい。男の落とし方なら任せてください」
「はは、確かに詳しそうだな」
「伊達に百人斬りしてませんから」
「ひゃっ、……え?百人?」
前言撤回。
あんまり気を許しすぎるのは良くないかもしれないと、雪那は首を振った。
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