里桜Ⅲ / 和葉Ⅺ

 午前二時。


 里桜は珍しく、今まで手付かずだった小説を読み耽っていた。

 正確には数ページ読んでは興味を失って、放り投げていたものだ。恋愛小説やファンタジー、ホラーと様々なジャンルだったが、共通するのは全て物語性があるという事だった。人の感情や心が理解できない里桜にとっての鬼門である分類である。


 そんな彼女が、この日はどうしても読みたくなってしまったのだ。

 

 明楽に触れて劇的に何かが変わった訳でもない。

 相変わらず感情なんか理解できないし、読んでいても首を捻るばかりだ。

 恋する少女の恋愛小説も、得体の知れない超常現象に怯える男の話も、はっきり言って何処が面白いのか分からない。これで何百万部も売れたベストセラーだと言うのだから、自分が世の中の感性とは遠くかけ離れているのだと実感させられる。


 とはいえ、今日の会話が全く無駄になったとは言えなかった。

 少なからず感じたモノはあるし、初めて他人の唇に触れたいと思った。今までなら、他人との粘膜接触なんてあり得ないと思っていたからだ。

 そもそも他人に興味を持ったこと自体が久しぶりなのだから、ある意味では彼を招いた時点で大きな変化とも言えた。


 人よりは幾分か早いペースでページをめくって、里桜は本の世界に没頭した。

 瞬きすら忘れるほどに、目が次々と文字を追っていく。一つの行動に集中してしまうのは彼女の癖だ。こうなったら周囲の声はもちろん、多少の痛みにすら気付かなくなる。彼女が食事や睡眠を忘れがちなのはこの癖のせいでもあった。


「ふーむ、なるほど……」


 ぱたん、と本を閉じた。

 明楽が帰宅してから数時間―――見送りもせず、里桜は二十冊目の本を読み終えたところで、一休みすることにした。

 気付けば喉はカラカラ。腹の虫は鳴っているし、やけに瞼も重い。そういえば昨日の朝からほとんど何も口にしていないんだったと思い出した。


 とりあえず冷め切った紅茶を飲んでから、ベッドに寝転がる。

 ほんの僅かではあったが、彼女の心に変化があった。変化と言うには大げさな表現かもしれないけれど、彼女にとっては間違いのない兆しのようなものだ。


「とすれば、私にはまだまだ足りないのかな」


 頭の中で色々は言葉や仮説が飛び交って、里桜の中で答えが導かれていく。

 メモを取らずとも、長い事使われていないホワイトボードに書かずとも、彼女の頭の中で整理されていくのだ。

 自分の中で完結してしまうため、彼女との会話に脈絡がないと揶揄されたこともあった。今となっては人との会話なんてどうでもいいと思っていたが、これからは少し違ってくる。少なくとも、少年との会話で必要になってくるだろうから。


 足りないのは、経験と時間。

 普通の人間として過ごしてきた時間と、それを理解するための彼との時間。

 あとどれ程必要になるのかは分からないが、今の自分にはそれが必要だということは理解できた。後はそれを補うだけ。話して、触れて、検証して、繰り返して、理解するだけ。簡単な事だ。


「あは。久しぶりだ、こんなのは」


 里桜は唇を指先で撫でた。

 瞬きもせずに天井を見つめながら、ほんの数十分の行為を思い返す。

 脳裏に焼き付いて離れないアレ。初めての衝動に、初めての感触。体温の上昇さえ自覚できた不思議な感覚を、何度も何度も反芻した。


「不思議だね、キミは」


 ぐい、と口端を押し上げる。

 笑っているのだと示すために、口角を上げる仕草だ。

 彼女がやると皮肉っぽく映ってしまうが、悪気も悪意も全くない行為。誰かに興味を持った時だけやる、彼女なりの気遣いのようなものである。


「キミもそう思うだろう?」


 ぎぎ、と軋むような音を立てて、扉が僅かに開いていく。

 薄暗くなった扉の隙間から鈍く光る瞳が覗いた。白い指先が扉を押しのけて、いつか来るだろうと思っていた少女の姿が現れる。予定よりも早かったが、さすが少年の恋人だと言っておこう、と軽口を叩いた。


「こんばんわ」


 と、少女は言った。

 開いた瞳孔が里桜を見据えた。










「神矢 里桜さんですね」


 改めて訊くまでもない。

 が、それでも確認したのは、目の前の金髪碧眼の女性を敵だと認識したかったからである。


「そうだよ」

「明楽くんに何をしたんです?」

「別に、ナニも」


 里桜はわざとらしく肩を竦めてみせた。

 淡々とした物言いが和葉の苛立ちを煽った。ぴくりと眉が動いて、埃っぽい地下室に小さな舌打ちが響いた。


「あの子ならとっくに帰ったよ。ほんの少し話をして、それでオシマイさ」

「そんなことは分かってます。彼の行動は全て把握してますから」

「おや、そうなのかい?その割にはこんな時間に来るなんて……彼が居た時に来るべきだろうに」


 馬鹿にした態度は崩さず、里桜は手をひらひらとさせて言った。

 あの程度で「完全に把握している」と言うのだから、馬鹿馬鹿しくて仕方ないのだ。

 彼女の性格からして、少年が彼女以外の人間にキスをされた時点で怒り狂うのは明白だ。それを何時間も経った後でノコノコと現れたのだから、ここでの出来事は知らないと見て間違いなかった。


「まぁいいさ。それで、私に何の用かな。あんまりキミに割く時間は無いんだよ」

「私も同意見です。貴女みたいな人に、何時までも構ってられる程暇ではありませんから」


 扉を閉めずに、和葉はベッドへと歩み寄った。

 

「明楽くんに二度と近づかないと誓うなら、見逃してあげます。どうしますか?」

「おお。怖いね、キミは。調べた限りじゃもっと優しい人だって話だったけれど」

「普段はそうですよ。ただ恋人に纏わり付く羽虫相手に、優しくしても仕方ないでしょう?」

「なるほど、そういうものなのか」


 里桜は寝返りをうって、うつ伏せになって肘を立てた。

 タンクトップから覗く双丘が強調され、少し乱れた金髪が色香を振り撒く。気怠そうな雰囲気も相まって、同じ女性から見ても赤面してしまいそうなくらいだった。


「悪いけどお断りさせてもらうよ。彼と約束もしてしまったしね」

「約束?約束ってなんです?」

「おや、全て把握してるんじゃなかったのかい」


 頬に指を当てて、にまりと嗤うポーズを取る。

 

「生意気な口を……」

「気になるなら彼に訊けばいいじゃないか。私と何を約束したんだ、ってね。それとも訊けないかい?……訊ける訳ないか。盗聴器やらがバレてしまうからね」


 図星のようで、和葉の顔が一気に怒りに歪んでいった。

 オレンジ色のランプに照らされた室内の温度が、少しだけ上がったような気がした。あくまでも気がするだけではあったが、里桜はそれくらいに彼女が怒っているのだと感じていた。


「用事はそれだけかい?ならさっさと帰ってくれ」

「……力づくで誓わせてもいいんですよ」

「やってみたらいいさ。……ほら、そこ。見えるかい?」


 里桜は天井を指差した。

 薄暗くて分かりづらかったが、半球体の形をしたモノが天井に取り付けられていた。里桜は確認を待たず、あちこちの場所を指差した。


「そこと、そこ……ほら、ここにもだ。監視カメラさ。この暗さでもハッキリ撮れるんだよ、これ」

「だから何ですか。貴女を始末した後、データを消せばいいだけです。サーバーごと叩き潰してあげますよ」

「残念だね。この録画データは私の友人たちへ送信されているのさ。ここで何かあったときのためにね。リアルタイムで送信されているから……ほら、今も私たちの事を見てるんじゃないかな」


 おーい、と言って手を振る。

 途端、開きっぱなしになっていたラップトップに通知が表示された。

 簡素な文字で、『彼女に手を出すのはやめておいたほうがいい』と書いてある。それを見て、和葉はぎり、と歯を鳴らした。


「面倒臭いですね、貴女は」

「私たちのような人間は、何が起きるか分からないからね。お互いで監視し合ってるのさ」

「どうでもいいです。気持ち悪い」


 唾でも吐き捨てんばかりに、和葉はあからさまな嫌悪感を現した。

 普通の監視カメラなら、真琴や使用人たちが処理できるのに。録画データを複数人で共有しているのであれば、里桜の持つデータを消すだけでは不足なのだ。


 はぁ、と溜息を吐く。

 行き場のない怒りは一旦置いておくとしても、仕方ないと里桜を見逃す訳にはいかない。


「貴女は彼に何がしたいんです?」

「それをキミに言う必要はあるかい……って言いたいところだけど、まぁ別に隠すことでもないしね」


 またごろん、とベッドに寝転がった。

 仰向けになって猫のように体を伸ばす。んー、と気持ちよさそうに唸って、部屋に入ってからずっと睨み付けている瞳を見返した。


「見ての通り、私は少し壊れててね」

「でしょうね。マトモではなさそうです」

「あは、そうなのさ。マトモじゃないんだ。感情がなくて、人の心が分からない。だけど私は、それを理解したいのさ。だから彼に手伝って貰おうと思ったんだ」

「そんなの勝手にやればいいじゃないですか。なんで明楽くんを巻き込むんです」

「それはキミがよく分かっているだろう」


 また頬に指を当てて、笑う仕草。 

 精一杯の、敵意を持たないと言う意思表示だ。今ここで和葉を敵に回すつもりもないし、何なら友達になったって良いとさえ思う。その方が都合が良いのだ。

 

「キミがここに来た理由。彼に盗聴器を付けてまで執着する理由。彼の意思を踏み躙ってまで、彼を犯した理由と同じさ」

「お前に私の……明楽くんに、何が分かるって言うんです……ッ」

「分からないさ。だから教えて貰うんだ」


 だから、と里桜は言葉を続けた。


「私もキミと同じ感情を持ちたいんだ。愛でも恋でも嫉妬でも何でもいい。本当にそれだけなんだ。別に彼を奪おうだなんて思ってない」

「……それを私に信用しろって言うんですか。貴女が明楽くんに手を出さないと、ただ話をするだけだから見逃せと。話になりません」

「してもらいたいね。してくれるなら、対価だって払ってもいい」

「対価?」


 怪訝そうに、和葉は目を細めた。

 認めたくはないが、今は彼女に手出しは出来そうにないのだ。であれば、何らかの楔くらいは打ち込んでおきたい。彼女の言う対価が自分にとっての大きなメリットになるのであれば、考えてみても悪くはないと思った。


「そう。あの子とたまに話をさせてくれるなら、キミたちの仲を手伝ってあげよう。キミの言う「羽虫」を払う手伝いだってしてもいい」

「…………」

「こう見えて私は色々と顔も利くし、やれることは多いからね。悪い話じゃないと思うよ」


 口元に手を当てて、和葉は考えた。

 本当に話をするだけでいいのであれば、別に浮気だなんだと騒ぎ立てるつもりもない。そこはしっかりと自分が管理すればいいだけの話だし、クラスメイトと話していると思えば多少は我慢できる。……クラスメイトとも、あんまり話してほしくはないけれど。


 色々な考えが頭を巡っては、消えていく。

 結局のところ、今ここで取れる手段を考えれば、答えはそう多くは無かった。


「さぁ、どうするんだい」

「……明楽くんとは、話をするだけですね?触れたり、彼に危害を加えるような真似はしませんね?」

「しないよ。彼に対する理解を深めて、彼という人間を知りたいだけだ。それでキミたちのような感情が芽生えなければ、もう用はないのさ」

「芽生えたらどうするんですか」

「その時は世界中を旅して、たくさんに人間に触れてみるさ。キミには悪いけど、年下は趣味じゃないんだ」


 これは嘘だと、和葉は見抜いた。

 確かに今はまだ異性としての興味はなさそうだが、それは「今だけ」の話だ。いずれ障害になりえる可能性は大いにあった。


「話には同席しても?」

「構わないよ。そうだね……週に一度、時間を取ってくれればいいさ」

「……そうですか」


 話が旨すぎる、とは思う。

 だが、筋は通っていた。確かに彼女は感情が欠落しているようだし、それを理解したいという気持ちは分かる。そのために明楽を知りたいと言うのも―――言いたくないが、女性を引き付け過ぎる彼を利用するのも、頷けた。


「いいでしょう」


 とりあえずは、と心の中で付け加えておく。

 今はこれで手を打っておけばいい。ここで断って見えない所でウロチョロされるよりは、コントロールできる位置にいた方が百倍マシだ。

 

「見返りとして、私の言うコトには従ってもらいます。その代わり毎週明楽くんとココに来ますから、その時私を含めて話をするのを認めましょう」

「おお、助かるよ」

「まずは……そうですね。私のいない所で明楽くんと接触しないこと。明楽くんに触れないこと。感情を理解したとしても、明楽くんに惚れないこと。あとは、彼の周りにいる邪魔な連中のリストを渡しますので、排除して貰えますか?」

「いいよ、簡単さ。殺さない程度に、排除しておくよ」


 いいでしょう、と和葉は頷いた。

 もちろん、こんな口約束程度で信用できるはずがない。裏切る可能性だってもちろんあるだろう。その時のための保険も、忘れずに準備しておかなければ。

 

「いや、驚いたよ」


 全くそんな風には聞こえないような、淡々とした口調で言った。


「キミのことだから、有無を言わさず潰しにくるんじゃないかと思ってたんだ」

「……貴女は私を何だと思ってるんですか」

「キミが脅したクラスメイトは何人だい?学校の外でも……人には言えないようなコト、色々してるじゃあないか」

「別に、好きでやってるわけじゃありません。私と明楽くんのために、悪い芽は早めに摘んでおかなきゃいけないってだけですから」

「摘み方が荒っぽいのさ」

「貴女を摘むよりは、利用した方がメリットが大きいってだけです。何かあれば……分かりますね?」

「肝に銘じておくよ」


 さて、と里桜はもう一度体を伸ばして、乱雑に積み上げていた本を手に取った。


「私は本の続きでも読むよ。キミも明日学校なんだから、帰ったほうがいいんじゃないのかい」

「言われなくても、帰ります」


 ふん、とそっぽを向いて、和葉は扉の方へと向かっていった。

 里桜は既に本の世界に入りかけているらしく、反応を見せなかった。振り返って彼女を見ると、ぺらぺらとページをめくる彼女がいた。


 ふと、足を止める。

 聞いているのかいないのかは、どうでもいい。とりあえず一言、言うだけ言っておきたかった。

 彼女なりの覚悟とか、色々な想いが詰まった一言。里桜の思惑がどうであれ、決して外れてはいけない信念のようなモノだ。


「明楽くんに手を出したら、殺しますからね」


 誰がお前の言うことなんて信じるか、馬鹿が。

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