和葉Ⅻ

 頭から熱いシャワーを被って、私は鏡に映る自分を見た。


 均整の取れたプロポーション。

 普段は緩くウェーブを掛けた髪は、水に濡れてどことなく妖艶に感じられる。シミの無い肌も、長い睫毛も、すらりとしたウェストと女性らしいウェストも。自分でも確信を持てるくらい、女性としては美しいと思う。自惚れではなく、本当に。

 街を歩けば視線を浴びてばかりだし、ナンパだってよくされる。

 クラスメイトの視線が首より下に行くことも、パーティで下世話な誘いを受けることも数えきれないくらいにあった。


(でも、明楽くんは……)


 最愛の人は、そんな自分には興味がないらしい。

 もちろん、そんな感情ばかりが愛ではない事くらいは分かっている。明楽くんはプラトニックな関係を好んでいるようだし、そもそも彼は気持ちを口にするタイプではない。好きと言われた数も、それを実感できた瞬間も、私にとってはとても少ないと感じてしまう程に。

 だからだろうか、不安ばかりが私の胸を占めるのは当然と言えた。


 女性としての私が、私の中で疼く感情が、それでは物足りないと叫んでいる。

 愛していると言って欲しい。もっと私に触れて欲しい。私だけをずっと見ていて欲しい。

 なんて、そう考えれば考えるほど、私の心は酷く乱れていく。

 以前の私であればそんなことは考えもしなかった。片思いをしていた頃は同じ空間にいられるだけで幸せだったし、友達と楽しそうに話す彼を見ているだけで満たされてもいた。

 触れられなくても、私に視線が向いてなくても、ただ彼がそこにいるだけで良かったのに。


(だめ。そんな事、考えちゃ……)


 不安、恐怖、疑念。

 最近の私の中にはそんなモノばかりが詰まっている。

 彼を信じているはずなのに、薄汚れた感情ばかりで嫌になってしまう。いつから私はこんなに意地汚くなったのだろう。手に入れたものを奪われたくなくて、私だけのモノにしてしまいたくて、黒い獣が内側でのた打ち回っているのだ。


 シャワーレバーを上げる。

 ぽたぽたと前髪から雫が落ちて、排水溝へと流れていく。

 薄く曇った鏡の中に、まるでどこかの幽霊のような女が映っていた。濡れた髪を垂らして、その奥には暗く濁った瞳が私を睨みつけているのだ。


(考えるな、考えるな……っ)


 ずっと胸にあった疑問。

 そんなはずはないと否定し続けて、押し殺してきたモノ。

 認めてしまえば、私はどうなってしまうのかと怖くて仕方なかった。確かようとすればすぐに済むのだが、それを行う勇気が私にはないのだ。


「本当に、私の事好きなんですか……」


 明楽くんは優しい。

 嫌だとは言えない人で、自分よりも他人を優先してしまう。

 そんな彼がもし告白されたらどう答えるかなんて、考えるまでもなく分かり切ったことである。


(私を傷付けたくなかっただけじゃ、ないですよね……)


 私の事なんか好きでもなんでもなくて。

 ただ断れなかっただけだとしたら、なんて。想像しただけで、頭がかしくなってしまいそうだ。









「お嬢様」


 こんこん、と控えめなノックと共に、真琴が声を掛けた。

 もう夜中だと言うのに、彼女はまだ黒いスーツに身を包んでいた。彼女は住み込みで働いていて、ほとんど休みなしで和葉の世話をしている。和葉自身も、何時寝ているんだろうと首を傾げる程であった。


「……どうしました」


 和葉は振り向かなかった。

 外を眺めたまま、ぴくりともしない。辛うじてぼんやりと窓に映る和葉の表情を見て、真琴は機嫌が悪いのだとすぐに察した。


「お伝えしなければならない事が」

「今じゃないといけませんか、それ」


 正直言って、今は誰とも話したくない。

 自己嫌悪やらでいっぱいいっぱいなのだ。姉のように思っている世話役が相手とはいえ、八つ当たりをしてしまいそうで遠ざけておきたかった。


「できれば、今すぐに」

「分かりました。……あまり良い話ではなさそうですね」

「はい」


 小さく頭を下げて、部屋へと入る。

 手には小さなレコーダーを持っていた。それだけで和葉は頭を抱えたくなるくらいにうんざりしてしまう。悪い話の上、音声データとくればだいたい想像がつくのだ。


 真琴は無言でレコーダーを再生した。

 かちり、という音の後で、微かなノイズ。それに混じって、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。


『ッ……ら、アキ……っ』


 瞬間、頭に血が昇るのが分かった。

 反射的にレコーダーを払いのけようとして、寸でのところで我慢する。嬉しそうに嬌声を上げるのは雪那のもので、その奥に最愛の少年の鳴き声が聞いて取れる。紛れもなく、疑う余地もなく、彼とその姉の情事そのものだった。

 

「……何時ですか、コレは」

「一週間前のものです」

「この日だけですか?」

「……いえ」


 言いづらそうに、真琴は首を振った。

 和葉は一言だけ「そうですか」と言うと、また窓の外へ視線を移した。


「こんな事になってるなんて知りませんでした……明楽くんは、何も言ってくれませんでしたね」


 ぽつりと呟く。

 明楽はいつも通り笑って、いつも通りに過ごしていた。レコーダーから聞こえるコトなんか、これっぽっちも感じさせることもなく。

 誰よりも彼を愛していると豪語した自分が情けなくなってしまった。何が「自分が一番彼の事を理解している」だ。少年がどんな思いでコレを隠していたのだろうかと思うと、胸が張り裂けそうになる。


「嘘を吐いていたんですね、明楽くんは」

「それは……お嬢様のためかと」

「分かっています。好き好んで嘘を吐いたんじゃないことくらい、私にだって分かります」


 明楽は隠し事も嘘も大嫌いなのだ。

 あるとすれば、ただ「言っていない」だけである。自分の感情をひた隠しにして、飲み込んで、自分を犠牲にするだけ。大抵が誰かの為なのだろうが、和葉はそれがあまり好きではなかった。


「神矢の件といい、私は信頼されていないみたいですね」

「お嬢様に心配かけたくないだけでは?」

「……さぁ、どうなんでしょう」


 どちらにせよ、と思う。

 明楽は自分に隠し事をしていた。雪那の件と、神矢の件の二つもだ。

 恋人には何の相談もせず、苦しいの一言も言わずに。いや、もしかしたら苦しいだなんて思っていないのかもしれない。元々自分とは嫌々付き合っていて、本当は雪那や神矢に心が揺れ動いているのだとしたら。

 

 ぎり、と奥歯が軋む。

 窓に映る自分は、バスルームで見た幽鬼のようだ。間接照明が照らす室内の空気は重く、真琴も何も言えずにいる。一人になりたいと思う反面、誰か傍にいてくれなければ自分が何をしでかすか分からない怖さがあった。


「……ねえ、真琴さん」

「はい」

「明楽くんは、私の事が好きだと思いますか」

「それは……もちろんです。でなければ―――」

「初めてシたとき、すごく悲しそうな顔をしていたんです」


 あの嵐の夜。

 忘れられない思い出だ。初めて最愛の人と体を重ねて、愛していると実感できた瞬間。好きだ、とか安っぽい言葉なんかよりも確かなモノだった。

 今まで以上に心が満たされて、女として幸せだと感じられたのだ。

 あの日の出来事は細部まで覚えていて、今でも鮮明に思い出せる。彼の言葉や吐息、体温から身を引き裂くような痛みまで。目を瞑れば何時だって思い浮かべることができた。


 だからこそ、いつまでも頭の中から離れない記憶があった。


「嬉しそうでもなくて、笑ってもくれなくて。きっと嫌だったんだろうって。……認めたくはありませんけどね」

「だからまだ早いと申したはずです」


 そうですね、と力なく笑う。

 それでも和葉は耐えられなかったのだ。自分から離れていくようで、菖蒲が彼を奪ってしまいそうで恐ろしかった。

 

「……ごめんなさい。やっぱり、一人にしてください」

「はい。承知しました」

 

 ぼんやりと窓に映る和葉の目から、涙が零れていく。

 雨は激しさを増していく。余計に自分が惨めに感じられて、今にも崩れ落ちてしまいそうになった。


 真琴は頭を下げて、部屋を後にした。

 彼女が幼い頃から世話役として接してきたのだ。こんなときくらい、役目を忘れて慰めてやりたかった。が、プライドの高い和葉にそれをすれば、一層の傷を付けていくことになるだろう。今自分に出来ることは何もないと、唇を噛んで、彼女は踵を返すしかなかった。


 和葉はそのまま、朝が来るまで窓の外を眺め続けていた。



 

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