2章 / 里桜II

 神矢古書房は彼女が所有する個人図書館の裏手にあった。


 見た目は小さな個人経営の喫茶店のよう。

 白くくすみのない外壁に、アンティーク調の木製の扉。小さくはめ込まれたガラスはスモークが掛かってて、中の様子は窺えないようになっている。


 明楽は金細工が施されたドアノブに手をかけて、恐る恐る中へ足を踏み入れた。

 ちりん、と来客を告げるベルが鳴るが、いくら待っても誰かがやってくる気配はなし。

 中は外観と違い、手入れや清掃が行き届いているようには見えなかった。

 十畳ほどの空間に、壁一面に並べられた本棚。ぎっしりと本が詰まって入るが、ジャンル分けどころか言語すらもめちゃくちゃだった。

 小学生が見るような動物図鑑の横に、見たことのないような言語で書かれた分厚い本が収納されていたりするのだ。

 おまけに吹けば舞うくらいの埃が積まれている。小さなランプ程度しか光源のない店内は、どこか幽霊でも出てきそうな雰囲気である。


「なんだよここ、もう……」


 口元を抑えながら、奥のカウンターへと向かう。

 乱雑に本が積まれたカウンターの端に、小さなベルがあった。薄く張られた蜘蛛の巣を払って、少年はベルを振った。

 ドアに取り付けられたものより大きな音が鳴って、しばらくしてからバタバタと物音が聞こえた。さらにもう一間置いて、カウンター奥の扉が開く。

 金色の髪を揺らした、蒼い目の女性———神谷 里桜は、相変わらずのラフな格好で少年を出迎えた。


「やあ。悪いね待たせて。ここにはほとんど人が来ないから、気付かなくてさ」

「でしょうね。汚いですし、ここ」


 ほとんど初対面に等しい相手に、明楽は珍しく辛辣な言葉を吐いた。


「中々言うね、キミも。調べた限りじゃそんな言葉を言うような子じゃあなかったんだけどね」

「他の人には言いませんよ」

「私だからかい?あは、じゃあ私はキミにとって特別な人間ってコトになるね」

「……ある意味、特別かもしれませんね」


 どうでもいいです、と言いたげな表情を浮かべて、明楽は里桜を睨んだ。

 そんな視線を気にも留めず、彼女は出てきた扉を指さした。


「話は中で聞くよ。ここは体に悪い」

「なら掃除くらいしたらどうですか。お店なんでしょう」

「考えておくよ」


 絶対にしないだろうなと思いつつも、明楽は彼女の後を追った。

 扉の向こうは世界が変わったような西洋風の内観で、共通点と言えば蜘蛛の巣や埃が舞っているというくらいだった。大きなシャンデリア、インテリアから内装まで一つ一つがやけに凝った造りになっていて、趣味なのか銅像や絵画なども飾ってある。今までテレビの中でくらいしか見たことのないような空間だった。

 きょろきょろと珍しげに見回していると、遠くから里桜の抑揚のない声が響いた。さっさと先に行ってしまっていたようで、少年は慌てて声のする方へと向かった。


「私の部屋、地下なんだ」

「こんなすごい家なのに、地下なんですか?」

「日の光が嫌いなんだ。吸血鬼なんだよ、私は」


 嘘だけどね、と言って、彼女は薄暗い階段を下っていく。

 機械のような、血の通った人間らしくない喋り方のせいで、冗談なのか区別がつかなかった。そのくせ友達に話すみたいな言葉遣いや話題は、違和感を通り越して恐怖すら覚えてしまう。


(なんだろう、気持ちが悪い……)


 里桜は今まで見たことのない種類の人間だ。

 が、弱みを握られている以上、今は従う他に道はない。纏わり付くような寒気を堪えて、明楽は階段を降りていった。








「紅茶で良かったかな。って言っても私はコーヒーは嫌いだし、ジュースの類も飲まないからね。これしか無いんだ」

「何でも良いです」


 ステンレスで出来た無骨なスチールカップを手に、里桜はベッドに座った。

 地下室らしい、何とも息の詰まる部屋だ。ここにも本が多く積まれていて、明楽は中央にあるベッドの横―――いい加減うんざりするくらいに埃の被った、一人掛けのソファに座らされていた。

 床は雑にラグがいくつも敷かれているが、ここは土足のままで良いようだ。どちらにせよいつでも逃げられる体制は崩したくなかったため、土足のままで良いのならそれに越したことはなかった。


 カップを受け取り、明楽は口を付けずにそのままテーブルへと置いた。


「さて、話を聞かせてもらいたいんだけど」


 髪をがしがしと搔き乱す。

 彼女が頭を整理するときの癖で、考え事がある度にそうしてしまうのだ。

 考えが纏まったのか、彼女は指に絡まった髪を払って、明楽に向き直った。


「あー、そうだね。君の生い立ちから聞こうかな」

「生い立ち、ですか?」

「そう。覚えている限り、事細かにね。君がどうやって暮らしてきて、どうやって犯されてきたか。私の求めるモノはソコにありそうな気がするんだよ」

「……本当にそれだけですか?」


 明楽にだって聞きたい事はたくさんある。

 確認したい事も。言い方は悪いが、里桜は普通の人間ではなさそうなのだから、ただ「話を聞く」だけで終わるとは思えないのだ。


「話すのはいいんです。それで、そのあと貴女は何をしたいんです?」

「言っただろう?キミの話を聞いて、私にも彼女たちと同じ感情が芽生えるか試したいだけなんだ」

「何も感じなかったらどうするつもりですか」

「それならそれで、また別の手段を探すさ。その時はキミに用はないし、後は好きにするといいよ」

 

 だけど、と付け加える。

 碧眼がランプの光を映して、ゆらゆらと揺らめいているように見えた。


「もし何かしら感じるものがあったら……今後も私に付き合ってもらおうか。理解するまで、キミは私に協力してもらう。もちろん、見返りくらいは用意してあげるさ」

「……どうせ拒否権なんて無いんですよね」

「拒否しても構わないよ。その時はキミも、キミの周りを壊していくだけさ。私は結構根に持つタイプなんだよ。あは、怒る事も出来ないのにね」


 口端に指を当てて、笑みを作るようにぐにゃりと歪ませる。

 本気で笑っているつもりなのだか、それともふざけているだけなのかは分からないが、少なくとも彼に選択の余地はなかった。


「いいです。わかりました」

「それは良かった。いや、断られたらどうしようかと思ってたんだよ、実は」


 カップに口を付けて、一気に紅茶を飲み干す。

 熱かったのか小さく舌を出して、空になったカップを床に放り投げた。


 からん、と音がして、地面を転がっていく。

 それを皮切りに、彼女は吐き出すように淡々と話し出した。


「感情を理解したいっていうのは、私の悲願なんだ。キミも分かっていると思うけど、私と話すのは疲れるだろう?何をどう話せばいいか正解が分からないんだよ。だからと言って、私だけではどうしようもなくてね。だからこんな穴倉に引き籠っているってわけさ」

「…………」

「普通の人間になりたいんだ。人の心が分かって、喜怒哀楽を理解して。マトモになれない人間の気持ちがキミに分かるかい?こんな何も感じてないように見えるだろうけど、はっきり言って地獄だよ、ここは」


 相変わらず、言葉に抑揚はない。

 それでも彼女の本音が籠っているような気がした。少なくとも、嘘は言っていないようだ。


 明楽はカップを手に取った。

 信用できない相手から出された飲み物など口にするつもりはなかったが、何となくバツの悪さを感じていた。もしかしたら本当に苦しんでいるのかもしれないし、そうであれば、今までの自分の態度はそんな彼女の努力を足蹴にするようなものである。

 やり方はどうあれ―――本気で助けを求めているのであれば、過去を話すくらいは手伝ってもいいと思ったのだ。


「手伝うのは、構いません」


 琥珀色の紅茶に口を付ける。

 すっかり温くなってしまっていたが、味は良かった。紅茶には詳しくないが、きっと値の張るものなのだろう。


「ただ、約束してください。脅すような真似とか……酷い事はしないって約束してください。僕にも、僕の周りにも。それなら貴女に協力します」

「……ふむ」


 思案するように、顎に手を当てていた。

 また髪を何度か掻いてから、里桜は答えた。


「いいね、素晴らしいよ。その条件を飲もう。知った情報は何処にも漏らさないし、キミに危害を加えないことも約束しよう」

「それなら、僕も文句はありません。色々失礼な事を言ってすみませんでした」

「いやいや、気にすることはないよ。私もこんなだからね。慣れているんだ、あの程度の反応には」


 彼女は嬉しそうに―――声音は全く変わらなかったが―――手を叩いて言った。

 ベッドから立ち上がり、新しいカップを二つ、手に取った。その一つを明楽に手渡す。


「乾杯だ。良い事があると、みんなこうするんだろう?」

「あー、まぁ……そうですね」


 まだ飲み切ってないですけど、とは言わず、明楽は差し出されたカップを受け取った。ティーポットから新しく紅茶が注がれる。興奮しているようで、カップから少し零れては地面へと沁み込んでいった。


「さ、乾杯だ。これからよろしく頼むよ」


 かちん、とカップを当てる。

 湯気の立った紅茶を飲み干して、里桜は口端に指を当てた。








 

「全く。馬鹿な子だね、キミは」


 ぐったりとベッドに横たわる少年の髪を撫でる。

 話が終わった後に振る舞った紅茶を飲んだ後、電池の切れた玩具のように眠ってしまった。まぁ、私が入れた薬のせいだけれど。一人前に警戒していたくせに、少し心を許すとこれだ。話に聞いていた通りの馬鹿さ加減である。


 時間はかかってしまったが、彼は随分と熱心に話をしてくれた。

 思い出すのも辛かったのだろう。時折苦しそうに胸の辺りを掴んだり、涙を流したりしていた。それでも必死になって話してくれたのは、私の話を信じたからだ。


「本当に馬鹿だよ。私のような女を簡単に信じるなんて」


 彼に言った言葉には、嘘はほとんどない。

 ほとんど、だ。全てが真実ではなく、僅かな嘘を交えた。彼はそれを見抜けなかったのだ。

 感情がないのは事実。人の心を理解したいのも、そのために協力して貰いたいのだって嘘じゃない。

 ただ危害を加えないっていうのは、守るつもりはなかった。それはそうだ。誰だって、玩具で遊んだら片付けるだろう。当たり前のことをするだけなのだ、私は。

 

 それに。

 彼の話は、私の心を大きく揺さぶった。

 初めての感覚だった。本や映画で見た、「胸が躍る」とはこの事だ。ばくばくと心臓が高鳴って、頬が熱くなる。目の前にいたこの子に無性に触れたくなる衝動。どれもこれも味わったことのないモノばかりだ。

 期待していた通り、今日だけで色々な感情に出会うことが出来た。が、それを理解するにはまだまだ足りない。まだ触れただけで、「理解」には程遠いのだ。


 さて、と私は少年の唇に手を触れた。

 ぷるぷるしていて、押せばぐにゃりと形を変える。引っ張れば伸びるし、指を突っ込めば固い歯に当たった。私の口も同じ構造のはずなのに、どうしてこうも興味をそそられるのだろう。

 きっと彼の話を聞いたからだと結論付けて、私は検証へ進むことにした。

 

 彼はあと数時間は起きない。

 であれば、私も彼女たちと同じように。

 触れたばかりの感情を、もっともっと理解していくだけだ。


「……まぁ、今日は初日だし、ね」


 決して勇気がない訳じゃない。

 準備もしてなかったし、やり方だってまだちゃんと把握してないだけ。せっかく糸口を掴んだのに、失敗して興味を失っては困るのだ―――と、私は私に言い訳をして、彼の唇に自分のそれを重ねる。


 初めてのキスの味は、ローズヒップの紅茶の味がした。


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