2章 / 明楽II

 午前五時。


 昨晩の天気予報の通り、外は酷い雨だった。

 薄暗い雲が空を覆って、カーテンのような大粒の雨が視界を遮っている。じめじめとした空気が部屋に充満しているためか、湿った感覚が肌から離れなかった。


 普段眠るときは、カーテンを開けたままにしている。

 部屋は周囲の建物より高いため、覗かれる心配もない。部屋の一辺を占める大きな窓からは星や月が良く見えるのだ。ベッドに寝転がると、日によっては素晴らしい星空を眺めることが出来る。

 不眠症に悩まされていた私にとっては、夜は空を眺めるか本を読むかくらいしか暇を潰せないのだから、カーテンを取り付ける意味がないのだ。


 が、それも今日まで。


 昨晩はとても良く眠れた。

 情事の後にそのまま眠ってしまったせいで、汗や体液で体がベトベトしていた。

 そんな不快感すら今は心地良く、弟との行為の残骸だと思うと不思議と頬が緩んでしまう。シャワーを浴びようとバスルームに入っても、何だか流すのが惜しいような気分になる。

 まぁ、実際は仕事に行かなければならないのだから、そんな事言っていられないのだけれど。

 笑みを堪え切れないままシャワーを手早く済ませて、私はキッチンへ向かった。


 通り掛けに、私の部屋を覗く。

 音を立てないようにドアを開けて、ベッドで眠る弟の姿を見る。まだまだ起きる気配はないようで、小さな寝息が耳に入った。


 今日はもうしないから、と言ったものの、結局あの後二度ほどシてしまった。

 まだ両親と一緒に暮らしていた頃から溺愛していた弟が、白い肌を曝して隣で寝転がっているのだ。その上ここ数カ月で色々な女に絡まれていて、挙句攫われて犯されてまでいるのだから、私の我慢も限界だった。

 何よりも大切な弟が、日に日に遠くなっていくような感覚。

 疲弊した心を癒すには、明楽が必要だった。それもただ傍にいるだけではなく、目に見える形で―――身体で感じ取れる事実が、私には必要だったのだ。


 とまあ、言い訳は色々あるけれど、全ては終わったことである。

 言質も取ったし、その証は私の下腹部に刻み込まれている。

 彼はここから離れないと誓った。マトモな生活を送るために、私の元から離れないと。

 私と体を重ねることを了承して、私の金と家で暮らす。私がいなければ生きていけないと認めたのだ。その事実があれば、今はそれで良い。


(そう、今はこれでいい。これ以上は、まだ早い)


 焦る必要はなかった。

 彼女がいようが、そんなものは一時的なモノだ。

 私が持つカードの前では、ただの恋人なんか話にならない。養う側として、彼の家族として、持っている武器も立場も違うのだ。彼が私から離れられない以上、勝ちは揺るぎない。


 ダイニングテーブルに置いてあった酒瓶を見て、私は小さく笑ってしまった。

 酒はもう要らない。山のようにあるピルも不要だ。酒はシンクに流して、薬はゴミ箱へ。これでもう眠れない日々とも、薬のせいでぼうっとする日々ともおさらばだ。


 ガチャガチャと音がしたせいで、明楽が起きたようだ。

 寝室から呻き声と物音が聞こえる。二度寝はしないタイプだから、その内起きてくるだろう。どんな顔をするのか楽しみだ。


 はは、と笑い声が漏れる。

 今日から新しい日々が始まるのだ。

 私と弟の、影に隠れた、甘く背徳的な日々が。


 







「帰りに映画、行きませんか?」


 あの夜から一週間後の、放課後の教室。

 突然の誘いに、明楽は思わず間の抜けた声を出してしまった。

 

「え、じゃなくてですね。これから映画を観に行きませんかって言ったんです」

「あ、あぁ……ごめん。ぼうっとしてて」


 頬を膨らませて、和葉は可愛らしく拗ねて見せた。

 ここ数日はどこか苛立っているような雰囲気だったが、すっかり影は消え去ったようだった。言葉の端々にあった棘は無くなり、柔らかな笑みが戻りつつある。明楽にとっては、それだけがここ最近あった唯一の「良い事」だ。


「そうだね、行こうか。観たいのもあったし」

「もしかしてあのホラー映画です?観るのはいいですけど、また寝れなくなったりしません?」

「しないよ。いつの話してるんだよ、もう……」


 言うんじゃなかった、と心から思った。

 以前話題になっていたホラー映画を観て、あまりの怖さに一人では眠るどころかトイレすら行けなくなってしまったことがあった。

 何となしにした会話の中で彼女にそれを漏らしてしまったのだが、幽霊関連の話題が挙がる度にその話を蒸し返してくるのだ。からかい半分ではあるが、明楽からしてみれば隠しておきたい過去でもある。と言うか、単純に恥ずかしい。


「いいから。行くなら行こうよ」

「ふふ、そうですね。雨も止んだみたいですし」


 朝から降り続けていた雨は、午後に入ってから雨足を弱めていた。

 雲は相変わらずどんよりとしたままだったが、夜にかけて再び雨が降る事はないそうだ。



―――どうせなら、もっと酷く降ればいいのに。



 恨めしそうに、窓の外を見上げた。

 帰れないくらいの嵐が来れば、家に帰らなくて済むかもしれない。そんな事ある訳ないか、と分かっていても、心の片隅で考えてしまうのだ。


「傘、忘れないでくださいね」


 和葉は嬉しそうに笑っていた。

 彼が知る限り、一番柔らかくて優しい笑顔。一目惚れした理由。

 面食らったように、明楽は立ち尽くしてしまった。はは、と渇いた笑みが零れる。何でかは分からないが―――いや、本当は分かっていたのだけれど、少年は込み上げる涙を堪えた。

 誤魔化すように彼女に背を向けて、教室を出ようとする。余計な心配はかけたくないのだから、潤んだ瞳は見せられない。


 彼女には言えない秘密を隠したまま、明楽は笑った。

 「君の知らないところで、姉と関係を持ってるんだ」なんて、言えるはずがない。今の明楽にとって和葉を失うのは、何よりも恐ろしい事なのだ。

 彼女がいなくなれば、残るのは雪那だけ。それだけはどうしても避けなければならない。

 あの心が冷えていくような行為は、一人きりでは耐えられないから。


 胸を抑える。

 吐き気がするくらいに、心が痛い。最低だ、と自分で自分を罵ってみても、欠片も気分は晴れなかった。それはそうだ。自分のために、彼女を騙しているのだから。


 人を裏切ることが、嘘を吐き続けることがこんなにも苦しいなんて、知らなかったのだ。



 





 雨の日と言うこともあってか、映画館はそれなりに多くの人で賑わっていた。

 ポスタースタンドに張り出された「雨の日は千円!」の文字を見て、明楽は納得した。確かに千円は嬉しいと思った。お小遣い制の学生なら尚更だ。


「うーん、一時間後ですか」


 上映スケジュールを確認して、和葉は唸った。

 彼女は待たされるのが嫌いなタイプなのだ。待ち合わせには必ず十分前にはいるタチで、人にそれを強制はしないものの、遅刻にはあからさまに不機嫌になったりする。明楽にはその姿を見せようとはしないが。


 ちらり、と明楽を見た。

 言外に「どうします?」と訴えかけていた。他のを観るか、それともどこかで時間を潰してまでコレを観るか、と言ったところだろうと、明楽は理解した。

 

「微妙な待ち時間だね」

「そうなんですよねぇ。他に観たいのがあれば、と思ったんですけど……明楽くん、どうします?」

「他のかぁ……なんかあるかな?」


 待ち時間のない映画であれば、戦争映画か子供向けのヒーローモノくらいだった。どちらも彼の趣味ではないし、和葉だってそうだろう。

 

「ないね」

「ないですね」


 揃って、きっぱりと言い切った。


「少しその辺回ってみましょうか。ゲームセンターとかもありますし、明楽くんの大好きなクレープ屋さんとかもありますよ?」

「ゲームセンターって、和葉さん行ったりするの?」

「実は一度もなくて……だからちょっと見てみたいなって気はするんですよね。プリクラとか、その……撮ってみたいですし」


 結構なお嬢様の和葉には無縁の場所だった。

 友人も彼女に遠慮して誘うことはなかったのだ。興味はあったが一人では入りづらいし、自分から行きたいと言うのも気恥ずかしかったりする。

 特に友人が彼氏と二人で撮っていたプリクラを見て以来、その興味は膨れ上がっていた。

 自分と明楽が仲良さそうに身を寄せ合っている姿を想像するだけで、胸が高鳴ってしまう。あまりイチャつきたがらない彼でも、これなら少しはガードが緩むかと思ったのだ。


「ね、少し行きません?」

「あー、うん。いいよ、行こうか」


 よし、と小さくガッツポーズ。

 こういう所は年相応の少女らしくて、明楽も好きだった。


「あ、そうだ。ごめんなさい、その前にお化粧直ししてもいいですか?」

「え?うん、いいけど……」

「すみません。すぐ戻りますから、ここで待っててください」


 せっかく撮るのだから、完璧な状態にしておきたいという乙女心だ。

 明楽は映画館ホールの中央にある大きなソファに腰を掛け、手を振った。すぐ戻ると言うが、それなりに掛かりそうな気がする、とは思っても口にしない。

 からかわれた仕返しに言ってやろうかと思ったが、あんなに嬉しそうにしている彼女に水を差すのは悪い気もするのだ。


 バッグを肩にかけ、和葉は小走りで手洗いへと向かっていった。

 その後ろ姿を見送った後、スマートフォンに目を落とす。小さなバイブと同時に、簡素なメッセージが送られてきた。


『少し、お話してもいいかな』


 よく見れば、電話番号へ送信されたショートメッセージだった。

 送り主は見知らぬ番号で、よくある詐欺系のメッセージだろう。眉を顰めて、無視を決め込むことにする。面倒臭いなと溜息を吐いた。


 と、スマートフォンを仕舞いかけて、


「アレ、返事くらいしてくれないのかな」


 隣の席から、女性の声がした。

 人ひとり分のスペースを空けた先から、ラフな格好をした女性が明楽を見ていた。

 混じりけのない長い金髪に高い鼻筋。黒いタンクトップを押し上げる胸元は否が応にも視線を集め、組んだ脚は驚くほど長い。外国人かとも思ったが、その割にはやけに日本語が上手かった。


 一瞬、何を言われたか理解が出来なかった。

 何も言えずにぽかんとしていると、女性は頭を掻いて話し出した。


「あー、悪いね。外に出るのは久しぶりで……他の人と話す機会もあまりなくてね。私の言葉がオカシかったら……まぁ、何とか補完してくれ。馬鹿じゃないんだから、それくらい出来るだろう?」

「え?あ、まぁ、はい……」

「ところで、そのメッセージの話なんだけど」


 すらりと細く長い指が、明楽のスマートフォンを指す。

 女性は返事を聞く間も与えず、淡々と言葉を続けた。


「キミに話があるんだよ。なに、悪い話じゃない。キミの置かれている状況を私に話して欲しいってだけなんだ。母に犯され、信頼していた女性に犯され、今度は姉にも犯されて。それを隠してあの子と付き合っているってのは、まぁまぁ面白い物語じゃないか。だろう?」

「は?いや、なんでそれを貴女が……!」

「知っているのかって?知ってるさ。私は特別だからね。知らない事なんて無いんだよ」


 無表情のまま、けたけたと嗤った。

 サファイアのような瞳がじろりと明楽に向けられる。まるで品定めしているかの如く、爪先から頭のてっぺんまで舐めるように。あまり気持ちの良い視線ではない。


「でも、私は心が壊れててね。感情がないんだ。本を読み漁っても、映画を観ても、人の気持ちが分からない。それだけは知らないんだよ。だから、キミに興味があるんだ」

「……意味が分かりません。いきなりそんな事言われても、訳が分からないです。だいたい、なんで僕なんですか。そんなの―――」

「キミは人を狂わせる。母も姉もあの子たちも、キミに会って狂ってしまった。それが何故かって思ったことはないかい?少なくとも私は、それが知りたいんだ」

「…………」

「キミが納得する必要はないよ。私の個人的な好奇心だからね。女を狂わす魔性の少年。狂うっていうのは、感情が爆発するってことなんだ。それが私にも起こったら、少しは人の心が分かるかもしれないだろう?」


 瞳孔の開いた目が、明楽を捉えて離さない。

 人外染みた言動に、ぞくりと背筋が震え出す。今まで会ったことのないタイプで、本能が「この女は危険だ」と叫んでいた。


 女性は名乗りもせず、一枚の名刺をポケットから取り出した。

 くしゃくしゃになったそれを手で伸ばして、明楽に手渡す。神矢古書房、と記載されていた。裏面には住所と電話番号、そして女性のものと思われる名前も記載されている。


「この後、デートが終わったアトでいいよ。そこに来るんだ。大丈夫、ただの古本屋さ。そこで君の話が聞きたい」

「行かなかったら?」

「ン?」

「行きたくないって言ったら、どうするんです」


 あぁ、と呟いてから、女性は面倒臭そうに言った。 


「いいよ、それならそれで。その時は君の過去も何もかもを、色んなところにバラしてやるさ。キミが関わる所全てに。当然、彼女にも、ネ」


 今度は和葉が向かった化粧室へ、その指を向けた。

 首を傾げ、値踏みをする視線はそのままに、明楽の様子を伺っている。悔しそうに唇を噛んだ少年の仕草を、女性は見逃さなかった。


「どうなると思う?彼女は怒るだろうし、お姉サンは変態だと後ろ指を指されるだろうね。会社だって辞めさせられるカモ。もちろん君だって無事じゃ済まない。そうなったらキミの人生はまたグチャグチャだ」

「……最低ですね。初めて会うのに、貴女の事嫌いです」

「アハハ、よく言われるよ。なに、私は気にしないさ。他人の好き嫌いなんてどうでもいいからね」


 眉の一つも動かさずに、女性は可笑しそうに嗤っていた。

 感情がないと言うのは、本当かもしれないと明楽は思った。言葉も声も、彼女から発せられる全てが異質に感じられるのだ。人形が人間のフリをしているようで酷く不気味だ。


「さて、そろそろ戻ってくるだろうから、私は行くよ」

「僕が行くかどうか、訊かないんですか?」

「訊かないね。キミに選択肢はないんだろう?」


 やっぱり嫌いです、と吐き捨てた。

 見透かしている態度がやけに腹立たしかった。こういうタイプの人間は、生理的に合わないのだ。自分は人を思い通りに操れると信じて疑わない人間。それに今まで振り回されて生きていかざるを得なかった明楽にとっては、ただただ嫌悪の対象でしかないのだ。


「じゃあ、ネ。楽しみにしてるよ」


 女性は席を立って、ふらふらと歩き出す。

 大き目のサングラスを掛けて、ひらひらと手を振っていた。もちろん返す義理なんてないのだから、明楽は顔を背けて意思表示をした。

 と同時に、和葉が化粧室から出てくるのが見えた。こちらに気付いて、笑顔で駆け寄ってくる。明楽は手を振って応えた。


 貰った名刺をポケットに捻じ込む。

 明楽は自分がちゃんと笑えてるか、不安で仕方無かった。

 


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