2章 / 雪那III

「明楽」


 ベッドの上。上半身だけを起こして、雪那は声を掛けた。

 彼女の寝室はまだ情事の余韻が残っているのか、二人を熱源にして暑苦しく感じた。ベッドシーツはぐしゃぐしゃになっていて、サイドテーブルにある間接照明が汗に濡れた肌を照らす。


 おびただしいキスマークを体に残した少年が、雪那の声に応えた。


「……なに、姉さん」


 姉さん、という部分を強調していた。

 彼なりの皮肉と言うか、嫌味のつもりなのだろう。家族なのに、なんでこんな事をしたのだと非難しているのだ。

 コトが終わってから、彼はずっと雪那に背を向けていた。

 決して彼女が嫌いという訳ではなく、ただどんな顔をしていいのかが分からなかっ

た。真っすぐ目を見れる自信もないし、何より今は彼女と一緒にいたいとも思えない。犯されている間ずっと胸に溜め込まれた感情は、どう言葉にしていいのか見当もつかないのだ。


 それは雪那も同じようで、苦虫を潰したような表情を浮かべていた。


「私のこと、まだ好きか?」

「…………」

「私はお前の事を大切に思ってる。今さらこんな事言っても嘘臭く感じるだろうが、これだけは本当だ」

「……じゃあ、なんで」


 雪那はサイドテーブルの引き出しから、煙草を取り出した。

 何年も前に禁煙して以来だった。安物のライターで火を点けて、ほんの少し肺に吸い込む。久しぶりだったせいか少し苦く感じた。


 紫煙がゆらゆらと揺らめいて、暖色のライトに消えていく。

 背を向けたままの少年への回答は、それなりに覚悟のいるものなのだ。


「羨ましかったんだよ」


 言えば、関係は壊れるかもしれないと恐れていた言葉。

 どちらにせよ、今さらだ。手を出してしまった以上、姉弟の関係なんて戻れるはずもない。戻る気もないし、望んでもなかった。


「初めは大事な弟くらいにしか思ってなかった。まぁ、ちょっと過保護だったかもしれないけど、それだけ大切だったんだ」


 ふー、と煙を吐く。

 我ながら言っていることは滅茶苦茶だと思う。大切だと言っておきながら、やっていることは強姦魔となんら変わりがない。好きなら何をしても良い訳じゃないし、家族だからと言って好き放題するのであれば、自分がクズと蔑んだあの母と同じなのに。


「お前が誰かのモノになっていくのが気に入らなかった。お前を助けたのは私で、養っているのも私だ。メシも服も家も学費も、全部私が面倒を見てるっていうのに……」


 明楽は口を挟まなかった。

 あまり自分の事を話してくれない雪那が、初めて胸中を吐露しているのだ。その内容は独善的でも、紛れもない彼女の本心である。複雑な感情はそのままに、明楽は耳を傾けるしかなかった。


「軽蔑してるか、私を」


 火種が揺れる。

 灰皿代わりのグラスに灰を落として、また一息吸う。

 明楽はどう答えるべきか考えているようで、小さな背中を丸めては身を縮ませていた。答えによっては、決定的な亀裂が二人の間に入ってしまうかもしれない。雪那の余裕を持った態度はむしろ恐怖の裏返しで、問い掛けたくせに答えを聞くのが怖くて仕方なかった。「軽蔑する」と言われたら、自分を保っていられるだろうか。


 煙草が一本吸い終わるあたりで、少年が大きく深呼吸をした。

 部屋の空気はすっかり冷め切っている。冷えた汗が体を凍えさせるように、雪那はふるふると震える指先でタバコをもみ消した。二本目は吸う気にはならず、手持無沙汰を誤魔化そうと、口に咥えるだけにした。


 相変わらず背中を向けた少年が、ぽつりと話し出す。


「軽蔑は、してないよ」


 そうか、と答えた。

 軽蔑は、と言うのであれば、それ以外に思う所はあるのだろう。安堵とは程遠い感情が心に暗い影を落として、咥えた煙草がぐにゃりとひしゃげた。


「……でも、ごめん。僕ももうよく分からないんだ」

「よく分からないって、何が?」

「姉さんの事は嫌いじゃない、と思う。少なくともさっきまでは。でも今は―――」

「分からないってか」


 ぴしり、と何かに亀裂が走った。

 自分の内側から聞こえる不吉な音。似たような感覚は何度もあった。その度に錠剤を酒で呷って、無理矢理にでも眠らなければ壊れてしまいそうになるアレ。

 言葉を遮ったのは、明楽からこれ以上言葉を聞くのは耐えられなかったからだ。


 ならば、と腹を括る。

 望まない答えなのは明らかなら、聞く必要はもう無い。


「もういい。もう、分かった」

「……うん」

「私たちも終わりだ。これからの事も考えないとな」


 え、と間の抜けた声。

 きっとそこまで深くは考えていなかったのだろう。多少ギクシャクしても、今まで通り暮らせると思っていたのかもしれない。甘い考えだと、雪那は心の中で嗤った。


「『こういうコト』が嫌なら、ここから出て行っても構わん。私はもう我慢するつもりもないし、これからもここに住むって言うなら……言いたい事、分かるだろ」

「ま、待って。そんなの……」

「それに」


 振り向いた少年の目を見据えて、はっきりと言う。

 これからもっと残酷な事をするのだ。あの母親のように、彼の心を縛り付けてやる。首にナイフを突きつけるように脅して、従わせてやる。唯一の家族である雪那だからこそできる、彼女だけのやり方で。

 

「ここを出るなら、場所は限られてる。祖父母の所は無理だぞ。入院したきりでお前を養えるような状況じゃないしな。なら残るのはあの母親の所だけだ」


 言葉の刃で、明楽を丁寧に突き刺してやる。

 一言刺す度に、少年の顔が悲しそうに歪んでいく。母親と聞くだけで体を震えさせる彼に、容赦無く畳みかけた。


「連絡先は知っている。言えばあの女は、喜んでお前を引き取るだろうよ」

「……っ、それ、は」

「マトモに仕事もしているようだし、お前と暮らしても不自由はしないだろ。それでもいいなら、ここから出ていけ」


 良いワケがないだろうけど、とほくそ笑む。

 彼にとって母親は最大級のトラウマだ。数年にも及ぶ虐待に凌辱。彼の持つ障害のほとんどが、母親によって刻み付けられたのだ。

 顔を見るどころか、名前を聞くだけで歯がカチカチと鳴って塞ぎ込んでしまう。体は意思に反して震え出し、ただひたすら「ごめんなさい」と呟き続けるだけ。


 それでも良いならと、雪那は言ってのけた。

 

「どうする?ここに残って暮らすなら、私もそれなりに譲歩してやる。あの女と付き合うのも認めるし、大学までキッチリ面倒見てやろう。今までと変わらない態度で接してもやる。その代わり、私に抱かれろ」

「……こんなの、脅迫じゃないか」

「だから何だ。一人で生きていけないお前が悪い。私が人生の大部分を使って金を稼いで、お前を食わせてやってるんだ。私がお前のために生きているんだから、お前も私のために生きて欲しいと思うのは普通だろう?」

「だからって、こんなの……っ。姉弟ですることじゃ―――」

「そんなモノ知るか。私たちが普通の家族と同じなわけないだろうが。狂った母親に、さっさと死んで金も残さなかった父親。私がどれだけ苦労してきたと思ってる?お前を引き取ってから男も作れず、ただ仕事ばかり。それなのにお前は女とヤって、私から離れていこうとするなんて。ガキだからって許されるわけないだろう」


 嘘だ。

 あんな母親なんてどうでもいいし、父は雪那を愛していた。

 働き始めてからお金に困ったこともないのだ。仕事はそれなりに楽しんでるのだから、口から湧き出る出まかせには自分でも驚くくらいだった。

 とはいえ、少年を追い詰めるには十分な言葉だ。

 あからさまに歪んだ顔は、身震いするほど情欲をそそる。暖色のライトに照らされた姿は、まるで体を売る事を強制された少女のようだ。


「さぁ。今、ここで選べ。母親の所に戻ってまた酷く犯されるか、それともここで今まで通り暮らして、私に愛されるか」

「…………」

「私の所に残るなら、今日みたいに乱暴にはしないと約束する。大切な弟だからな。優しく、お前が嫌がらないようにシてやる」


 葛藤が少年の心に渦巻く。

 答えは決まっているも同然だった。母の元に戻るのは、何が起こってもあり得ない。いずれは母と和解したいとは思っていても、体がそれを拒絶しているのだ。

 表面上の心だけが母を許していて、その根底はまだ恐怖と侮蔑が根付いている。思い出すだけで涙が零れ出すのがその証だった。


「……わかった」


 悔しそうに、絞り出すように言った。

 唇が震えて、握る拳は今にも叩きつけられそうに赤く染まっている。納得など全くしていないのは明白だった。


「そうか」


 踊り出してしまいそうになるくらいの歓喜を抑えて、静かに答える。


「……これで満足?」

「そう不満そうな顔するな。何度も言ったけど、お前の事は本当に愛してるんだ。できればこれからも仲良くやっていきたい」


 どの口が、と嗤ってしまいそうになった。

 努めて優しげな声音で、明楽に囁きかける。困ったような笑みを浮かべると、少年の棘のあった顔が少しずつ柔らかくなっていった。

 半ば賭けではあったが、明楽は人を拒絶できるような人間ではないのだ。彼は典型的なDV被害者と同じで、いくら酷い仕打ちを受けても「必要とされている」実感があるのなら、歯を食い縛って受け入れてしまう。その後で優しく諭すように甘い言葉を掛ければ、仕方がないの一言で終わってしまうのだ。


 そういう風に彼は作られた。

 あの母の手によって、都合良く考えなければ壊れてしまうように育てられたのだ。


 だから、囁く。

 用意していた言葉で、何度も練習した顔と口で。

 今の自分は母と同じなのだ。遠慮はいらない。利用できるモノは全て使って、少年を縛り付けてやればいい。


「ごめんな。だんだん離れていくお前が不安で仕方無かったんだ。どうしていいか分からなくて、こんな風にしか出来なかったが……」

「……うん。わかったから、もう」

「本当にすまない。出来るだけ、こんな事はシないようにするから。だからお前も私から離れないでくれ。二人きりの家族なんだから」


 小さく丸まった体を、優しく抱き締めた。

 ほんのり冷えた肌が気持ち良かった。さらさらとした髪を撫でて、おでこに口付ける。びくりと体が跳ねただけで、嫌がらずに受け入れてくれた。それがまた嬉しくて、雪那はくすくすと笑って彼を押し倒した。


「ちょ、姉さんっ……」

「今日はもう何もしないよ。少しキスするだけだから」


 今日は、もう。

 明日も仕事なのだから、あまり盛ってしまうのは問題だ。

 と言っても一度盛り上がった興奮を冷ますには、それなりに発散しなければならないのだ。血の繋がった姉弟だけあって、体の相性はかなり良かった。近親相姦はタブーと言うが、そんなものクソ食らえだと言えるくらいの快感だった。

 少なくとも今までの男とは比べ物にならないくらいの快楽。それが目の前で無防備に肌を曝していて、何時でも嬲っていいのであれば、食べない方がどうかしているのだ。


 耳元で囁く悪魔の如く、自分の本心が頭の中でけらけらと嗤っている。

 行儀の良い天使はとっくにいなかった。真っ黒に染まって、食らってしまえと背中を押す。どうせ形だけ取り繕った家族なら、形振り構ったって仕方ない。

 明楽に逃げ道はなく、雪那から離れることは出来ない。

 意思はどうあれ現実的に彼女の元で生きるしかないのだから、受け入れて体を差し出すだけ。少しでもマシな方に、傷付かない方へ歩くのみ。


「な、ちょっとだけだから。怖くないだろ?」


 返事を聞く前に、小さく潤んだ唇に舌を這わせる。

 一度知ってしまった味は、キス程度じゃ収まりがつきそうになかった。余計に火照っていく身体を押し付けて、少年を飲み込んでいく。自分がいなければ生きていけない可愛い弟を。


 誘うように腰を押し付ける。

 腕を回して、足を絡め取る。息をつく間もないキスが堪らなく気持ち良い。


 けれど抱き締める細い体は、最後まで冷たいままだった。

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