2章 / 雪那I
明楽を引き取ったときの事は、今でも鮮明に思い出せる。
どちらかと言えば、忘れられないと言った方が正しいかもしれない。
それ程に強烈で、脳裏に焼き付いて離れない記憶だった。
歳も大きく離れていたからか、小さく素直な弟が可愛くて堪らなかった。
もちろん喧嘩くらいした事はあったけれど、ほとんどべったりくっ付いていた彼を良く覚えている。優しく、明るい少年だった。
両親が離婚するにあたって、私は父に引き取られることになった。
本当は明楽も引き取られる予定だったらしいが、彼は頑として首を縦に振らなかったのだ。自分が父の元へ行くことによって、母が一人になる事が許せなかったようだ。
その後は色々あって、明楽は母と暮らすことになった。
父は最後まで心配していたけれど、明楽は笑って母の手を握っていた。また会えると信じて、私は母と弟を見送ったのだ。
―――これが、私の人生最大の後悔。
数年して、父は他界した。
雨の降る夜道での自損事故だった。夜遅くまで残業していて、疲弊したまま車で帰ろうとしたのだ。
祖父母が葬儀の手配をしてくれて、あっという間に父は灰になった。
悲しむ時間はほとんどなく、当時大学生だった私は呆気にとられたまま、一人で暮らす道を選んだのだった。
祖父母は一緒に住もうと言ってくれたが、私はどうしてもここから離れたくはなかた。
父との思い出もあるし、何より弟を残したままではいられないと思ったのだ。
だから私は、弟に会いに行こうと思った。母とは一向に連絡が取れなかったため、大家に事情を話して合い鍵を貸して貰うことになった。面倒はあったが、数年ぶりに弟に会えるはずだった。
浮かれた気分で、鍵を開けた。
久しぶりに会う弟は、どんなふうに成長してるのだろうか。年齢は十二歳になっているのだから、記憶の中にある幼い彼ではないだろう。少しは男の子らしくなってるか。背は伸びて、声変わりも始まっているのか、とか。胸に湧き上がるものを感じながら、ドアノブを掴んだのだ。
―――けれど、視界に飛び込んできた光景に、私は文字通り凍り付いてしまった。
真っ暗な部屋。
散乱するゴミに、鼻を突く異臭。
およそゴミ屋敷と呼んでも不思議ではないくらいの、荒れた空間。反射的に部屋を間違えたと思って、慌てて部屋の外に出る。結局表札と部屋番号を何度確認しても、ここは母と弟の住む部屋だった。
私の背中にぞくりと悪寒が走った。
人がまともに暮らせるような部屋じゃない。明らかに異常だし、ここで弟が暮らしているのだと思うだけで吐き気が込み上げてくる。私が平和にのほほんと過ごしている間、彼は一体どんな目に遭ってきたのだろう。
照明のスイッチを押してみても、電気は点かなかった。
仕方なくスマートフォンのライトを頼りに、部屋を見渡す。大量のゴミが入ったビニール袋の山の向こうで、小さな影がごそりと動いた。
「明楽ッ!?」
幽霊だとか、そんな下らない考えは過りすらしなかった。
2LDKのマンションの、リビングのさらに端っこ。ヒビ割れた木製のテーブルの先に、やけに体の小さな少年が膝を抱えて蹲っていた。
反射的に私は駆け寄った。
少年は鈍い動きで私を見上げた。眩しそうに眼を細めて、口をパクパクとさせている。何かを言おうとしているようだったが、声が出ないようだった。
「明楽……なんで、こんな……母さんはどうした?おい、明楽ッ」
私はパニックの真っ只中で、マトモに頭が回らなかった。
来年中学生になるとは思えないような小さな体と、握り締めればぽきりと折れてしまいそうな細い腕。目の隈は酷く髪はぼさぼさに伸びていて、大き目のシャツから除く手足には酷い痣や傷痕が覗いていた。
頭がじん、と熱くなって。
悲しかったり、悔しかったり、色々な感情が混ざり合っていた。こんな惨状に気付けなかった自分に怒りが込み上げて、虚ろな目をした弟に涙する。
あれほど大切に思っていたはずだったのに、どうして父の反対を押し切っても会いに行かなかったのか。もっと早くに行動していれば、こんな事にはなっていなかったかもしれないのに。
様々な思考が渦巻く頭の中で、やるべき事だけははっきりと理解できた。
弟の手を取って、上着を掛けてやる。
車で来てよかった。こんな状態の明楽を電車になんか乗せられないし、タクシーもあまり良くないだろう。
元は父の車だったSUVに明楽を乗せて、私はそのまま自宅へと連れ帰った。
その後は紆余曲折あって、母親から親権を奪い取った。親権自体は祖父が持っているものの、明楽は私と暮らすことになった。虐待や育児放棄の証拠を突き付けられた母は明楽と面会すら叶わない状況となり、今ではどこか遠くで暮らしているのだと祖父母から聞いている。私としては、それなりの報いは受けさせてやりたかったが。
何はともあれ、明楽は私が助け出した。
使命感か何かは分からないけれど、弟は私が一生守って生きていくんだと息巻いた。
あれから数年。
今ではすっかり回復した明楽は、人並みの生活を送れている。
友人にも恵まれ、あんな事があったにも関わらず捻くれる事もなく、素直で優しい少年に育ってくれた。親代わりとしては嬉しい限りだ。
言わば明楽は、私の宝物なのだ。
私が助けて、私が育てた、私の最愛の弟。
私がいなければきっと死んでいただろう。私がいたから、彼はこうして生きていられるのだ。そう、私のお陰で。
最近色々あったせいで、私の心は搔き乱されてばかりだ。
明楽に恋人が出来たり、攫われて傷付けられたり。私の宝に勝手な事ばかりする連中が多くて腹が立つ。それでもあの女と付き合おうとする明楽にも。
得体の知れないヘドロのような気持ち悪いモノに、私はずっと苛まれていた。
溜息を吐いて、グラスの酒を煽る。
酒の量は明らかに多くなった。それだけストレスが溜まっているのだと、自分でも危機感を覚えてしまう。
そろそろ私も、限界が近いようだった。
♪
「おかえり、姉さん」
ハーフパンツに薄手のパーカー、その上にエプロンを纏った明楽は、キッチンから顔を覗かせて言った。
雪那は小さくただいま、と言って、バッグをリビングのテーブルに放り投げた。ついでに上着も脱ぎ捨てる。キッチンから可愛らしい声で抗議する声が上がったが、無視してソファに寝転がった。
ここ数カ月、精神的には最悪のコンディションだった。
明楽には内緒で心療内科に通ったり、向精神薬を飲んだりと、心の中が不安定なのだ。理由は自分でも分かっているが、こればかりは克服しようがないと思っていた。なにせ公には口にしづらく、自分自身で解決するしかない問題なのだから。
ぼうっと天井を眺めていると、その原因が歩いてきた。
のほほんとした顔で、手には菜箸を持っている。
ついこの間まではボロボロだった弟は、長いリハビリの間ほとんど会うことはなかった。初めこそ見舞いには行っていたものの、すぐに「仕事が忙しいから」と口実をつけて行かなくなってしまったのだ。
これも理由は単純で、合わせる顔がなかっただけではあるけれど。
「また脱ぎっぱなしにする……」
菜箸を咥えて、床に落ちていた上着をハンガーに掛けていく。
口うるさい母親みたいな言葉も、これで何百回目だろう。雪那は自虐的に笑って、明楽に目を向けた。
「……学校はどうだった」
「久しぶりで楽しかったよ。友達にも会えたし、補習は結構しんどかったけど……」
「はは、そりゃ仕方ないだろ。進級できないよりマシだ」
そうだね、と笑顔を見せる明楽に、心が騒めく。
補習を受けなくてはならなくなった原因を作ったのは、決して彼ではないのに。それでも一言たりとも文句を言わないのは、まるで聖人君子のような気味の悪い寛容さのせいなのだろう。
普通の人間なら、恨み言の一つくらいは零す。
なんで僕が、という気持ちがあったって不思議ではない。それでも彼は口にしないのだ。そういう機能が、欠落しているから。
考え込んでいる間、不機嫌そうな顔をしていたためだろうか、明楽が心配そうな表情を浮かべていた。
一緒に住んでいるだけあって、雪那の変調は明楽も察していた。
雪那自身それも感じていたし、それとなく気を遣われているのも分かっていた。甲斐甲斐しく自分の周りをウロチョロする弟が可愛くて、たまにわざとブスっとしていたりもしていたが。
はぁ、と息を吐いて、雪那は天井を見上げたまま言った。
「まぁ、何もないならいい」
「……姉さんは大丈夫なの?最近疲れてるみたいだから、その」
「私の心配より自分の心配をしろ」
出鼻を挫かれて、明楽は出かかった言葉を飲み込んだ。
これ以上の小言は面倒になって、雪那は切り上げるように立ち上がった。その足でキッチンへ向かうと、お気に入りのグラスにロックアイスを入れた。飲酒は控えると約束していたが、守ったことはほとんど無かった。
「またお酒……」
「いいだろ別に。私が稼いだ金で買った酒なんだから、いつ飲んだって私の自由だ」
「最近体調悪そうなんだから、しばらく飲まないって言ったじゃんか」
「言ってない。考えておくって言っただけだろ」
「またそうやって……」
「いい加減うるさいぞ、お前。いちいち口喧しく文句を言うな」
いつもなら笑って受け流すのに、今日は無性に腹立たしかった。
心配そうな声も、自分を案じた上での言葉も、威圧するような言葉を掛けられて怯えた色が映る瞳も、全てが雪那の癇に障った。
「女が出来て態度がデカくなったな。マトモに女を知って、少しは偉くなったつもりか?」
「そんなんじゃ……っ」
「だったらグダグダと偉そうに言うな」
がん、とグラスを叩きつけるように置く。
肩程までしか身長のない明楽に詰め寄った。潤んだ目ではあったが、反抗的な色が混じっている。明楽と喧嘩するときはいつもこうだった。泣くほど怖いくせに、意地でも引き下がろうとしないのだ。
それがまた、ムカついた。
その上で重ねられた言葉は、今まで積み重なっていたどす黒い感情を爆発させるには十分過ぎるものだった。
「嫌だ。僕は姉さんの家族だから、口出しするのは当たり前だから。お酒は辞めるって約束し―――」
ぱん、と大気が弾けるような炸裂音。
次いで誰かが壁を殴ったような鈍い音。
目の前から少年が消えた。移した視線の先―――弾き飛ばされたように壁にぶつかった明楽を見て、雪那は他人事のように驚いていた。じんじんと痺れる右手に、自分が少年の頬を叩いたと気付いた。
少年は目を丸くして、頬を抑えていた。
言葉が出ないようで、もしかしたら痛みすらまだ認識できていないかもしれない。
雪那が暴力を振るった事は今まで一度もなく、喧嘩することはあっても口論が精々だった。過去に虐待されていた彼を叩くのはどんな理由があれ許される事ではないと思っていたから。
思っていたのだ、本当に。
雪那は赤く紅潮した手と、小さく震える明楽を交互に見た。
「ちが、明楽、これはっ……」
びくり、と明らかな拒絶。
伸ばした右手が触れる前に、少年は酷く歪んだ顔で雪那を見上げた。
ほんの僅かだった怯えが強くなって、涙が一筋零れている。信じられないものを見るような、急に目の前に現れた化け物に怯えるような、そんな態度。それが雪那に自分のした事を実感させた。
―――ぞくり。
と、同時に。背筋を駆け上がる電気のような感覚。
庇護の対象だった少年を、自分が殴った。何よりも大切だと思っていた弟を、この手で傷付けたのだ。吐きそうになるくらいの胸糞悪さを感じているはずなのに、それを上書きしようとする感覚に戸惑う。
(なんだ、これは……)
気付けば、明楽の前に立っていた。
頭の中はごちゃごちゃで、自分でも何を考えているか分からない。
ただはっきりしているのは、自分がこれから何をしようとしているのかという事。その行為に対する都合の良い言い訳と、ずっと心の奥底に沈めていた感情。薬を飲まなければ眠れなくなってしまった、その原因。
初めに、自分の息が荒くなるのを感じた。
はぁはぁと獣みたいな、露骨な息遣い。それが恐ろしいのか、身を縮める少年を見て火照っていく身体。ばくばくと鼓動する心臓の音がうるさいと感じた後には、今まで経験したことのないくらいの熱が下腹部を襲った。
「あぁ」
と、口から零れた。
やっと理解できた。やはり自分はあの母の娘なのだ。
母もきっとこんな気持ちだったのかもしれないと、雪那は嗤った。あはは、と堪え切れない自己嫌悪が襲い掛かって、自分の手をべろりと舐め上げた。
「あぁ、そうだな。今なら分かるよ。同族嫌悪だったんだな、きっと」
母も、黒川 菖蒲も、あの生意気な桐生 和葉も。
恐らく同じ感情を持っていたのだろう。家族だからと言い訳をしていたが、何の事はない。
母が明楽を好き放題していたと知った時から、彼が攫われて暴行を受けたと聞いた時から、恋人が出来て離れていこうとする少年を見てから、ようやく自覚し始めていたのだ。
―――なんだ、羨ましかったのか、私は。
理解してしまった以上、抑える事は出来なかった。
きっと今夜からは、薬を飲まなくても眠れるはずだ。もっと良い薬が目の前に転がっているから。何よりも大切な家族で、弟で、モノにしてしまいたいと願っていた少年。心が認めてしまえば、雪那のすることは一つだけだった。
「なぁ、明楽。お姉ちゃんのこと、好きだよな?」
自分でも卑怯だな、と思う言葉と共に、唾液に濡れた手を少年に伸ばした。
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