和葉Ⅸ
友人たちからおかえり、と声を掛けられるのは、素直に嬉しかった。
授業はずっと先に進んでいたが、それは仕方ないと諦めた。大人しく補習を受けて、夏休み前のテストは何とか切り抜けるしかないだろう。勉強は得意という訳ではないけれど、一夜漬けには自信があるのだ。
何カ月ぶりかの授業はあっと言う間だった。
懐かしんでいる間に昼休みとなり、明楽は席で背をぐっと伸ばした。
「なんか、久しぶりだと疲れるなぁ」
「私もです。勉強は嫌いじゃないですけど、補習もあるって考えると……」
ふふ、と困ったように笑う和葉が、明楽の髪を撫でた。
弁当を広げる者、購買に行く者とクラスメイトはめいめいに席を立ち、教室はざわざわとした騒音に包まれる。明楽たちも例外ではなく、カバンから弁当を取り出したところで、和馬と真也が席にやってきた。
「おっす。メシ、屋上でいいよな」
「うん。けど暑くないかな」
「日陰もあるし、いいんじゃないですか。あんまり暑かったら戻ればいいですし」
「あれ、桐生さんも一緒にくるの?」
当然のようについてこようとする和葉に、真也が驚いて見せた。
たまに明楽と二人で昼食をとることはあっても、大抵は友人たちと一緒に食べるのが常であった。同様に明楽も和馬たちと食べる事がほとんどで、そこに同席することは今まで一度もなかったのだ。
「いけませんか?」
じろり、と目を細める和葉。
何だかあまり見たことのない彼女の反応に、二人はたじろいだ。
「いや、いけなくはないけど……あんま俺たちがいるとこに来たがらなかったからさ」
「以前の話です。今は出来るだけ明楽くんと食べようって決めてるんですから」
「あぁ、そうすか……」
文句ありますか、とでも言いたげな彼女は、これ以上は時間の無駄だと席を立った。手にはピンク色の可愛らしい柄をした保冷バッグを持っている。
真也も諦めたようで、それ以上は何も言わなかった。
「さ、屋上に行きましょうか……と、そうだ。飲み物買ってから行きますので、先に行っててください」
ちら、と和馬を見る。
先程から一言も喋らずにいた和馬は、察したように言った。
「俺も、購買寄ってから行くから。先行っててくれ」
「なんだよ……ま、いいか。んじゃ明楽、いこーぜ」
明楽の肩をポンと叩いて、真也は教室を後にする。明楽も頷いてその後を追った。
二人を見送った後、和馬は溜息を吐いて和葉に向き直った。
「で、何か話か」
投げかける言葉は刺々しく、態度も明らかに悪い。
和葉もあまり猫を被る気はないようで、こちらも棘のある言い方で返した。
「ええ。実習棟の自販機のところで、話があります」
「実習棟?」
実習棟は教室のある本棟とは離れた所にあり、理科実験室や音楽室など、実習や一部の部活動で使われる場所である。
ほとんどの生徒は購買で飲食物を買うのが当たり前になっているため、実習棟の自販機は極稀にしか使われていなかった。
そんなところへの呼び出しである。
告白はあり得ないとして、あまり良い話ではなさそうだ。
「……分かった。行こう」
「ありがとうございます。すぐ済みますから」
ぺこり、と小さく頭を下げて、和葉は教室を出ていった。
♪
「で、話って何だ」
不機嫌さを隠そうともせず、和馬が言った。
明楽にも宣言したが、そもそも和葉の事を良く思っていないのだ。ほとんどが彼女の事を「美人で優しい良い人」として認識している中、それがどうしても嘘臭くて好きになれない。
最近はその本性の片鱗を覗かせていて、対象になっているのは仲の良い友人の明楽なのである。放っておけるはずもなく、和馬は気が気ではなかった。
「明楽くんの事で、はっきりさせておきたい事がありまして」
自販機を背に、和馬が頷く。
目の前の少女は相変わらずニコニコしたまま、淡々と話し出した。
「彼がまた酷い目に遭ったのは知っていますよね?」
「ああ、聞いたよ。噂程度だけどな」
「黒川 菖蒲に拉致されて、暴力と凌辱を繰り返されていました。怪我はその時のものです」
「…………」
「助けたのは私たちですが、それを踏まえてお願いがあるんです」
なんだ、とは言わず、目で続きを促す。
和葉の顔から笑みが消え、ぞくりとするくらいに低い声が吐き出された。
「明楽くんは私が管理します。友人も付き合う人も全て、私が決めます。だから成宮君たちにはもう彼に関わって欲しくないんです」
「……理由は?いきなりアイツと縁を切れだなんて、ふざけるなよ」
「ふざけてません。迷惑なんですよ、私から明楽くんを奪おうとするのは。黒川といい、あの一年生といい、どうして私たちの邪魔ばかりするんですか」
瞳孔が開く。
逆光を浴びた和葉の目が、鈍く淀んで和馬を睨みつけていた。
「あんなことは二度と御免なんです。うんざりなんですよ。どいつもこいつも、明楽くんは私と結ばれたっていうのに横からごちゃごちゃと。どうして分からないんですか」
「知るか。お前がどう思おうが、俺と明楽は友達だ。お前には関係ないだろ」
「関係ありますよ。私のモノなんですから、纏わりつく虫をオスメス関係なく払うのは私の役目でしょう?」
瞬間、和馬の首に衝撃が走る。
がつん、と音を立てて後頭部が自販機に叩きつけられた。ぎりぎりと首の骨を折らんばかりに締め付ける手は、目の前の少女のモノとは思えないくらいの力が込められている。酸素が頭に回らないまま、和馬は彼女を睨みつけた。
「だから、成宮くんはもう要らないんです。竜崎くんも、他の人たちも」
「がっ、ぁ、ぁあッ」
「わかります?明楽くんには私だけ入ればいいんです。彼の周りには何もなくていいんです。うざったいんですよ、いい加減」
ぱ、と和葉の手が離される。
和馬は膝を着いて、必死に息を吸っては吐いてを繰り返した。黒く狭まった視界が開けていく。冗談抜きで死ぬかと思った。得体の知れない恐怖が体を覆っていて、冷や汗がワイシャツを濡らしていた。
じっと見降ろす和葉は、腰を折って身を屈めた。
首を傾げて、まるで観察するように。げほげほと咳き込む和馬が落ち着くまで、何も言わずに眺め続けた。
「忠告です。破ったら、本当に死んでもらいますよ?」
「はあっ、はぁっ……ッ」
「本気ですから。お忘れなく」
そう言って、和葉は自販機に小銭を入れた。
何事もなかったように、汗の一つもかいていない。暴力なんか無かったかのように平然としたその様が恐ろしくて、和馬は何も言えなかった。
取り出し口からペットボトルを取り出して、俯く和馬に背を向ける。
と、思い出したかのように振り返った。可愛らしく手を合わせて、誰もが知るあの「柔らかな笑みを浮かべる」和葉の顔で、吐き捨てた。
「あ、屋上には来なくていいですよ?今日から一人か、誰か別の方と食べてください」
和馬の返事を聞かずに、和葉はその場を後にした。
♪
放課後の補習を終えても、夕日はまだ沈み切っていなかった。
二人仲良く並んで英語の授業を受けた。通常のカリキュラム後に、さらに最終下校時刻まで授業があると言うのは、中々堪えるものがある。疲れ切った明楽は机に突っ伏して、うー、と小さく唸った。
「流石にしんどいよ、これ……」
そうですね、と和葉が答える。
彼女の疲れているらしく、目頭を押さえていた。勉強できるとは言え、別に好きな訳ではないのだ。明楽が隣にいなかったら、とっくに抜け出していただろう。
おまけに進捗次第では夏休みも補習を行うと言ってきたのだから、肉体的にも精神的にも重く圧し掛かっていた。
「まぁ、今頑張れば夏休みは遊べますし。頑張るしかないですねー……」
「そうなんだけどさぁ」
「そうだ、夏休みの予定、今から立てておきませんか?楽しいこと考えていれば、少しは気が晴れますって」
「あ、それいいかも。旅行とか行きたいね」
「水着買って、海とか行きましょうか。ウチの別荘がいくつかあるので、そこ行きます?」
「別荘……今さら驚かないけど、すごいね」
そうだ、と明楽が気付く。
顔だけを彼女に向けて、無邪気そうな笑顔で言った。
「和馬とかの予定も聞いて置かないとね。できれば姉さんも予定会うといいんだけどなぁ」
「……そうですね」
「別荘って、みんなで行っても大丈夫?」
「ええ、大丈夫ですよ」
どうせ来ませんから、と心の中でほくそ笑む。
和馬には忠告済みだし、真也には今夜にでも釘を刺しておくつもりだ。雪那については改めて考えなければならないが、今は彼に近づこうとする人間を管理していけばいい。
和葉は席を立った。
ここで明楽と話すのもいいが、今はやる事が山積みだ。心を鬼にして、自分に言い聞かす。優先順位を間違えるわけにはいかない。
「さて、帰りましょうか。また明日もありますし、明楽くんも病み上がりですしね」
「まだそれ言うの?」
「あと一カ月くらいは言い続けますから」
小さく舌を出して、和葉は笑った。
つられて明楽も笑う。その笑顔が溜まらなく胸を締め付けて、和葉は少年の顎に手を添えた。
ぐ、と引き寄せて、小さく潤んだ唇に自分のそれを重ねる。
少年の強張った体がやけに生々しくて、体の熱が上がったのを感じた。
「ん……」
ちゅ、と軽い水音。
夕日が教室を差して、少年の顔を赤く照らす。
数秒経って唇を離した。顔は寄せたままで、ふぅ、と少年の吐く息の熱を感じる。彼は距離を置こうとしたが、和葉は顎を掴んで許さなかった。
「……いきなりはずるいよ」
「いいじゃないですか。何だか告白したときみたいで、ぐっときました」
そう、と言って顔を伏せる明楽の唇を、もう一度塞いでやる。目を見開いてはいるものの、抵抗するつもりはないようだ。
しばらく啄んだりと遊んでいると、目で恨みがましく訴えてくる。
反抗的な態度は頂けないのである。和葉としては、もう少し可愛らしい反応が欲しかった。
(そういう態度取るなら、知りませんからね)
本気でキスしてやろうかと身を乗り出したところで、明楽は必至に身を捩って逃げ出すのだった。
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