2章 / 和葉IV

 心の中で、誰かがそっと囁いている。


 初めは聞き取れないくらいの小さな声だった。

 ぼそぼそと耳障りな程度で、全く相手にしていなかった。幻聴のようなものでも、不思議と恐怖を感じることもなく、私はそれを無視し続けてきた。

 


―――はっきりと聞き取れるようになったのは、彼と付き合い始めた辺りから。



 放課後の、夕日の差す教室で。

 私は精一杯の勇気を振り絞って想いを伝えた。

 彼が私に好意を持っている、とは人伝に聞いていた。

 本当かどうかは分からなかったし、それを鵜呑みにして断られたらどうしよう、と不安にもなっていたけれど、色々な葛藤や躊躇を乗り越えて、私は彼に告白したのだ。


 結果は大成功。

 夕日のせいなのかどうかは分からないけれど、真っ赤になってあたふたする彼はとても可愛らしかった。きっと私も同じように赤くなっていたのだと思うと、お揃いだと嬉しく感じた。

 一目惚れしてから今までの、私の長い片想いは成就したのだ。人生で最も素敵な瞬間だった。

 


―――その日から、私は少しづつ変化していった。



 ヤキモチ程度なら、彼と付き合う以前からあった。

 彼が誰かと楽しそうに話しているとき。

 生徒会長と肩を並べて机に向かっているとき。

 不意に誰かに視線を向けたとき。

 ほんのささいな事で、心の中でちりちりと火種が燻り出すのだ。でもそんなのは誰にでもある事だし、私に限った話ではない。

 それが原因で彼に嫌われる可能性だってあるのだから、私は努めて飲み込むことにしていた。


 そうだ。していたのだ。

 それが出来なくなったのは、耳元で囁く「アイツ」のせい。


 彼が友人と話していれば、「あの女は明楽を奪おうとしているぞ」と言う。

 違うと否定しても、耳に残った言葉が私の心を搔き乱す。

 彼と友人の距離が近いのではないか、とか。彼の笑みが、私と話しているときよりも嬉しそうなのでは、とか。疑心暗鬼のような、黒いヘドロが胸の中に溜まっていくのが分かった。


 一度疑い出してしまうと、「アイツ」の声ははっきりと鮮明になっていく。


 高く透き通った声で、あの日からずっと、私の心に火種を落とし続けている。

 彼を見るだけで―――彼がいないときでも、その声は囁きかけた。そんな日々が続くのだから、溜まった火種が炎になるのに時間はほとんど掛からなかった。


 今となってはハッキリ分かる。

 あれは私が元々持っていた嫉妬だ。

 本当に欲しいものを手に入れたから、誰にも取られたくなくて、私の心がそう叫んだのだ。

 彼を奪われないように私だけのものにしてしまえと。誰にも触れさせるなと、私の本心が声になったのだと理解した。



―――何故ならその声は、私の声とそっくりだったのだから。








 

 カーテンを閉めて、部屋の電気を消す。


 薄暗い部屋の中で、和葉は少年が横たわるベッドに腰かけた。

 ぎしり、と聞こえた音が妙に生々しく感じた。それは少年も同じだったようで、少し恥ずかしそうな表情を浮かべている。小さく頷いてから、「オネガイシマス」と緊張しているのがバレバレな声音で言った。


「まだ慣れませんか」

「うん……まぁ、ね。やっぱり恥ずかしいよ」


 日に一度、明楽の体を濡れたタオルで拭く。

 看護師の仕事だったが、当然和葉がそんなことを許すはずもない。明楽の肌に他人が触れることはもちろん、見られることすら許せないのだ。困惑する看護師を締め出して以来、和葉の仕事になりつつあった。


「まぁ、今はまだそれでも構いませんけれど……でも私には、恥ずかしいとか思って欲しくないです」


 慣れた手つきで少年のパジャマのボタンを外す。

 真っ白い肌が目に入った。綺麗な鎖骨が覗いて、さらにボタンを外していくと薄い胸が露わになる。全て外し終えた頃には、目を背けたくなるような傷跡が姿を現していた。


 新しい傷から、古い傷痕まで。

 長い間酷く傷付けられていた証だ。切り傷に刺し傷、背中にはタバコを押し付けられた火傷の痕もあった。傷は胸の下から体全体を覆うように付けられていて、服を着れば隠せるようにしてある事に、和葉は言いようのない不快感を覚えた。


 そっと触れる。

 滑らかな肌に、歪な凹凸。

 加虐的な趣味がない和葉は、唇を噛んで首を振った。


「……痛いですか?」

「いや、そうでもないよ。もう治りかけみたいなもんだしね」

「そうですか。それなら……いえ、何でもないです」


 言いかけて、止めた。

 良かったです、と言おうとして、口を噤んだ。良いワケがないのだ。攫われて、理不尽に傷付けられて、その傷がもうすぐ治りそうだから良かったですね、だなんて。 


「また、傷が残ってしまいますね」

「うん」

「あまり半袖は着ない方がいいかもしれません。腕の所、少し見えちゃいそうですから」


 ゆっくり、恐る恐る傷跡に触れた。

 刃物で突き刺された傷は、少年の二の腕辺りにはっきりと痕として残ってしまっていた。

 いくつかは浅かったようで、見えても気付かない程度には治るだろう。それでも深く抉られただろう部分はあって、明楽にとっては隠しておきたい傷跡だろうと思った。


 少年の反応を見ながら、優しく指先で撫でた。

 くすぐったそうにしているが、痛みはないようだ。少しだけ安堵してから、和葉はぬるま湯に浸したタオルを絞った。口にはしないが、明楽は傷跡に触れられるのを好まないのだ。これ以上は良い顔をしないだろうからと、さっさと体を拭くことにした。


「…………」

「…………」


 しばらく、無言の時間が流れた。

 痛まないようにと丁寧に拭くため、どうしても時間がかかってしまう。明楽自身が体を拭いてもらうといった行為を良く思ってないからか、和葉露骨に嬉しそうに出来ず、ただ黙々と拭くしかなかった。


 背中を拭き終わったところで、明楽がぽつりと呟き出した。


「……僕は、海とか行けないからさ」

「はい」

「ごめんね。きっと、行きたかったよね」

「あぁ、そんな事ですか」


 そんな事、ではないけれど。

 和葉はお道化るように、思い切り笑顔を見せた。


「問題ありません。いざとなればウチのプールで泳げばいいんです。プライベートビーチも持ってますし、完全に二人きりなら誰にも見られるコトはありませんから」


 それならどうですか、と和葉が言った。

 少年の背後から、抱き締めるように腕を伸ばす。小さな体躯と少し火照った体温を感じながら、鼻先を耳元に擦り付けた。相変わらずの甘ったるい匂いを胸いっぱいに吸い込んで、さらさらの髪に顔を埋めた。


「うん」

「私だけは、傷付けませんから」

「うん」

「今まで幸せになれなかった分、私が幸せにしますから」

「うん」

「私が、絶対にします。だから明楽くんも、私だけを見ていてくださいね」


 うん、と少年は答えた。

 少しだけ腕に力を込めて、抱き締める。彼の胸が強く鼓動しているのが分かった。


「この傷も全部、貴方の全てを愛してます」


 そっと背中に口づける。

 ぴくりと跳ねた少年の体を逃がさないように、自分の気持ちを唇に込めて。伝わるとは思わないが、伝わって欲しいと心の底から思った。

 

 明楽は一言だって、愛してるとは答えてくれなかった。











 結局体を拭き終わるまで、明楽は何も言わなかった。

 正直に言えば、明確な答えが欲しかった。「自分も愛している」と言って欲しかった。そんなことを面と向かって言えるようなタイプではないにしろ、自分の想いが伝わってないような不安を覚えるのだ。

 

(明楽くんは、どう思ってるのでしょうか)


 明楽は自分の意思を表に出そうとはしない。

 心の中でどう思っていようが、口に出すことは滅多にない。

 彼の境遇を考えれば当然だ。何を言っても「口答え」にしかならず、言ったが最後、もっと酷い地獄を見るだけなのだ。となれば本音は胸の内に仕舞って、本心は奥底に閉じ込めるしかない。

 その習慣は今も変わらず、彼の心を縛り付けているようだった。


「明楽くん」


 なに、と少年は笑顔を向けた。

 彼は誰にでも同じ笑顔を見せる。友人にも、見知らぬ赤の他人にも。自分だけが特別ではないのだと思い知らされたのは、彼と恋人同士となってすぐだった。


「もうすぐリハビリですね」

「うん、そうだね。やっぱり辛いのかなぁ」

「先生は辛いと言ってましたけど……大丈夫です。私が付いてますから」


 違う。

 そんな事が言いたいんじゃなくて。


「うん、ありがとう」

「頑張りましょうね」


 頑張らなくたっていい。

 一生歩けなくても、自分が死ぬまで傍にいる。働けなくたって、学校を辞めたっていい。ずっと自分の傍で、自分にだけ笑顔を向けてくれるだけで。


「早く学校に戻らないと。勉強、進んでるだろうし」

「夏休みは一緒にお勉強ですね」


 勉強なんか要らない。

 馬鹿でも構わない。ただ自分だけを愛してくれるのなら、日々息をするだけでもいい。


 窓の外を眺める明楽に、和葉は強い歯痒さを感じた。

 


―――今貴方は、何を考えているんですか。



 ほんの少しでも、彼の考えていることが分かれば。

 胸に仄暗く灯った火も、少しは晴れてくれるのだろうか。


(なんて、分かるわけないんですけど)

 

 明楽はきっと何も言わない。

 告白に応えてくれた以上、好意がない訳ではないだろうが、それがどの程度なのかは分からない。もしかしたら菖蒲と大差ないのかもしれない。背後でけたけたと嗤うアイツが、自分の不安に付け込んではそう囁くのだ。


「早く帰りたいなぁ」

「……そうですね」


 それは、二人きりの生活は嫌だってことですか。

 私から離れて、あの姉の元に帰りたいってことですか。


 きっと杞憂だ。

 そんな事思っているはずがない。彼は優しいから、肉親の心配をしているだけ。

 そう頭の中では理解していても、心がそれを否定する。火がまた一層大きく揺らめいて、不安の炎が勢いを増すのだ。


 和葉はそれ以上何も言わず、少年の横顔を見つめた。

 手持無沙汰になった両手でシーツを強く握った。歪な皺が広がって、小さな音を立てて破れた。少年の前でなければ、全てびりびりに破いてしまいたかった。


(何で……どうして、気持ち悪いの)


 最愛の少年と二人きりだというのに。

 自分の中のもう一人が、悪魔のように嗤っているからか。黒川 菖蒲と同じように、明楽を奪って自分だけのものにしてしまえと叫んでいるからか。


 認めたくない欲望が膨れ上がるのを感じて、和葉は胸を抑えた。


(私は、あんな女とは違うんです……!)


 そう心の中で叫んだ。

 それでももう一人の自分が、真っ赤な口蓋を見せて嘲笑う。


 窓に薄っすらと映る自分が、同じような顔で嗤っていた。


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