和葉Ⅶ

 リハビリは順調だった。

 

 初めこそギプスのせいで固まってしまった筋とか、痛めつけられた筋肉のせいで思うように上手くはいかなかったけれど、ある程度がリハビリが進めば問題なく回復していった。

 

 体の挟むようにして備え付けられた手すりを握って、明楽は車椅子から立ち上がる。

 震える脚にゆっくり力を込めながら、一歩ずつ歩いていく。

 距離は十メートル程。それを端から端まで往復する。疲れたら様子を見て休んで、また歩き出す。それを何度か続けている内に、いつも午前中は終わってしまう。


 面白くもないリハビリを、和葉さんはにこにこしながら眺めていた。

 頑張れ、とか無理しないで、とか。たまに声を掛けては、僕の横から決して離れようとはしない。

 彼女の方を向けば、必ず僕を見つめていた。目を逸らすことも、傍から離れることだってない。食事のときも、トイレのときも、眠るときも。ギプスが取れるようになってからは、一緒のベッドに眠るようになっていた。


 悪い事じゃ無いとは思う。

 恋人同士なのだから、おかしなことではないと彼女は言った。

 実際僕もそう思うし、嫌な訳でもない。ただどうしても、体に染み付いた記憶が蘇ってしまうだけで。


 母のこと。

 黒川先輩のこと。

 和葉さんのこと。


 僕の過去は苦しいことばかりだ。

 大好きだった母さんは、父さんと別れてから壊れてしまった。それでも母さんを何とか助けたくて、何をされても我慢するようにしたけれど、結局僕の方が耐えられなくなってしまった。

 母さんは僕を殴っているときだけ嬉しそうに笑った。笑って、そのあと涙を流しながら僕を犯した。泣きながら、愉しそうに嗤うから僕は我慢した。その時だけは抜け殻みたいになった母さんが、僕を見てくれるから。


 歯が欠けても、血が止まらなくても、骨が折れても。

 たった一人きりで、暗い部屋の隅で膝を抱えているだけの日々は、当時の僕にとっては何よりも恐ろしかったのだ。このまま独りで死んでしまうのが怖かった。だから痛くても、母さんに喜んで欲しかった。


 黒川先輩は、母さんと同じだ。

 僕を必要としてくれるけれど、それは過去の僕なのだ。

 傷付けられることを良しとする僕はもういない。姉さんが僕を連れ出してくれたあの日から、部屋で蹲る僕は死んでしまったのだ。


 だから彼女から逃げ出した。。

 恋人になった和葉さんと共に、自ら望んでここにいる。彼女は僕を傷付けようとはしないし、昔の僕を否定してくれる。それが本当に嬉しかった。


―――たまに強引で、思い込みが激しいところがあるけれど。


 僕は決して彼女の事を嫌ってなんかいない。

 まだ慣れるには時間が必要なだけで、和葉さんを好きって気持ちは変わらない。


 だけれど。


 ただ一つだけ、最近気になっている事がある。

 いつでも僕を見つめる彼女の目のこと。


 真っすぐに僕を見つめる瞳が、どうしてもあの日の母と被るのだ。











 教室の扉を開けると、中にいた生徒の目が一斉にこちらを向いた。


 ざわざわとした雰囲気が一転して静まり返る。

 しんとした教室に足を踏み入れて、和葉は挨拶もしないまま自分の席へと座った。

 いつも通りカバンを開けて、教科書を机の中に仕舞う。

 毅然とした態度は崩したくない。ましてや下世話な噂話程度で揺らぐ女だと思われたくないのだ。


 とは言え、明楽のリハビリに付きっ切りだった一カ月ほ程を体調不良と言う名目で休んでいたためか、クラスメイト達の好奇心はかなり刺激されていたようだ。

 本人たちは聞こえていないつもりだろうが、ひそひそと耳障りな話し声が聞こえる。

 明楽が行方不明になった事はとっくに周知の事実となっていて、それに心を病んで休んでいた、というのが今学校で流行っている噂である。

 そんな彼女が一カ月ぶりに登校してきたのだから、噂が本当だったのかとザワつくのは仕方がないと言えた。


(面倒臭いですね……)


 ちらちらと彼女に視線を送る者。

 目が合った瞬間に逸らす者。

 「私は気にしてません」とばかりに無視する者。


 自分が異物にでもなったかのような感覚は、正直に言えば不快だった。

 好き勝手な噂を流して、それを鵜呑みにして。それをこちらに押し付けるのは如何なものだろうか。言いたいことがあれば言えばいいのに、と露骨に溜息を吐いた。


 と、そんな気まずい空気を押しのけて、一人の女生徒が和葉に声を掛けた。


「おはよ、和葉」

「おはようございます」

「アンタも大変だね。色々言いたい放題だったけど」

「言わせておけばいいんです。気にしてませんし」


 黒い髪をウルフカットにまとめた少女は、土屋 真子といった。

 中学生の頃から仲が良く、和葉の唯一の親友である。さっぱりとした性格で世話焼きな彼女は、当時転校生としてやってきた明楽とも親交があった。


「で、アキは大丈夫なの?」


 和葉の隣―――明楽の席に座って、真子が言った。


「……リハビリもほとんど終わりましたし、普通に歩くだけなら問題ありません」

「リハビリ?怪我でもしたの?」


 和葉は小さく頷いて、苦々しい表情を浮かべた。

 それで察した真子が、肩を竦めて苦笑いした。


「あー……じゃあ、噂はマジだったんだ」

「どんな噂なんです?」

「生徒会長がアキを攫って、駆け落ちしたーとか」

「駆け落ちって部分は置いておくとして、まぁだいたい合ってます。明楽くんを攫って傷付けるだけ傷付けて、あの女は逃げたんですよ。見つけたら地獄を見せてやります」


 額に青筋を立てる和葉に、わお、と真子は芝居がかった反応を見せた。

 和葉の言葉が冗談じゃないことは重々承知している。彼女はやると言ったらやる女で、これだけはっきりと宣言したのだ。相当頭にきているのは明白だった。

 友人としては止めるべきだが、言って止まるような相手じゃない。真子は諦めて、気休め程度の言葉を掛けた。


「いいけどさ。あんまりやり過ぎないでよねー」

「無理です。嫌です。アイツだけは絶対に許さないって決めてるんです……!」

「わー、マジじゃん。アキの事になると見境ないもんねー」

「明楽くんは優しすぎて怒れない人ですから……ところで」


 じっと真子を見つめて、和葉は続けた。 


「そこ、明楽くんの席ですよ」


 先ほどからずっと気になっていたのだ。

 今まではあまり気にならなかったはずなのに、何故か今日は癇に障ってしまう。

 言われた真子も、いきなりの言葉に困惑しているようだった。


「え、うん。そうだけど……え?」

「勝手に座るなんてダメですよ。座りたいならこっちの席にしてください」

「いいじゃん。休んでるんだし」

「いいから、早く」


 笑顔ではあるが、有無を言わさぬ迫力があった。

 真子の経験上、この笑顔は「良くない」笑顔であった。彼女は表面上はほとんど笑顔を張り付けているが、内心は意外と喜怒哀楽が激しかったりする。

 特に敬語が崩れ始めたらアウトなのだ。真子は仕方ないなぁ、と手をひらひらさせて、和葉の左側に座った。


「うーん……なんかさ、アンタ変わった?」

「?」

「いや、なんて言うか……そんなピリピリしてたっけ」

「変わってませんよ。なんですか急に」


 ふふ、と笑って、和葉は教科書を出した。

 タイミング良くチャイムが鳴って、生徒がそれぞれの席に着き始める。真子は何か引っ掛かったような気持ち悪さを感じたものの、「まぁいいや」と言って席に戻っていった。他人の機微には敏感な割には、結構いい加減である。


 やがて教師が入ってきて、出席を取り始めた。

 体調の心配をされたが、問題ないと素っ気なく応えた。どうせ本心では気にもしていないのだから、真面目に対応する方がバカらしい。

 当然ではあったが、明楽の名前は呼ばれない。和葉は唇を噛んで俯いた。


(明楽くん……)


 右隣の席に目を向ける。

 空っぽの椅子と机が、どうしても寂しく感じてしまう。

 本当なら目が合って、照れ臭そうにはにかむ恋人がいるはずだったのに。


 もう一度チャイムが鳴って、ホームルームが終わる。

 教室を出ようとする教師に向かって、和葉は無意識のうちに早退する旨を伝えていた。











「桐生さん!」


 手早くカバンに教科書を詰めて出ていった彼女を、二人の男子生徒が追い掛けた。

 パーカーを着た軽薄そうな生徒と、体格のいい真面目そうな生徒だ。明楽の友人である二人―――真也と和馬は、足早に去っていこうとする和葉を呼び止めたのだった。


「竜崎くんに……成宮くんですか。どうしました?私、あまり体調が良くなくて」

「悪ぃ、でもどうしても訊きたいことがあってさ。桐生さん、ホントは明楽のとこ行くんだろ?」


 金髪をツーブロックでまとめた真也が、息を弾ませていった。どうやら走ってきたようだが、普段から運動をしない彼には中々堪えたらしい。

 対する和葉は一瞬言葉を詰まらせた。正直に言おうかどうか迷ったが、彼らは明楽の親友である。嘘をつく理由も思い当たらず、正直に答える事にした。


「……そうですけど。だから何です?」


 言葉が刺々しくなってしまうのは無意識だった。

 今すぐ彼の元へ行きたいのだ。こんなところで時間を無駄にしたくない。

 冷たい答えにたじろぐ真也を制して、和馬が口を出した。


「すまん、急いでるのは分かってるんだが、俺たちもアイツの事が心配なんだ。行くなら俺たちも一緒に行きたい」

「授業はどうするんですか」

「サボればいいって。俺は常習犯だし、和馬は出席日数余裕だし。っていうか、桐生さんも人の事言えないでしょ」

「頼む。いきなりいなくなって、行方不明だの攫われただのって話ばかりだったんだ。心配するのは友人として当然だろう」

「…………」


 口元に手を当てて、和葉は考えた。

 明楽を心配してくれるのは素直に嬉しいし(もちろん彼らが男だからではあるが)、きっと会わせれば明楽も喜ぶだろう。

 が、連れて行けば二人きりの時間が減ってしまうのも事実だ。天秤は大きく傾いてはいるものの、断る口実も思いつかない。ほとんど詰みであった。


(明楽くんが喜ぶなら……まぁ、一回くらいなら大目に見てもいいですか。さっさと帰してしまえばいいですしね)


 仕方ない、と溜息。

 本当にしぶしぶといった様子で、和葉は頷いた。


「……もう。分かりました。その代わり明楽くんはまだ病み上がりなんです。少し話したら帰るって約束してください」


 わかった、と和馬が言った。

 続けて真也も大げさに頷く。カバンを取ってくると言い残して、彼らは教室へと走っていった。

 

 再び始業のチャイムが鳴った。

 もうすぐ職員室から教師がぞろぞろと出てくるだろう。廊下で待ってればあれこれ聞かれるのは分かり切っている。彼らの連絡先は知らないが、校門で待っていれば気付くだろうと思って、和葉は歩き出した。


(男友達だからって、油断し過ぎたかもしれませんね。あんまり頻度が高いようなら考えないと……)


 明楽にデートを断られたときを思い出した。

 「先に約束してたから」だったり、「友達に誘われてるんだ」だったり。一緒に着いていってもいいかと尋ねても、少年は困ったように笑みを浮かべるばかりだった。

 男同士の友情や暗黙の了解はあるのだろうが、和葉からしてみればそんなモノは邪魔でしかないのだ。自分と明楽の時間を奪おうとしているのであれば、友人なんていなくて良いとさえ思う。


 特にあの二人にはあまり良い感情を持っていないのである。

 明楽が彼らを親友と呼んで、厚い信頼を寄せているのは理解している。邪魔だからと言って遠ざけるにはリスクが高過ぎるし、放っておけば今後も彼らに時間を奪われるだろう。どちらも和葉には耐え難かった。


 ぎしり、と爪を噛む。

 丁寧に手入れされたネイルが欠けてしまうが、気にしない。菖蒲の一件が終わったら終わったで、対処しなければならない事が山積みなのだ。早く彼と甘い時間を過ごして、ストレスを吹き飛ばしたかった。


(まぁ、今はいいです。その内何とかしないといけませんけど)


 とにかく、今は明楽のほうが優先だ。

 友人の間引きなど何時でもできる。彼との距離が近い相手だろうが、やる事は変わらないのだ。



―――そう、いつものように、要らないものは捨ててしまえ。



 校門について、腕時計を見る。

 午前九時になった辺りだった。和葉はスマートフォンを取り出して、世話役のメイドにメッセージを送った。一言だけ「迎えに来てください」とだけ告げる。間を置かずにすぐに返事が返ってきた。

 

『五分で着きますので』


 自宅からにしてはやけに早すぎる。

 と思ってすぐに、「またか」と納得した。


「真琴さん、またサボってたんですね」


 彼女は頻繁に仕事を抜け出しては甘いものを食べに行ったりするのだが、今回はそのサボり癖に感謝である。

 程なくして、黒塗りのセダンがやってきた。丁度タイミングよく真也と和馬も到着した。先に行くなら言ってくれ、と文句を言っていたが、和葉は笑って無視をした。


 空は快晴。

 今日も浮かない気分で、和葉は車に乗り込んだ。

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