1章 / 菖蒲Ⅹ
「私ね、明楽さんのこと、本当に好きだったの」
菖蒲は小さく、優しく明楽に囁いた。
自分でも驚くくらいの甘い声。年相応の少女らしさを含んだ、彼女の本心だった。
「嘘じゃないわ。優しくて、可愛くて、頑張り屋さんで。同じ傷を持ってるって知ったときは運命だと思った。貴方と出会うために生まれてきたんだって、本気で信じてたわ」
カーテンが閉め切られた部屋は薄暗く、噎せ返るくらいに暑かった。
菖蒲は扉の鍵を閉めた。かちゃり、と音が鳴って、しばらく扉の方を向いたまま立ち尽くした。
「明楽さんも同じ気持ちになってくれると思った。最初は辛くても、すぐに受け入れてくれるって。私がそうだったみたいに。けど、やっぱり貴方は違うのね」
俯いて、そう呟く。
握られてた手から血が滲んだ。一筋の線が流れ、数滴床に落ちていった。
「先輩、僕は―――」
「でもいいの……いいえ、良くはないけれど、もうおしまいだものね。遅くて半日、早くて数時間くらいかしら。あの女が来たら、この生活も終わり。明楽さんは元の生活に戻るけれど、私はどこかに逃げなきゃならない」
明楽の言葉を遮って、菖蒲は自虐的に笑った。
背を向けたままで振り向こうとはしない。明楽に顔を見せる勇気がなかった。
「たった十日よ。ずっと欲しかった物が手に入りかけて、それなのにたったこれっぽっちで終わってしまうなんて」
いや、と首を振る。
くすくすと嗤って、ゆっくりと振り向いた。
少年は息を呑んだ。
今まで見た事のない顔だったのだ。
凛として、いつも余裕たっぷりの笑みを浮かべる彼女。切れ長の目を光らせて、厳しい態度を崩さない彼女。この部屋に来て知った、狂気的でも何処か奔放な笑みを浮かべる彼女。そのどれでもない菖蒲が、目の前にいた。
「明楽さんは私を愛してくれなかったものね。一度だって、私を受け入れてくれようとはしてくれなかった。こんなに愛してるのに」
ぽろぽろと涙が零れる。
やり方は間違っていたかもしれない。普通じゃなかったことくらい、流石に分かっている。それでもこれしか方法を知らなかったから、こうするしかなかったのだ。
ゆっくりと明楽へ歩み寄った。
少年はどうしていいか分からなかった。目の前の女性が、自分の知っている菖蒲に戻ったような気がしたのだ。嗤って暴力を振るう彼女が夢だったかのように。
菖蒲が少年を見下ろす。
頭の中はぐちゃぐちゃで、今自分が何を考えてるかも分からない。何故泣いているのかも、喋っていることさえ、自分じゃない誰かが離しているような感覚。
大粒の涙が頬を伝って、明楽の額を濡らした。辛そうに歪んだ唇が、最後の望みを零した。
「……これで最後になるから。だから、今だけは私を受け入れてくれる?」
薄暗い部屋の中で、銀色が鈍く光った。
♪
愛しているから、傷を付ける。
普通の人が聞けば矛盾しているのだろう。
何を言っているんだと眉を顰めて、嫌悪感を露わにするかもしれない。そういう性癖が認められる世界もあるが、大抵の人は違うはず。
―――まあ、そんなことはとっくの前から分かっていた。
自分が普通じゃないことなんて、言われなくても理解しているのだ。
「でも、だからって普通に好きになるなんて、どうしたらいいか分からないじゃない」
少年が後ずさりをした。
隠しようのない恐怖の色を浮かべて、唇から小さな悲鳴が漏れ出る。
彼女の手に光るのは刃渡り十五センチほどのナイフ。ベッド下の衣装ケースにはもっと大きな刃物もあるし、およそ拷問に使われるような器具も用意してある。使うつもりはなかった―――あるいは使ったとしてももっと先になると思っていたけれど。今となってはどうでもいいか、と笑ってしまう。
「私だって、普通に恋したかった。一緒にデートとか家で勉強とか、旅行とかも行きたかった。笑い合って、キスして、セックスして。抱き合いながら好きって言いたかった」
胸の中で渦巻いていた感情が溢れ出す。
嗚咽が止まらず、涙は大粒となって頬を流れる。潤んだ視界のせいで、少年の顔が見えなかった。
「でもダメなのよ。分からないの。好きだって思うと、どうしても傷付けたくなるの。傷がないと、愛してるって感じないの……」
あの男のせいで。
自分は歪んでしまった。母に捨てられ、男に玩具にされて。
それを受け入れてしまった自分のせいで。
「明楽さんも同じだと思ったのに」
同じ過去を経験した彼なら、きっと同じように歪んでると思ったのだ。
多くの時間を共にして、笑いかけてくれる彼なら。自分を理解して受け入れてくれると思った。そう願ったのに。
「違うのね。結局貴方も、父と同じように私から離れていくのね。私を捨てた母のように、私を受け入れてくれなかったアイツのように」
少年の背が壁に当たる。
菖蒲は歩みを止めず、少年に追い被さるように膝をついた。
「ひ、っ……」
「怖い?」
「先輩、こんなのもう……ッ」
「止めない。ごめんなさい、明楽さん。もう私も、何がしたいのか分からないの」
言って、ナイフを逆手に持つ。
ほんの少しだけ勢いをつけて、明楽の腿に突き立てた。
―――ずぶり。
女性よりも柔らかそうな肌に、銀色のそれが刺し込まれた。
「あああぁぁッ!」
少年が絶叫する。
刃渡りの半分程が体の中を突き破っていく。ぐりぐりと捻じられるだけで、熱に近い痛みが容赦なく少年を責め立た。
「ふふ、あはははっ」
「やだ、やめっ、……あああッ!」
ナイフ抜くと、刃にべっとりとした赤黒い血が纏わり付いていた。
鼻に付く鉄の匂いに体が震える。これが愛する少年のモノだと思うと、余計に興奮を覚える。
涙を流す明楽を見つめながら、今度は反対の足を突き刺した。
ずぶり、と掌に感じる抵抗が愛おしかった。自分が彼を傷付けている実感と、彼自身を支配しているような感覚。半狂乱になりながら逃げだそうとする彼も、喉が裂けるかと思うくらいに叫ぶ彼も、全てを手にしているのだ。
「あぁ、やっぱり素敵。もっと叫んで、泣いて、喚いて。死ぬ間際まで、私だけを見て……!」
刺して、抜いて、また突き立てては引き抜く。
振るう度に血が飛び散って、壁や床を汚していく。構うものか、と菖蒲は嗤った。どうせ最後なのだ。ぐちゃぐちゃに汚したところでもう困りはしないのだ。
明楽は必至に抵抗した。
付き飛ばそうと手を伸ばす。非力な少年では体を揺らす程度にしかならなかったが、それで十分だった。よろめいた彼女の隙をついて逃げようとした。
「あぁぁ、いっ、たぁッ……!」
何度も刺された脚では立つことはままならない。
力だって欠片も入らなかった。せいぜいが這いずる程度で、菖蒲は歪な笑みを浮かべながら明楽を眺めた。
「まだ抵抗なんかして……その脚で逃げられると思ってるのかしら。そんなに可愛らしく足掻かれたら、私だって我慢できなくなるじゃない」
這い蹲って逃げる明楽の背を踏み付ける。
遠慮なんてない。思い切り、体重の乗せてやる。咳き込む明楽を何度も踏みにじった。それでも逃げようと藻掻く少年の顔を思い切り踏み付けてやった。鈍い音を立てて何度も何度も。ボールのように蹴れば、まるでその通りに弾けた。
「あはッ。だぁいじょうぶよ。人間そんな簡単に死んだりしないわ。私も壊れなかったし、アイツもこの程度じゃまだまだピンピンしてたもの。血だってまだまだ流せるわ」
心底楽しかった。
床に零れた小さな血だまりを掬って、見せつけるように下で舐め取る。
舌にどろりとした重さを感じながら、喉を鳴らして飲み下した。
「ん、にがぁい。でも甘いのね。ふふっ、明楽さんも飲んでみる?」
髪を掴んで、思い切り引き上げる。
ぶちぶちと音を立てて切れる髪が心地良く、思い切り背を反らせるまで引っ張ってやる。菖蒲は血を口に含んで、少年の唇に食らい付いた。
「ん、ふふふふ」
塗り込むように。
舌に絡ませた血を、唇から咥内へ。唇に伝わる悲鳴が嬉しくて、菖蒲は貪るようにキスを楽しんだ。
血に塗れた唇に噛み付く。
手加減なんて考える余裕もなかった。柔らかな唇が耐え切れず血を零すまで、小さく蠢く舌を噛み千切る寸前まで。零れた唾液は舐め取って、頬や首に歯を立てた。
「ン、ぷはぁ……あら、あらあらあら。楽しくない?痛い?怖い?ごめんなさい、もうどうでもいいの。貴方がどう思おうが、どうだっていいのよ、もう」
ぶかぶかのシャツの襟首を掴んで、地面へ押し付ける。
がつん、と鈍い音がするが知ったことじゃなかった。何度も何度も叩きつけて、菖蒲はけらけらと嗤った。自分の唇に付いた血を指先でなぞって、少年の目元に拭ってやる。まるでハロウィンのメイクのように、真っ赤なアイシャドウが少年を彩った。
可愛い、と素直に思う。
自分を裏切った愚かな少年。やり直そうにも手遅れで、もうどうしようもなくなってしまった。ならこのガラス細工みたいな玩具を、限られた時間で楽しみつくしてしまえ。
「大好きなアレ、今日も使いましょうか。どうせ死ぬかもしれないんだから、いつもより多くてもいいわよね?」
少年の髪を掴んだまま、ベッドへと引き摺って行く。
ベッド下の衣装ケースを開けた。何本もの刃物や玩具、見ただけで身も凍るような拷問器具の中に、数本の注射器があった。二本まとめて手に取って、ゴムカバーを口で取った。
「動いちゃだめよ?」
「いや、いやだ、ッ……やめッ」
「動くなって言ってるでしょ」
暴れようとした少年の腹部を蹴り飛ばす。
胸の中の空気が一気に吹き飛んだ。呼吸が出来なくなって、耐え難い吐き気が襲い掛かる。身を捩ろうとも許されず、それが菖蒲をより一層興奮させた。
「あー、もう……腕だけ出せばいいのよ、ほらッ」
「あ、あああああぁッ!!」
手首を掴んで、二の腕辺りを踏み付けたまま、引っ張り上げるだけ。
それだけで簡単に少年の腕は折れた。ぼきりと響くような音が体中を駆け巡った。痛みよりも自分の腕がおかしな方向へ曲がっているのを見て、明楽は泣き叫んだ。
菖蒲は嗤った。
嗤って、シリンジ二本分、ぷらぷらと揺れる腕に手早く打ち込んだ。
すぐに少年の体を駆け巡って、今までにない程の衝撃が体を支配する。痛みは増し、体は燃えてしまうかもと思うくらいに熱くなる。視界がぐにゃりと歪んだと思ったら、頭の中がぐずりと溶け出したように感じた。
「はっ、はっ、はっ、……ぅあ、あああ」
「あは、良いわ。とてもとても素敵。……ねえ、最後だし好きにしてもいいわよね?」
真っ赤な舌が明楽の頬を這い上がる。唾液と血の混じった痕がゆっくりと引かれて、菖蒲はけたけたと高笑いした。
暴れる少年に馬乗りになって、衣装ケースを引き寄せた。乱暴にひっくり返すと不快な金属音が部屋に響く。床に散らばったナイフを手に取り、また狂ったように嗤った。
覚悟はある。
いずれこうなるだろうと、心のどこかで理解していた。
きっと自分は少年を殺してしまう。好きだから、愛しているから、遅かれ早かれ彼を殺してしまうのだ。
それが一週間後なのか、十年後なのかは分からなかったけれど。イレギュラーがあったとはいえ、まさか十日後とは思わなかったけれど。
(もういい。楽しむだけ楽しんで、全部壊れてしまえばいい)
全てが手遅れなのだ。
あんな家に生まれてきたこと。
あの男に犯されたこと。
明楽を好きになってしまったこと。
今こうして、彼を傷付けてしまっていることも。やり直しの利かない、狂った少女の末路だ。
「さぁ明楽さん。死ぬまで一緒に、愉しみましょう?」
涙を流した少女が、手に持った銀を思い切り振り抜いた。
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