菖蒲Ⅸ
私は人生で一度も嘘を吐いたことがない。
比喩ではなく、本気で。
適当な誤魔化しも、誰かのために良かれと思っての嘘も。
ただの一度だって吐いたことはなかった。
理由は単純で、ただ嘘が嫌いだったから。
父はよく私に嘘を吐いていたし、母も同様だった。
話す言葉の大半が嘘ばかり。その度に私は全身を嫌悪感に塗りたくられたような気分になって、洗面台へと駆け込むのだ。
父も、母も、あの男も。
優しく笑う先輩も、初めてできた友人も。
物心ついた後も、学校へ通うようになっても、私の周りは嘘吐きばかりだ。
そんな中で、彼だけは違っていた。
取り繕わず、正直で誤魔化さない。
一年間付き合ってきたが、彼が嘘を吐くところは見たことがなかった。
調べれば彼も私と同じような過去を持っていた。傷付けられて、誰かの良いように扱われる玩具。
だから私と同じように嘘が嫌いなのだ。きっと彼も母親からの暴力と凌辱の日々を送る中で、何度も嘘を吐かれたはずだから。
だから好きになった。
精一杯の愛を、彼に与えたかった。
同じ傷を舐めて、永遠に二人きりの世界で過ごしたかった。
彼もそれに応えてくれている。
今はまだ色々と受け止められないかもしれないけれど、すぐに気付くだろう。
私の愛がホンモノで、これこそが愛するということだと。同じ過去を持つ私だからこそ、彼を本当に愛することができるのだと。
私がかつてそうされたように。
私がかつてそうしたように。
今度は失敗しない。
嘘も裏切りはもうたくさんだ。
♪
画面に表示されたのは、見知らぬ番号だった。
雪那は少し考えてから、無視することにした。
仕事上、登録外の番号からかかってくる事はよくある事だ。が、今は休暇中だし、それよりも遥かに重要な問題を抱えている。仕事なんかに構ってられなかった。
「誰からです?」
イライラした様子で、和葉が訪ねる。
雪那の自宅、リビングのソファに我が物顔で座る彼女は、相変わらず機嫌が悪そうだ。
協力すると言った手前邪険には出来ないが、もう少し愛想良くしてもいいだろうと思う。実際言ってやったのだが、効果はこれっぽっちもなかった。
溜息を吐いて、雪那が答えた。
「別に。仕事か何かだろう。知らない番号だった」
「出なくて良いのですか?私は気にしませんよ?」
「面倒臭い」
出たら出たでまた怒り出すくせに、とは言わない。
スマートフォンを少し弄るだけで睨んでくるのだ。こんな小娘に気を遣わなければならないのは気に食わないが、彼女と手を組んでいた方が遥かに明楽を探し出せる確率はあがる。それまではこの程度の屈辱は何てことない。
―――♪
再び電話が鳴る。
見れば、また同じ番号からだった。連続での電話に、雪那の頭に血が昇る。要件なら留守電かメールで寄越せばいいのに、ちくしょう。
「…………」
終話ボタンをタップしようとして、ふと考える。
普段なら、電話に出れなければメールかメッセージアプリで連絡が来る。客先であれば仕事用の電話番号にかかるはず。であれば、この電話はある種のイレギュラーなのである。
気になったのは、僅かな胸騒ぎ。
じろりと視線を送る和葉を睨み返しながら、通話ボタンをタップした。
「もしもし?」
『もしもし、姉さん……良かった、出てくれたぁ……!』
「……明楽?」
うん、と小さな声で返事をする弟に、雪那は思わず立ち上がる。
全身が粟立った。ぼうっとした思考は一気にクリアになって、考えるよりも先に言葉で出た。
「明楽なんだな!?今どこにいる?怪我とかないか?電話してるってことは、逃げてきたんだな?」
「は、え、明楽くんからなんです!?」
「黙ってろ、聞こえないだろ!」
和葉にも聞こえるよう、雪那はスピーカーをオンにする。
電波が悪いのか音質は悪いものの、電話の向こうから聞こえるのは紛れもなく明楽の声だった。
『今、先輩がお風呂入ってて、なんでかスマホを忘れてったみたいで、電話かけてて……!』
「そうか……いや、分かった。時間がないんだな」
「明楽くん、今どこにいるんですか!助けに行きますから、早く教えてください!」
『場所は僕も分からないんだけど、すごく遠いらしくて―――』
ああもう、と和葉が苛立つ。
やっと辿り着いたのに、はっきりとした情報が何一つ出てこないのだ。やり場のない憤りが胸中を渦巻くが、それを明楽にぶつける訳にもいかない。
冷静さを欠いた和葉を制して、雪那は頭をフル回転させて言葉を続けた。
「GPSをオンにしろ。地図アプリか何かで居場所が分かるはずだ。前に出かけたとき、使ったのは覚えてるな?」
『うん。覚えてる、と思う……えっと、これかな』
電話は繋げたまま、明楽は地図アプリを操作した。
数秒の読み込みの後で自身の居場所を示した矢印が現れる。画面には小さく住所が表示されていた。
『あった、〇県×市……〇〇町の―――』
「よし、分かった。今すぐそっちに向かうから、お前は大人しくしていろ。いいか、くれぐれもバレるなよ」
『うん……』
「明楽くん、聞こえますか!?そこなら数時間もあれば着きますから!すぐ助けに行きますから、待っててください!」
『うん、わかった……ごめんね』
言って、和葉はすぐに何処かへ電話を掛け始めた。
ヘリがどうとか、住所を伝えたりもしている。こういう時はやはり協力していて良かったな、と雪那は痛感した。
「すぐに助けてやるから……待ってろ、いいな?」
遠くでドアの開く音。
途端に明楽は電話を切った。きっと菖蒲が戻ったのだろうと推測して、雪那はスマートフォンを握り締める。今この瞬間にも弟が酷い目に遭わされるのではないかと思うと、やり切れない思いでいっぱいだった。
とはいえ、今はそんな感情に浸っている時間はない。
居場所は手に入れた。あとは一秒でも早く明楽の元へ向かうだけだ。
「居場所は分かった。さっさと行こう」
「ええ。ヘリがもうすぐ来ますから、それで向かいます。気付かれるかもしれませんが、逃げる暇なんて与えません」
和葉はカバンを手に取った。
最低限の持ち物だけを手に、早々に外へと出ていく。雪那もそれに倣った。
ヘリの音が聞こえ始めたのは、ほんの数分後のことだった。
♪
「あれ、もう起きてたのね」
髪をバスタオルで拭きながら、菖蒲がリビングへと戻ってきた。
バスローブ姿はやけに妖艶で、言われなければ高校生だなんて気付かないくらいの色香がある。何度も見てはいるが、どうしても慣れない。
目を逸らした明楽に、菖蒲は可笑しそうに笑った。
「お腹空かない?もうお昼過ぎよ」
「いえ、あんまり……あ、いや、そうですね。何か食べたいです」
「……ふふ、おかしな明楽さんね。じゃあ何か軽いものでも作りましょうか」
バスタオルを首にかける。
冷蔵庫を開けて、中身を確認。食材は色々あるが、出来れば簡単に作れてつまめるものがいい。
トマトにレタス。ハムがあって、作り置きのポテトサラダが目に入る。
すぐに思い付くのは一つしかなかった。
「うーん……そうね、サンドイッチがいいかしら。作り方は―――」
アプリで作り方を調べようとして、冷蔵庫を漁る手が止まる。
そう言えばと思い出した。電話をして、スマートフォンを何処に置いた?
部屋をざっと見回した。
先ほどまでの自分は何処で何をしていたのだろう、と思い出していく。
ソファの近くで話して、少しだけ苛立って、そのまま投げたのだ。
じゃあソファにあるはずだと、そちらを向く。少年が座ってこちらを見ていた。怯えた子犬のような目で、目が合った瞬間に伏せる。怯えるのはいつもの事だったが、何故かそれが気になって仕方がなかった。
ぱたん、と冷蔵庫を閉めて、明楽のほうへと歩き出す。
その音に明楽の体がびくりと跳ねた。一歩一歩をゆっくりと踏み締めて歩いてやると、笑えるくらいガタガタと震え出した。それを見て、菖蒲の心に黒く濁ったモノが渦巻き始めた。
「ねえ、明楽さん」
自分でも驚くくらい、冷たい声。
はい、と小さく少年が答えた。
「私はね、明楽さんを疑いたくはないの。こうして何度も体を重ねて、ずっと一緒に暮らしてるんだもの。これから先もそう。だから、私たちの間に余計なモノは混ぜたくないのよ」
「…………」
生まれた疑念は、加速度的に大きくなっていく。
そんなはずはないと誰かが叫んでる一方で、腹の底にいる誰かが許すな、と耳元で囁くのだ。
「言いたいこと、分かるわよね」
少年はまた目を伏せた。
決定的な反応だった。欠片程の小さな疑いは確信となって、菖蒲の心を突き刺した。
明楽の傍に立って、首を傾げて覗き込む。
目はまだ合わない。瞬きを一度もせずに、明楽を見つめる。湿った髪が真っすぐに床へと伸びていった。
「ねえ」
「……っ」
「私のこと、裏切ったりしてないわよね」
耳障りなくらいに少年の歯がかちかちと鳴る。
心臓は張り裂けそうなくらいに鼓動して、冷たい汗が額を流れている。凝視する彼女の真っ黒な目はまるで化け物のように血走っていた。
「ねえ」
「…………」
「ねえ」
「……裏切って、なんか」
「へえ」
「……本当、です。僕は……」
「そう、なら良いの。嘘吐いたり、裏切ってなければ」
この期に及んで。
そう言って、視線はそのまま。
覗き込む顔はピクリとも動かさず、手でソファを探る。目当てのモノを手に取ると、ロックを外して操作し始めた。
がたがた、と音が聞こえるかと思うくらい、体が震えている。
息が苦しい。うまく呼吸が出来なくて、視野がどんどんと狭まってくる。何も言わず、明楽を見つめたままの彼女が、ちらりとスマートフォンを見た。
にたり、と口元が歪む。
真っ赤な口蓋が覗く。白く光る歯が恐ろしかった。
「……ふうん」
「……ぁ、っ」
「知らない番号。しかもついさっき。ふふ、バレちゃったわね?」
「ちがっ―――」
ごっ、と鈍い音。
火花が見えた。
ちかちかと光って、一瞬目の前が白く光る。追うように頬を熱が覆い尽くした。
「明楽さんは嘘を吐かないって思っていたのに」
がん。
もう一度火花が散る。
今度は視界に捉えることができた。女性とは思えない力で、握られた拳が振るわれたのだ。首が捻じ切れるかと思うくらい、顔が弾け飛んだ。
「君が裏切るなんて。もう、ほんと最低ね」
正面から真っすぐに振り下ろされる。
鼻がぼきりと鳴った気がした。すぐに鉄の匂いがして、視界に赤い液体が飛び散るのが見えた。
「まぁ、もう……仕方ないわね。ホント、馬鹿なんだから」
何が、とも言えなかった。
菖蒲はそれきり何も言わず、ひたすら明楽を殴り続けた。
骨が折れても、血で真っ赤に染まっても、ただひたすらに腕を振った。手が痛むようになったら、今度は足で。少年がぴくりとも動かなくなるまで、ひたすらに蹴り続けた。
―――あーあ。
ふふ、と笑みが零れる。
可笑しくもなんともない。ただ何故か、気持ちとは裏腹に笑みが零れた。
菖蒲はほんの少しだけ涙を流して、彼を寝室へと引き摺って行った。
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