2章

明楽Ⅶ / 和葉Ⅲ

 母は優しい人だった。


 いつも笑顔で、髪を梳くように撫でてくれた。父と仲が良く、姉と四人で暮らしていた瞬間は、一番幸せな思い出だ。



―――わたしのかわいいあきら。



 穏やかな声。

 笑顔は昔と変わらないまま、母は少年の髪を掴んだ。

 幼い少年の顔が歪んでも、母は笑った。真っ暗な部屋の中で、自分の子供を何度も殴った。血が飛び散ろうが構わなかった。少年が泣き喚けば余計に酷く暴力を振るった。苛立つとかそんな理由ではなく、ただ夫と同じ顔をした彼が、言葉を放つのが許せなかっただけだ。


 母は父を愛していた。

 心酔して、溺愛して、彼が居なければ生きていけない程に。何故離婚するに至ったかは分からないが、心の中心に空いた穴を埋めるには、夫に似た息子を愛するしかなかった。だがその反面、自分を捨てた彼が憎かったのだ。愛憎入り混じった感情が募り、膨れ上がって、あっけなく弾けた。


 溢れた感情は止められない。

 息子を愛したい気持ちも、憂さ晴らしに似た憎しみも全てが本心だからこそ、彼女は苦しんだ。苦し見抜いて、結局壊れてしまった。



―――あきら。



 顔を見るのが辛いから、家に帰るのは週に一度程度。

 暴力を振るってしまう自分が嫌だから、息子を愛しているから、なるべく会わないようにしていた。

 会ってしまったときは、もうどうしようもない。腹の底から湧き出る憎しみのまま、少年を殴った。自分の半分ほどもない身長の息子を、殴って蹴って切りつけた。アイスピックで刺したこともあれば、延々と水の張った浴槽に顔を沈めたりもした。酷い事をしていると分かっていても、夫の血と面影を持つ彼を許せなかったのだ。


 怒りが少しでも晴れれば、今度は愛しくなる。

 ぐったりとした少年を舐めて、犯した。禁忌だろうが何だろうが知ったことではなかった。気が狂うくらいに愛した男との子供なのだ。母としての自分より、女としての自分が勝った。夫に似た男を、ひたすらに求めていた。


 いつも嗤って、泣きながら。


 菖蒲の姿が、母と被って見えた。











「……っ、ぁ」


 激痛が走る。

 体を動かそうとするだけで、眩暈がするくらいの痛みが襲い掛かった。が、朦朧とした頭にはいい気付けにはなったようだ。徐々にクリアになっていく頭の中で、意外と冷静でいられたのは助かった。


(ここは……)


 夢の中同様、薄暗い部屋だった。

 なんとか首を回して周囲を確認した。白い天井に、周囲をカーテンで仕切られている。背中に感じる柔らかな感触から、ベッドに寝かされているのだと気が付いた。


「うあ、い、ったぁ……」


 口を覆った呼吸器を外して、体を起こす。

 腕に通された管に、ベッドサイドに置かれたナースコール。見覚えのあるシチュエーションだった。母と別れた時のように、病院の一室にいるようだ。


 と、カーテンの向こうでばたばたと物音。

 目を向けるより早く、白いカーテンがばさりと開かれた。


「明楽くんッ!」


 薄闇から現れたのは、ぼさぼさの髪を振り乱した和葉だった。


「和葉、さん」


 掠れてしまったが声は出せた。

 それを聞いた和葉は、堰を切ったように泣き出す。


「はい、私です……あぁ、本当に良かった。ずっと眠ってて、全然起きなくて……心配したんですからぁ……」

「うん……その、ごめんね」


 はい、と涙混じりに笑う和葉。

 目の下は隈が出来ていて、明らかに疲れが見えた。


 痛みを我慢して、明楽は手を伸ばした。

 和葉は少し躊躇った後、彼の手を取った。頬に当てて体温を感じる。目を瞑ると、またぽろぽろと涙が零れた。


「ほんと、ごめんね」

「いえ、いいんです。帰ってきてくれて……もう二度と、絶対離しませんから……!」

「……うん」


 ごめんね、とは言わず、明楽は俯いた。

 しばらくすると、看護師が数名駆け付けた。その後に初老の医者が検査結果や病状を淡々と話していたが、あまり頭に入ってこなかった。瞬きもせずにこちらを見つめっる和葉や、咥え煙草のまま壁にもたれ掛かる雪那が気になったからでも、断続的に襲い掛かる痛みのせいでもない。誰も彼女の事を口にしない事が不安で仕方なかったのだ。


 しばらく入院が必要な旨を告げ、初老の医者は部屋を出ていった。

 残された部屋には明楽と和葉、黙りこくった雪那が残された。


「……心配かけて、ごめんなさい」


 小さな声で、明楽が言った。

 和葉ではなく雪那に向けられたもの。それが分かっていてなお、雪那は目も合わさずに息を吐いた。


「……その」

「まあ、いい。いや、ぜんっぜん良くはないけどな。正直今は腸が煮えくり返ってて冷静じゃないから、ちゃんとした事は言えないけど」

「…………」

「今はいい。ちゃんと……じゃないけど、帰ってきた。今は怪我を治して、ゆっくり休め」


 苦虫を噛み潰した表情を浮かべて、雪那が言った。

 腹の中では色々と複雑な感情が渦巻いているようだったが、今ここでそれを吐き出すつもりはなかった。今の明楽に聞かせるような話でもないし、何より口にするだけで頭が沸騰しそうになるからだ。


 煙草を噛んで、雪那は上着を取る。

 腕時計を確認した。午後九時を回った辺りだった。

 

「私はそろそろ帰るけど、何かあれば連絡しろ。ここは個室だから電話もできる」

「うん、わかった。……ありがとう、姉さん」

「ん」


 一瞥もくれず、雪那は病室を後にする。

 スライド式の扉は音を立てることなく閉まった。気まずい雰囲気は晴れないまま、和葉が明楽の手を握った。


「ねえ、和葉さん」

「はい、何ですか?」

「僕、どうなったのかな。あんまり覚えてなくてさ」

「…………」

「電話して、それから……」


 記憶を探った。

 電話をして、それが菖蒲にバレて。いつもより酷く暴力を受けたのだ。


「刺されて、注射を打たれて……それから、記憶がないんだ。気付いたらここにいた」

「……そう、ですか。そうですね。少し説明しましょうか」


 手を握る力が強くなる。

 薄暗くてあまりよく分からないが、和葉の顔が酷く陰ったように感じた。


「私たちが着いた時には、明楽くん以外誰もいなくて。血だらけで、泡を吹いてて、体中にナイフとか、ドライバーとか、刺さって、て……」

「……っ」

「すぐにヘリに乗せて、近くの病院で治療して……それから、一週間も寝た切りだったんです。どれだけ呼んでも目を覚まさなくって、このまま、死んじゃうんじゃないかって……!」


 嗚咽混じりに、和葉が言葉を続ける。


「脚、だって……っ、ぐちゃぐちゃでっ、腕も、指もっ、おれっ、折れてて……!」

「…………」

「どうしていいか分からなくて……私、明楽くんが居なかったら……ッ」

「ごめん。本当に、ごめんね」


 明楽は和葉の手に自分の手を重ねた。

 包帯とギプスで固められてはいたが、指先が肌に触れた。爪が剥がれていたため痛みが走ったが、構わず手を握った。


「うっ、ぐすっ……」

「治ったら、また学校一緒に行こうね」

「……っ、はいっ」


 それからしばらく手を握り続けて、時計の長針が一周してようやく和葉が泣き止んだ。


 彼女が泣いているところは初めて見る。

 いつも明るく、どことなくマイペースな彼女。映画を観て涙することはあっても、ここまで号泣することはなかった。


 考えていることは同じようで、まじまじと見つめる明楽に和葉がそっぽを向いた。


「あーもう……こんなに泣いてる所を見られるなんて恥ずかしいです」

「うん、ちょっとびっくりした。少し嬉しい気もするけど」

「嬉しい?……なんか明楽くん、意地悪になりました?」

「元からこんなんだけど」

「そうでしたっけ……泣き虫で怖がりで、いつもにこにこして優しい明楽くんしか知りません。野良猫撫でようとして逃げられてへこんだりとか」


 空気が一気に弛緩した。

 張り詰めた雰囲気は霧散して、くすくすと笑う和葉の声が部屋に流れる。明楽もほっと胸を撫で下ろした。


 体はまだ痛む。

 病状を聞く限り、想像以上の怪我だった。退院するのはずっと先になるらしい。

 しばらくして安定したら、家の近くの病院に移ってからリハビリをして、学校に復帰する予定だ。数カ月はかかるが夏休み前には戻れるだろう。休学した分の補習は受ける必要があるだろうが、それは仕方のないことだ。


「学校、楽しみだなぁ」

「休んだ分、勉強しなきゃいけませんね。ちゃんと教えてあげますから、一緒に頑張りましょうね」

「あー……うん、そうだね……」

「嫌なんですか?私と二人っきりは」

「あぁ、違うんだ。そうじゃなくて……」


 しどろもどろになりながら弁明した。

 嫌ではないのは確かだ。嵐の夜のことで少し苦手意識はあったが、今は心配をかけてしまった罪悪感の方が強かった。


 もちろん、面と向かってそんなことは言えない。

 誤魔化そうとして、明楽は笑いながら言った。


「あ、そうだ。生徒会は大丈夫かな。会長もいないし、ぼく、も……」


 言い終わる前に、言葉は尻すぼみになって消えた。

 空気が緩んで油断していたのだ。和やかな雰囲気は久しぶりで、その上話題を変えようと必死だった。まだ少しぼうっとした頭では、話題を選ぶ余裕もなかった。


 マズい、と気付いた時にはもう遅い。

 静かな病室にぎしりと歯ぎしりが聞こえて、明楽は口を噤んだ。


「……なんでですか」


 手に激痛が走る。

 重なった和葉の手がうっすらと赤みがかった。力が籠って、ギプスが軋み出した。明らかに変わった彼女の声音が戦慄いていて、薄闇の中で光る眼が、明楽を睨んで離さなかった。


「あの女が気になりますか」


 いや、と言えず、首を振る。

 本音は気になるが、イエスと言う勇気はない。

 淡々と、だが徐々に語気が強まっていく言葉が、和葉の唇から零れていった。


「何をされたか分かってますよね。攫われて、犯されて、殺されかけたんですよ。自分の脚がどうなっているのかわかりますか。体だって、傷がないところを探す方が大変なのに、それでもあの女が気になるんですか」


 痛みに顔を顰めても、和葉の言葉は止まらない。

 沸々と湧き上がるように、感情が沸騰していた。


「明楽くんを置いて逃げたんですよ。あんな状態の明楽くんを、置いて逃げたんです。我が身大事で、貴方を見捨てたんです。許せる訳ないですよね。大丈夫です。絶対見つけて、思い知らせてやりますから。私の明楽くんにした事を全て後悔させて、殺してくれって喚くまで。大丈夫ですから、安心してください」

「ま、待って。そんなこと―――」

「待ちません。私が甘かったんです。最初から片時でも離れなければ、こんな事にはならなかったんです。心配しないでください。二度とこんな事は起こりませんから。ずっと一緒にいますから。絶対離れません。離れませんから」


 和葉は明楽を見つめ、そう言い切った。

 まるで自分に言い聞かせているかのようだった。今回の件は彼女にとって最も屈辱的で、人生最大の汚点である。最愛の人と言っておきながら、菖蒲が危険だと分かっておきながら、何もできないまま恋人を攫われたのだ。明楽が電話をしなければ、恐らく一生会えなくなっていたかもしれない。そんな未来なら死んだ方がマシだ。


「…………」

「だから、明楽さんも。私から離れないでください。自宅にいるとき以外は、必ず私といてください。本当は一緒に住みたいんですが、お義姉様が許してくれませんでした」

「……まぁ、そうだよね」

「だからこれが最大の譲歩です。今日はまだ目覚めたばかりですから、これからの事は明日話しましょう」


 愛してます、と囁いて、明楽にキスをした。

 唇はまだ裂傷が残っているため、合わせるだけの軽いキス。不満は残るが、これが今は精一杯の愛情表現だった。


 少年の手を離して、和葉はにこりと笑った。

 見慣れた笑顔だ。そのはずなのに、どうしても胸につかえた不安は拭えない。決定的に今までとは何かが変わってしまったと、本能が理解していた。菖蒲のように。


「今日は隣のベッドで寝ますから」

「え、学校とかは……」

「行ってられませんよ。言いましたよね、離れませんって。退院するまで、一緒ですから」


 さも当然だと言うように笑う。

 カーテンで仕切られた先には簡易ベッドが用意してあった。大きなスーツケースがいくつもあって、必要な物は全て運び込まれているようだ。

 それを見て、明楽は心の中で溜息を吐いた。

 きっと病院側にも無理矢理認めさせたのだろう。病室に泊まり込むなんて、普通は認められない。となれば、今はもう諦めるしかなかった。


「大好きです。明楽くん」


 僕もだよ、と言えなかった代わりに、小さく何度も頷いて見せた。













 広い車内で、少女はくすくすと笑っていた。


 少女はスモークガラス越しに空を見上げた。

 丸い月が昇っていて、気持ちのいい夜だ。窓を開けると程よい暖かさの風が車内を流れていく。黒い髪がふわりと舞い上がって、少女はまた笑った。


「……お嬢、窓を」


 運転手の男が言った。

 少女は不満そうにしたが、大人しく従った。夜風は体に障るのだ。特に母体には。


「……明楽さん、今頃目が覚めた頃かしら」


 人形のように転がる少年を思い浮かべた。

 赤に塗れて、至る所に銀色が突き刺さった人形。可愛らしい抵抗はすぐになくなって、されるがままで涙を流す愛しい人。あの部屋を出る直前まで、濃密で最高の時間を過ごしたのだ。


「……今はこれで満足かしら。ふふ、素敵な贈り物も貰ったことだし、ね


 菖蒲は自分のお腹を撫でた。

 大切に、愛おしそうに掌を当てて、ゆっくりと。堪えきれずに笑みが零れた。

 少年との大切な愛の結晶だ。検査などしなくても、宿った事はすぐに分かった。あのぞくりとした瞬間は、今でも忘れられない最高の一瞬だった。


「到着します」


 バックミラー越しに、男と目が合った。

 スーツを着た若い青年だ。何度も会っているらしいが、菖蒲の記憶には残っていなかった。少年以外の男は、蟻と同じくらいに見分けがつかない。名前を覚えるどころではなかった。


 空港のロータリーへと車が入っていく。

 チケットは既に手配済み。行先は父の元だ。きっと驚くだろうが、孫が出来た事は報告しなければ。電話番号も知らないのだから、直接出向くしかない。


「あぁ、楽しみね。全て整ったら、また迎えに行くわ。待っててね、私の明楽さん」


 月に向かって、菖蒲は愉しそうに呟いた。

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